第16話 存在の霧に呑まれて
車内の全員が、一斉に柚里の方を向いた。
視線が刺さる。けれど、そのどれもが、感情のない、乾いたものだった。
――いや、違う。
視線はたしかに向いているのに、なぜか「見られていない」感覚がする。こちらを見ていながら、誰も、自分という存在を認識していない。視線の雨のなか、まるで自分だけが透明になっているようだった。鼓動が速くなり、指先がふるえる。扉は開かない。乗客は動かない。誰も何も言わない。
(……開かない。なんで……?)
そうしていると、ふいに視界の端で、動く人影が見えた。誰かが、車両のさらに奥から降りたようだった。
目を凝らす。それは――悠人と、杏陽子。そして見たことのない、不思議な衣装をまとった女だった。柚里は声を上げる。
「……あ、あのっ、わたし、柚里と申しますが……あの……!」
杏陽子がきょとんと首をかしげる。
「柚里、どうしたの? 今さら自己紹介なんてして」
その言葉に、柚里の膝が抜けた。心の奥底がゆるんで、崩れ落ちたようだった。ゆっくりと地面にへたり込み、震える唇でつぶやいた。
「……ああ、よかった。私……まだ、生きてる……」
涙は出なかった。でも、あふれそうだった。胸の奥の何かが、ようやく見つけた灯りに手を伸ばしていた。
悠人が眉をひそめる。
「柚里さん、どうしてこんなところに一人で」
柚里は笑った。泣く代わりの、弱々しい笑いだった。
「わからないよ……ほんとに、消えちゃったかと思ったよ…」
ふと、隣の見知らぬ女を指さす。
「ところで……この人、だれ?」
悠人は肩をすくめた。「ヨミっていうんだ。詳しくは俺もよくわからない」
杏陽子も首を横に振る。「私も」
女は、どこか遠くを見るような目で、ゆっくりと口を開いた。
「名前は……ヨミじゃ。だが、わしも自分のことを、よく覚えとらんのじゃ」
柚里はすぐに頷いた。その名前に、何か胸の奥で、共鳴するような響きを感じた。
「……わかります、ヨミさん。私も、変なんです……どんどん、何かを忘れていくような気がして……」
悠人の瞳がわずかに鋭くなる。
「それらは――おそらく、怪異の仕業。このままじゃ……きっと、誰も彼も、名前すら思い出せなくなる」
誰かのことも。自分のことも。すべてを、忘れてしまう前に。
柚里は、こくりと頷いた。まだ、自分が自分でいられるうちに。
「ところで……どうやってここまで来たの?」
柚里が問いかけると、悠人は、ひとつため息をついて頷いた。
「……ああ、それが、さ……」
そして悠人は、あの朝のことを語り出した。
* * *
始まりは、特防局の作戦室だった。
知覚型特異体の兆候が観測され、各担当員が早朝にも関わらず集められた。空はまだ薄く明けきらぬ藍。室内はやけに冷えていた。大型スクリーンには、新たな登録データが表示されていた。
特異体登録番号:0044
通称:エアフレンド
場所は、東京都立高尾南高等学校。
被害報告は、奇妙な違和感として始まっていた。たとえば、教室に30席あるはずなのに、名簿には29人しかいない。誰かが消えたような気がするのに、誰が消えたのかがわからない。消えたものの一人の名が挙がる
――水嶋 葵生という高校生。彼女の存在は、すべての記録から、少しずつ、確実に希薄になっていた。彼女を知っていたはずの生徒たちは、
「あれ?そんな子、いたっけ……?」
と曖昧な表情を浮かべたというのだ。周囲の人間からは彼女のことがすっかり抜け落ちていた。その後、詳細な調査が行われたが、水嶋 葵生は多くの物的証拠から存在していたことは間違いがなく、どこかに、通常では起こりえない方法で別の世界に連れ去られたと考えるのが筋が通る、つまり怪異による仕業であるという疑いが高まったのだ。
八重野局長が、鋭い声で言った。
「――見ての通り、これは非常に厄介よ。記録を消す。人の存在そのものを薄くしていく……。この特異体の性質は、いままでとはまったく異なるわ」
