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怪異~終焉を招く少女~  作者: 初瀬 朋多迦
エアフレンド
18/69

第18話 記憶の名

夢を見ていた。

また、同じ夢だった。

小さな神社。ひっそりと佇む木造の社。まるで長い年月の間に忘れられてしまったかのように、そこには誰の気配もなかった。夕暮れの光が長く影を落とし、朱塗りの鳥居は褪せた色で沈黙している。

風が、頬をかすめていく。

神社を見つめる自分がいる。そこに立ち尽くして、ただ見ている。

――いったい、ここはどこだ?

見慣れない風景。けれど、なぜか深く胸に染みついている。名前のない郷愁のように、記憶の奥でぬくもりのように疼く場所。


「……また、この夢か…」

悠人は、ゆっくりと目を覚ました。

世界はすでにざわめきに満ちていた。遠くからサイレンの音が裂くように響いてくる。けたたましく、無遠慮に。現実が、音を立てて迫ってくる。気づけば、警察に追われていた。訳もわからないまま、息を殺し、足音を消しながら裏通りを移動していた。

「なんでこんなことに……。何の容疑だよ。ていうか、これ、本当に現実なのか? 何がどうなってるんだ」

横にいたはずの杏陽子の姿はない。ヨミも見えない。誰もいない。ただ一人、瓦礫と影の街をさまよっていた。それでも、道には見覚えがあった。

そう、ここは……自分の家の近くだ。夕暮れ、長い影。空気の温度まで、あの時と同じだ。最初にそれを見た、あの瞬間へと引き戻されるようだった。

(もしかして――あの場所に、陽子がいるかもしれない)

かすかな希望をたぐり寄せ、彼は足を早めた。そう、たしかにあのとき彼女は、あの角の裏手に身を潜めていた。怪異を待ち伏せしていたのだ。だが、そこには誰もいなかった。代わりに積み上がった段ボールの陰に体を押し込み、身を潜める。まるで、外界の不条理から自分を包み込むように。気づけば、静かに目を閉じていた。


遠くの風の音に、心が溶けていく。

そのまま、うとうとと眠りの淵へと落ちていく。


その時だった。

――「一人に……しないでよ……」

かすかに、風の中に紛れて、声がした。それは確かに、誰かの祈るような、叫ぶような声だった。悠人は目を開け、身を起こした。すぐそばに誰かが立っていた。杏陽子。彼女は泣いていた。その涙を、悠人は初めて見た。出会ったとき、彼女は静かだった。怜悧で、孤独で、感情の起伏を見せないタイプだと思っていた。だが今、彼女の頬を静かに伝うものを、悠人はただ呆然と見つめていた。言葉をかけるタイミングを、逸した。何を言えばいいのかも、わからなかった。


――ガタリ。

足元で小さな音がした。

杏陽子が、はっとこちらを振り返る。その瞳が鋭く悠人を射抜いた。

「ご、ごめん。ここに隠れていたら……眠っちゃってて……」

苦し紛れの言い訳。声が少し上ずった。陽子は何も言わず、しばらく後ろを向いたまま立ち尽くしていた。やがて小さく息を吸い込み、ぽつりと言った。

「……行きましょ。柚里を探して、それから……作戦を成功させないと」

ヨミの姿がない。あの風変わりな存在は、まるで煙のように姿を消していた。けれど、きっとまた現れる――悠人にはそんな気がしていた。

「……なんで俺たち、警察に追われてんだ?」

「この世界の主が、そう仕向けてるんでしょうね。そう考えるのが、妥当」

「嫌われたもんだな」


その時だった。

目の前の空気が歪んだかと思うと、化け物が姿を現した。腕を槍のように伸ばし、牙を剥いて、無音で突っ込んでくる。

一瞬後。疾風が吹いた。刃が閃き、怪異は一刀両断されていた。立っていたのは――ヨミ。その手には、鋭い光を帯びた一振りの日本刀。まるで現実味がなかった。

「おや、こんなところにいたのか。いつまでこんなところで時間を潰すつもりじゃ?」

悠人は言葉を失った。

「……お前、すごいな。怪異については詳しそうだと思ってたけど、こんな……」

「ここにいる奴らは、人と人の間からぽろっと落ちてしまった存在じゃ。相手にしても、しょうがないぞ」

「それ、どういう意味だ?」

「直観じゃよ。迷ったときは、最初の入り口を探せ。一万年生きてきた者の教えじゃ」

「え、一万年……?」

杏陽子が呟く。

悠人は肩をすくめて言った。

「ああ……そういう設定だから」

「設定じゃないわいッ!!」

ヨミの声が響いた。

そして、ふたたび夜が近づいていた。


* * *


「鏡を見つけなさい」

誰かがそう言った。けれど、柚里には、その意味がすぐにはつかめなかった。

鏡――。

当たり前のように、どこにでもあるはずのもの。けれど、この世界には存在しなかった。雨の水たまりも、校舎の窓ガラスも、まるで景色を拒むように鈍く濁り、光を返さない。どこを見ても、何も映っていない。自分の姿も。表情も。輪郭すらも。自分の顔もうまく思い出せない。声もおぼろになり、名前さえ喉の奥でつっかえて出てこない。


(私は……誰?)


