第17話 灰の男
翌日。
街の空気には、明らかな異変があった。
その男は、また現れた。
今度は――誰かを大きな刃物で刺していた。
分厚いコート、顔を隠し、得体の知れぬ気配に柚里は咄嗟に後ずさりし、璃華子の腕を取って言う。
「璃華子、逃げよう!」
「なに?この人……」
二人は走る。
振り返ると、大男がこちらを追ってきていた。
(まさか……あれが・・・そうだ!怪異だ。怪異って、本当にいるの?)
いつから、柚里はその存在を忘れていたのだろう。思考が追いつかない。ただ、逃げるしかなかった。暫く走ったところで息が切れる。
心臓がバクッバクッと脈を打っていた。
「璃華子……?」
呼びかけても返事はない。混乱の中ではぐれてしまったようだった。柚里は建物の影に身を潜め、そっと通りを覗く。誰もいない。胸をなでおろした、その瞬間。
大男は、目と鼻の先にいた。
柚里は、息を止めた。時間が、止まったように感じた。大男の目は、まるで焼け焦げた灰のような色をしていた。眉間の深い皺は、怒りとも、哀しみともつかぬ苦悶を刻んでいたが、その奥に宿るのは、あまりにも空虚な、言葉の届かぬ深淵だった。
彼は確かにこちらを見ている——だが、その視線が柚里という存在を捉えているのか、それすら定かではなかった。まるで人間の仮面をかぶった別の何か。
「お前は、虚の谷の女だろ。姿を表せ。決着をつけろ!」
突如、低く唸るような声が大気を震わせた。
柚里は息を呑む。
「……なに、言ってるの……? 私は、ただ……ここに、迷い込んできただけなのに」
「嘘をつくな。私の感覚に誤りはない。お前の中に、悪意と憎悪の匂いを感じる」
言葉と共に大男は一歩、柚里へと迫った。灰色の瞳は相変わらず焦点を結ばず、それが却って、不気味な確信を漂わせていた。大男は更に身を屈め、彼女の顔を覗き込むようにして囁く。
「私は知っているぞ。すべてを知っている」
その声に柚里の心が震え、足がすくんだ。抗うように手を振り払う。
「違うって言ってるじゃん! なにも分かってないのに、分かったようなこと言わないで!」
その瞬間、大男の表情が微かに動いた。まるで心の奥に、薄氷がひび割れたような、そんな変化だった。
「……その声……」
大男は低くつぶやくように言った。もう一度、柚里を見つめ直す。そして今度は、まるで今までとはまったく違う角度から彼女を見ているようだった。
「ふむ……お前は、虚の谷の女ではないらしい。声が違う。目の奥も……あれとは違う。……不思議だ。私の感覚に、誤りがあったというのか……?」
男は首を傾げ、しばらく黙った後、まるで独り言のように語り出した。
「この世界は……人と人との谷間に落ちた者たちの行きつく場所だ。ほとんどの者が、ここを現実と錯覚し、気付かぬまま死んでいく……」
「……何を言ってるの……?」
その言葉は柚里の耳に届いたが、意味はまるで掴めなかった。夢の中で誰かに諭されるような、けれど逃れられない重さ。
「ただ一つ、大事なことを教えておこう。鏡を見つけろ。等身大の自分を写す、大きな鏡を。……鏡さえ見つけることができれば——」
その時だった。
彼の目が鋭く細まり、どこか別のものを見据えるような目付きで呟く。
「……そっちか、虚の谷の女め……」
そして、彼の姿は空気のようにふっと、目の前から掻き消えた。
取り残された柚里の膝が崩れる。
重い。まるで身体が鉛になったように、立ち上がれない。息が苦しい。目の前の出来事が現実なのか、幻なのか。
判然としないまま、しばらくすると、誰かの足音が近づいてくる。
「……大丈夫だった?」
璃華子だった。その声に、柚里はかすかに微笑む。
「うん……ありがとう……」
胸の内に、ふつふつと湧きあがる疑念がある——鏡。
さっきの大男が残した言葉。
(そういえば……この世界には、鏡がなかった……?)