特異体観測センターからの情報も同様だった。現象の中心は、高尾南高校――つまり、柚里が通う学校だ。その半径約1.2kmの範囲内で、空間の「密度」が落ちている。人の気配が、記憶が、証拠が、まるで吸い取られるように消えていく。
悠人は、そうした報告を経て、杏陽子と共に現場へ向かうよう命じられた。
「二人一組で行動しろ。どちらかが消える可能性もある。互いに助け合うように。」
電車に乗り込んでからのことだった。
はじめはただの疲労かと思った。
睡眠不足、重い空気、車内の静けさ――けれど、それは違った。
眠気ではなく、まるで存在そのものが引きずられるような感覚。悠人の意識が薄れゆくその傍らで、杏陽子もすでに深く眠っていた。髪が肩にふわりとかかり、まるで呼吸すら見えなくなっていた。
……このまま自分たちは、どこに行くのだろうか。
そう思った矢先、声が聞こえた。
「ふふん、しょうがないのぅ。こんだけ禍憑の匂いがプンプンするのに気づかんとは」
誰かが自分を揺り起こしていた。黒い袴に、不可思議な文様の入った着物――そして、どこか古びた空気を纏った少女。
「お前・・・」
「名前はヨミじゃ。おぼえておけ」
「ヨミ・・・。どうしてここに?」
「お前たちが怪異と呼んでいるもの――わしらにとっては禍憑じゃな。そいつの仕業じゃな。」
悠人はふと、まだ眠ったままの杏陽子を見やる。白い首に黒髪がさらりとかかり、まるで夢のなかの人形のように動かなかった。
「杏陽子さん。……起きてください」
そっと肩に手を置いて揺する。ようやく、彼女が目を開けた。
「う、うん……」
まだ眠気の残る声で、彼女がようやく現実に引き戻される。
そして――気づけば電車は、不気味なほど静かな駅に停まっていた。
乗客たちは誰一人動かず、まるでマネキンのように座席に座っている。
電車の外に、確かに何かがいる。悠人と杏陽子は、それを感じ取って、迷わずホームに降り立った――。
「……というわけなんだ」
悠人が語り終えてから、杏陽子が短く付け加える。
「この駅も、完全に怪異の影に取り込まれてた。周囲の人間、みんな止まってた。……まるで時間ごと、切り取られたみたいに」
柚里は、思わず目を伏せて、小さく笑った。その笑いには、ほっとした気持ちと、底知れぬ恐怖が混ざっていた。
「……ほんと、助かった……どうなることかと」
ヨミが言う。
「ふむ……間に合ったのは、ただの運か、それともまだ縁が残っておったからかの」
杏陽子「しかも……ここ数時間で、また一人、行方不明になったって連絡があったの。水嶋 葵生。その子を探す、そしてこの現象を生み出している怪異を殲滅ことが今回の作戦目標。」
その世界は――
どこか歪んでいて、けれど限りなく現実に近かった。悠人、杏陽子、柚里、そしてヨミの四人は、目の前の似て非なる世界を慎重に歩き始めた。電車を降りた先にあったのは、誰もいない公園だった。子どもたちの声が響くはずの場所に、ただ錆びたブランコがだけが残されていた。
人の気配はある。だが姿はない。
ベンチに残る体温の名残、ゴミ箱に差し込まれたままの紙パック、少しだけ湿った砂場――それらはすべて、「誰かがいた」痕跡であって、今「誰かがいる」証ではなかった。
夜が訪れた。月は、やけに大きく低かった。
「用心しよう」と悠人が口を開く。「ここは……僕たちがいた世界とは、きっと違う。似ているが、どこかが狂っている。夜が明けるのを待ってから動こう。順番に仮眠をとるのがいい」
「私は寝ません」と杏陽子が即座に返す。
「え?いや、それは……交代で休まないと――」
「寝ない」
強い口調だった。
結局、みなそれぞれが、疲労に任せて自然に身を預ける形となった。
* * *
けれど次に目を開けたとき、柚里は教室にいた。
陽が差し込む窓。前方の黒板には先生の文字。隣の席には璃華子がいて、プリントを広げていた。
「あれ……?」
たしかに、さっきまでみんなと一緒に……夜の公園で仮眠を――
なのに、ここは日中の教室。まるで何事もなかったかのような平穏が広がっていた。
(夢?……そうか、夢だったんだ)