風がふいに頬をなでて、耳の奥で遠い声が揺れる。

「鏡を見つけろ。等身大の自分をすっぽり写せる、大きなものだ」

その声とともに、ずっと封じ込めていた何かが胸の奥でゆっくりと融けていく。

まるで薄氷の下に閉じ込められていた記憶が、春を迎えたように。


そうだ。

あの子と、私は――笑い合う仲間だった。

放課後、一緒にコンビニに寄って、他愛のない話をして、くだらないことで笑った。でも、いつの間にか、距離が生まれていた。最近、あの子は璃華子とばかり一緒にいるようになった。ある日、廊下の角で立ち止まったとき、璃華子の声が耳に入った。

「……と一緒にいると楽しい」

何も言えなかった。

言葉は喉で燃えて、音にならず、ただ静かに心のなかで火種が燻った。決定的だったのは――遊ぶ約束をすっぽかされた日。彼女は、まだ気づいてすらいなかった。ついに、柚里は我慢できずに言ってしまった。ふたりきりになった放課後の帰り道。赤く沈みかけた空の下で。

「最近、私たち話す時間が少なくなったよね。どうせ、新しい友達とばっかり遊んでるんでしょ?」

「……何それ?」

「私のこと、もうどうでもいいって思ってるんじゃないの?」

「……なんでそんなこと決めつけるの。全然違うから」

「じゃあ、なんで遊ぶ約束忘れたの?誰とどこ行ってるのかも教えてくれないし」

彼女は口を開きかけて、それでも黙った。

その沈黙が、柚里には答えに思えた。

「……もしほんとに、うまくいってない友達がいるならさ、距離を取るのが一番楽だよ。私に気なんか遣わずに新しい友達と仲良くすればいい。私、いつも孤独だから、気にしないから」

――それは、皮肉だった。

本心なんかじゃなかった。けれど、口から出た瞬間、もう取り消せなかった。

彼女の顔がゆがむ。

「勝手に想像して、それ以上探らないでよ! 私だって理由があるの! 話したくないんじゃなくて、話せないの!」

「……じゃあ、信じろっていうの? 何も説明してくれないのに?」

「もういい。信じてくれなくても。……いつもそう、自分のことばっか。私の話、ちゃんと聞いてくれない。『孤独だから気にしない』って、なにそれ? 一人でいるのがそんなに楽しいんだ? じゃあ一人でいれば!」

「……何も分かってないくせに、分かったようなこと言わないで!」

「柚里とは……もう話したくない!」

衝突。破裂音のような沈黙のあと、彼女は背を向けて歩き去っていった。


その瞬間――


記憶のなかで、何かがはっきりと名を持って立ち上がった。

柚里ゆり……」

わたしの名前だ。どうして、こんな大切なことを忘れていたのだろう。そして、父と交わした最後の言葉が、ふいに思い出された。

「柚里。お前はもう大きくなったから、大丈夫だよな」

「……何も分かってないのに、分かったようなこと言わないで」

あの時の父の顔が、少し驚いたように曇っていた。

それから、父は静かに言った。

「柚里。鏡を見つけろ。等身大の自分をすっぽり写せる、大きなものだ。……本当の鏡じゃないぞ。喧嘩できる親友のことだ。親友がいれば、自分が見えてくる。見えてくれば、直した方がいいところも分かる。お前が朝、鏡の前であーでもないこーでもないってやってるのと同じだよ」


親友。


(お父さん…、私には――親友がいたんだ)

ずっと一緒にいた。

笑い合って、泣き合って、すれ違って、それでも――手を離さなかった。名前は……ずっと喉の奥につかえていたその名前が、ようやくほどけて、言葉になった。

「……葵生あおい

私の鏡は、葵生だった。何もかもが曖昧になっていたこの世界の中で、たしかにひとつ、輪郭が浮かび上がる。葵生の姿が、あの笑顔が、鮮やかに心に立ち上がる。あの朝の通学路。ふたりで並んで歩いた道。肩が時折ぶつかるのが照れくさくて、でもうれしかった。


……なら、璃華子は――誰?