そのことに思い至ったとき、柚里の目がゆっくりと見回す。足元の水たまり、通りに面したビルのガラス、ショーウィンドウ。どこにも、反射するものがない。すべてが沈黙のように光を拒み、淀んでいた。
(なんで……今まで気づかなかったんだろう……どうしてこの世界には鏡がないんだろう‥…)
璃華子が静かに言った。
「不動の亡者ね」
「……え?」
「最近、現れるようになったの。不動の亡者、ドウメツ。あれは人じゃない。人を苦しめて、消し去る存在……」
その名を聞いた瞬間、柚里の胸に奇妙な既視感が閃いた。
(ドウメツ……? どこかで、聞いたような……)
璃華子はそのまま続けた。
「柚里、あの人のこと、知ってるの?」
その目が細まり、まるで柚里の心の底を覗くような静けさをたたえていた。
「絶対に話をしてはダメ。あなたのことが……心配で」
その一言に、柚里の胸はふっと軽くなった。
「……そうだ。この世界には……『あれ』がなかったよね……?」
璃華子が眉をひそめた。「あれって、なに?」
「……なんだったっけ。ついさっきまで考えてたのに、思い出せない」
「ふふっ。思い出せないなら、そんなもの最初からなかったんだよ」
「……そう、かもね……」
(でも、ほんとうに?)
柚里の頭の中で、霧が濃くなる。さっきまで考えていたことが思い出せない。何か大事なことだった気がするのに。
なんだっけ・・・もっと根本的な……。
「ねえ、璃華子……」
柚里はぽつりと問いかける。
「私の名前って……なんだったっけ?」
口にしてから、その奇妙さにぞくりとした。
私は何を言っているのだろう。
璃華子がくすりと笑った。その笑いは、氷のように冷たく耳に触れた。
「そんなの、どうでもいいんじゃない?」
彼女の声がまるで濃い霧の中に放り込まれたように、どんどん小さくなっていく。
『…名前なんてなくても、生きていけるでしょ』
かすかに耳の奥で聞こえる。
次の瞬間、音が消えた。風も、声も、自分の心臓の鼓動も。
璃華子の唇が動く。「さ・よ・な・ら」
彼女の目を見た。
そこには柚里の姿は映っておらず、ただ——深く、深く、暗い闇が広がっていた。吸い込まれる。そう思った瞬間、柚里は悟った。
——私は、死ぬのだ。
誰も手を伸ばしてはくれない。誰も、ここにはいない。孤独と虚無が、胸の奥からじわじわと広がっていく。手を伸ばそうとしたが、もうその手が自分にあるのかさえ分からなかった。闇は、静かに、やさしく、柚里を包み込んでいった。
それは、死という名の静寂だった。
* * *
柚里は夢を見ていた。
やわらかな誰かの手を握って、どこか遠くへ出かける夢だった。名前も顔も思い出せないその人と、穏やかな陽の下で笑い合い、風に吹かれて歩いていた。
その瞬間、ぱちりと目が覚めた。灰色の顔が、至近にあった。
「……まだ、なんとかなるか」
男の声は低く、淡々としていた。フードの奥の目は深く暗く、その表情は無機質な石のようだった。
「翠環の郷にお前をひたすことで、お前は助かったのだ」
まぶたの裏にまだ残る夢の残滓をふり払うようにして、柚里はまわりを見回した。そこには、広大な青の森が広がっていた。遠くには、草原のような空地。東京に、こんな場所があっただろうか。
「無心の形骸になってしまったら、それは人に危害を加えはじめる。可哀そうだが、殺すしかないのだ。……君は、まだ間に合う。よかったな」
その男──ドウメツはそう言うと、柚里の体を軽々と持ち上げ、そっと木の幹にもたれかからせた。傍らには、崩れたような灰色の山があった。よく見ると、それは遺体のような塊だった。人だったものの山。目の前には、無数の墓標。
ドウメツは、その間を静かに歩きながら、立ち止まり、言った。
「……彼らは消滅谷には行けなかった。だが、せめてもの弔いだ」
指さした先には、川が流れていた。大きく、濁流に近いその川は、音もなくうねっていた。
「あれは無潮の河。あそこにも、死人が流れ着く。人をまるでモノのように捨てる者がいる。彼らはもはや助からない。モノを簡単に捨てる者は、人もまた簡単に捨てるようになり、ついには自分も捨てられる……」