柚里は、ようやく深く息を吐いた。肩から力が抜けていく。授業はいつも通りに終わり、下校のチャイムが鳴る。鞄を持ち、学校の門を出たとき、柚里はなんとなく、特防局へ向かおうとしていた。けれど、その歩みを、璃華子が呼び止めた。
「ねえ、どこに行くの?柚里の家、そっちじゃないよ。」
「え……?特制隊の事務所に…」
言葉が曖昧になる。
「それよりさ、特制隊の三人が指名手配されたらしいよ」
「……え? なんで?」
璃華子は肩をすくめる。「さあ、理由までは知らない。でも、あんまり関わらないほうがいいんじゃない?」
柚里は胸の奥にざわめきを感じる。特制隊……たしかに、その言葉には何か引っかかるものがあった。自分もそこにいた、ような気がする。思考を繰り返すたびになにかが抜け落ちていく。
「その人たち……たぶん、知ってる気がする。けど……」
「どんな人たち?」
「う……ん……思い出せない……」
璃華子がふっと笑った。
「あはは、それならそんな人いないんだよ。柚里って、ときどき変なこと言うよね」
「でも……仲間だったはず…………守ってくれるような…」
璃華子は一瞬だけ微かな沈黙を置き、やさしい声で言った。
「気のせいだよ。仲間って言っても、最後まで頼れるのかな?」
「……最後までは、無理だと思う」
「うん。世の中結局自分一人で生きていかなきゃいけないのよ」
璃華子は急にまじめな話をする。
(何も問題なんてなかったんだ……悪い夢でも見てたのかな)
授業が終わり、教室を出る寸前、机の奥にある見覚えのないノートが目に留まる。古びた表紙のそれをそっと開くと、歪んだ筆跡で走り書きがあった。
《私は間違っているのかもしれない。でも、ドウメツの言うことを聞けば楽になれる……》
ページをめくると、さらに字は乱れ、黒インクがにじみ、繰り返しこう綴られていた。
《やっぱりおかしい気がする。でもドウメツの言うことは間違っていないと思う。正しいよ。正しい。間違っていない……》
そして最後の行はこうだった。
《おかしい……誰かが私を狙っている……》
ペンのインクは、そこできれいに途切れていた。
「ドウメツって、……誰?」
何気なくそう口にした瞬間、ノートの文字がすっと薄くなった気がした。慌てて最後のページをめくると、「ドウメツ」と記されていた名前の上に、黒い塗りつぶしが走っていた。――誰かが、それを見られたくなかったかのように。
柚里は黙ってノートを閉じる。心の中に、得体の知れない霧が流れ込んでくる。
(……誰かのノートがまぎれこんでただけかも…でも気味が悪い……)
カバンに入れず、机の上に戻して立ち上がった。
自宅へと向かう。空は澄んでいた。夕暮れの茜が街の輪郭を柔らかく染めていく。学生たちの笑い声が風に乗り、制服姿の少年たちが自転車で坂を下っていく――日常の風景。なのに、どこか心の奥がぽっかりと空いていた。
そして、その帰り道。
公園を通りかかったとき、耳の奥に妙な音が届いた。ズリズリ、ズリズリ──何かを引きずるような、湿った音。音のほうを振り返った瞬間、息が詰まった。そこにいたのは、2メートルを超える大男だった。分厚い体格。赤い手袋……ではなかった。血に染まった素手だった。その手には、何かを──いや、人のようなものを引きずっている。縄でくくりつけられた、動かない何かを。声にならない叫びが喉に詰まる。
大男は無言で立ち尽くし、まるで何かを待つように視線を彷徨わせていた。気付かれていない。そう思った次の瞬間、目が合った。うつろな、光のない目だった。
柚里は無我夢中でその場を駆け出した。
(あれが……アレ……なんだっけ?)
答えの見えない問いを胸に、家まで走った。冷えた空気の中、自分の部屋に戻る。戸を閉め、カーテンを引き、食事を一人でとり、布団に潜り込む。それがいつもの、柚里の生活。だけど、何かが変わっていた。何かがおかしい。けれどそれが何かはわからない。窓の外からまだ、かすかに「ずりずり……」という音が聞こえてくる気がした。こわくなって、布団の中で目を閉じた。