その疑問が胸をひやりと冷やした。


学校に、璃華子はいた。

薄暗い廊下の奥、教室に一人佇んでいた。

柚里は静かに歩み寄り、その名を口にした。

「……葵生は、どこ?」

璃華子の瞳がわずかに揺れる。まるで思いがけない質問を投げかけられた子どものように。

だが、次に浮かべた笑みは、ひどく不自然で、どこか仮面のようだった。

「どうして……? ふふ。不思議ね」

彼女は首をかしげ、唇の端だけで微笑んだ。

「でも、知らないよ。彼女がどこに行ったかなんて、私には関係ないもの」

「……嘘」

「……嘘かもしれないわね」

「ふざけないで」

璃華子は笑った。でもその笑みは、なにかを隠すように脆く、氷のように冷たかった。

「一つ聞きたいの。……そんなこと、どうだってよくない?」

柚里の眉がぴくりと動く。

「どういう意味?」

璃華子の声はさらりとしていた。まるで水の表面をなぞるように、感情の温度が感じられない。

「結局、人は一人で生きていくものよ。いなくなった友人を探すことに、それほどの意味があるとは思えないの」

「……そうね」

その言葉に、柚里はうっすらと頷いた。しかし、それは同意ではなかった。ただ、言葉の底にある違和感を確認するための沈黙だった。

「そうだよ、柚里。あなたは何も間違えてない。大丈夫」

その声は、なぜか優しかった。優しすぎて、不自然だった。

次の瞬間――音もなく、璃華子の手が動いた。銀の光が、空気を裂く。彼女は静かに、けれど迷いなくナイフを抜き、振り下ろした。


……だが。

刃は届かなかった。まるで透明な壁に阻まれるように、鋭利な軌道が途中で弾かれ、流れる。即座に柚里が璃華子の手をはじいて、その軌道を変えたのだ。

「……なに?」

璃華子が戸惑いの声を漏らす。その刹那、柚里はゆっくりと振り返った。その瞳は、どこかすでにすべてを知っていたように深く静まり、言葉より先に、確信の気配を放っていた。

「…やっぱりね」

璃華子の顔がわずかに崩れる。完璧な仮面に、髪の先ほどのヒビが入る。柚里の声は淡々としていたが、そこには確かな怒りと覚悟が混ざっていた。

「葵生は違う。支え合うことを大事にしていた。私が間違ったことを言えば、ちゃんと怒ってくれた。ぶつかって、喧嘩してくれた」

そして、静かに言い放つ。

「あなたのは……優しさじゃない。その正反対」

その言葉が、璃華子の瞳の奥をほんのわずかに揺らす。

「なぜ……?」

その声は、問いというより、感情の漏出だった。柚里は一歩前へ踏み出した。その歩みに、もはや恐れはなかった。


「……どうやら、特制隊がもつ抗異耐性の力は、この世界でも使えるみたいね」

璃華子の目が見開かれる。

「……今度こそ、トドメを刺そうと思ったのに。……一人なんだから。もう存在していないも同然でしょう?」

言い終わると同時に、ふたたびナイフが閃いた。柚里は紙一重でそれを避けるが、次の一閃が腕をかすめた。鮮やかな痛みが走る。だが、柚里はその痛みに目もくれず、全身の力をこめて、反撃の蹴りを放つ。

――命を守るための、懇親の一撃。


璃華子の身体が宙を舞い、教室の隅に吹き飛ぶ。

その身体は、地に落ちる瞬間、まるで殻が崩れるように、ぐにゃりと歪んだ。

「……ああ、そう。そんな答えを選ぶのね」

璃華子は倒れたまま、苦しむことなく笑った。その笑みには、どこか寂しげな温度がにじんでいた。

「でも、もう遅いの。大事な人のことも……最後には皆、忘れてしまうの

……またね、柚里」

その声を残し、璃華子の身体はふっと消えた。まるで、鏡に吸い込まれるように。光も、影も、そして気配さえも残さずに。

……だが、その最後の声は、不思議と温かさを含んでいた。不思議だった。

柚里はその場に立ち尽くしながら、自分の胸に手を当てた。呼吸を整え、傷を確認する。

「……なんとか、大丈夫」

痛みは確かにある。けれど、心は澄んでいた。

そして――ようやくすべてを、思い出せた。

葵生を探すこと。

悠人と杏陽子を見つけ出すこと。

そしてこの、鏡のない奇妙な世界から、抜け出すこと。

怪異は倒した。だが、まだ終わりではない。



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