焚き火の香ばしい匂いが風にのって届く。
「……これを食うか?」
灰の中で炊かれていたのは、黄金色の煮込みだった。腹が鳴った。ずっと何も食べていなかったことに気づく。体が、食べ物を欲している。
柚里は無言で頷いた。
一口、口に入れる。舌にひろがる味──カレーだった。
香ばしくて、少し辛くて、とろみがあって……美味しかった。胸に染みるような、懐かしい味。
「家族みなが、うまいと言ってくれた。もう、家族はいなくなってしまったがね」
「………おいしい」
気づけば、涙が流れていた。理由は、わからなかった。けれど、止まらなかった。
ドウメツはその涙を見ても表情を変えなかった。聞こえていたのかどうかも、わからなかった。
「私は長年、ここでもがいてきた。この世界にはこの世界のルールがある。次第に、目も見えなくなり、耳も聞こえなくなる。自分の姿さえ確認できなくなり……自分が、自分でなくなっていく」
焚き火が、ぱち、と音をたてた。
「私はもはや、人間の残りカスのような存在だ。この世界にはいてはいけない。ここに長くいすぎた。いずれ人ではなくなる。……自分が誰であったのかも、もう思い出せない。ただ、誰かのために、こうしている。……懺悔、というのかもしれない。何に対する懺悔か? それすらももう分からない」
柚里は、彼の横顔を見た。
どこか、寂しさがあった。この男は、ずっと一人だったのだ。誰かの魂を抱え、誰にも知られず、この地で見送ってきたのだ。
「……こうして、私は停留所で待っている。だが、バスはいつも来ない。もう、限界かもしれない」
「え?」
「もう目も見えていない。君の声も、ほとんど聞こえていない。申し訳ないが、君がいま話していたことも、ほとんど聞こえていなかった」
どさりと腰を落とし、長い息を吐く。
「このまま死ねば、私は無心の形骸になる。もしそうなったら……すまないが、私にとどめを刺してほしい」
(……そんなの、無理だよ)
そのとき、遠くから二つの光がゆっくりと近づいてくるのに気が付いた──バスだった。運転席には誰も乗っていない。行く宛先も何も表示がされていないバス。それでもしっかりと木々の間を分けて停留所までやってきて、ゆっくりと音もなく停まった。そして静かにその扉を開けた。
ドウメツの顔が、驚きにゆがむ。わずかに目を見開き、ほんの少し、たじろいだ。柚里の方に向き直り、言った。
「……お別れのようだ。申し訳ないが、お先に失礼するよ。あなたの行く末を祈っている」
差し出された手に、柚里もおそるおそる手を伸ばした。
その手は、以前感じたような冷たさはなかった。むしろ温かかった。柚里の目の前で、ドウメツはバスに乗り込む。
バスは、ごう、と低くうなりながら、扉を閉じた。
車内。ゆっくりとバスが動き出す。そのとき、彼の目に映る世界が、ほんのわずかに色づきはじめた。灰色だった風景が、少しずつ、緑に、空の青に、色を取り戻していく。窓の外をみる。そこに一人の少女が立っていた。さきほどまで会話をしていた少女だ。その姿を見た瞬間、彼の心に何かが強く突き刺さった。
「……柚里」
確かに。そこにいるのは、自分の娘──柚里だった。
長い間、会いたいと願い続けていた。最後に、もう一度だけ、その顔を見たいと願い続けていた、いとおしい娘。涙が、静かに頬を伝った。窓越しに、声にならない言葉を口にする。届かなくても、構わなかった。
『この世界から、早く出なさい。……柚里。ありがとう。今まで、ありがとう』
柚里は、その男の正体に気づくことはなかった。けれど、胸がぎゅっと締めつけられた。なぜだかわからない。けれど、なにかが確かに自分の中からこぼれ落ちそうだった。窓の向こう、男の口元が動いた。聞こえない。でも、やさしい顔をしていた。どこか懐かしい顔。
そのぬくもりを、柚里の掌が覚えていた。
涙が、またこぼれる。
(……ありがとう)
小さく、口の中で呟くと、柚里は深く、静かに頭を下げた。
去っていくバスのあとを、いつまでも見送った。