第15話 忘却の友達
―柚里の夢
うるさいなぁ、ママは……。
柚里は夢の中で、誰にともなくそうつぶやいた。
顔をしかめ、目を伏せる。まどろみの中、言葉が意識の底から浮かび上がる。
私はさ、ひとりで生きていく未来が早く来ないかなって、いつも思ってるんだよね。
だからさ、いちいち靴が揃ってないとか、机の上が汚いとか……言わないでほしいんだよね。
部活もしてる。仕事もしてる。……えらいよ、私。
それなのに給料は低く、残業は多く、休日はほとんどない。
この理不尽な世界の中で、ただ真面目にこなしているだけなのに。
こんな職場、ほんとは大嫌いなんだよ……。
愚痴をこぼすような声が、夢の中で自分の中から漏れ出す。
けれど、それを聞く者はいない。
親に文句を言う。でも親の姿は見えない。
意識が浮いたり沈んだりしながら、眠りと目覚めの境目に漂っている。
そうして、夢がゆっくりと薄れていく。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、柚里の頬にふれた。
「んー……あと五分……むり……」
枕に顔を埋め、声にならない声をもらす。乱れた髪がさらりと肩をなぞり、Tシャツの襟元がだらしなくずれていた。ぼんやりと天井を見つめる瞳に、まだ夢の名残が揺れている。
「……あれ、もう朝? 何時?……やばっ!」
ばっと布団を蹴飛ばし、跳ねるようにベッドの上で伸びをした。
「昨日寝たの、何時だっけ……?」
ふと、昨夜の戦いを思い出す。
特異体との交戦。市民の避難誘導。そしてぎりぎりでの勝利。思い出すほどに背筋がひやりとする。
「24時に寝たんだったよね……。あれで早かった方。やば、普通に慣れてきてる……」
苦笑しつつも、自分の状況の異常さに思い至る。
——高校生が22時以降働いちゃダメなんだよね、本来は。
思い出すのは、局長のいつもの言い分。
「『21時59分で退勤打刻しておいて!』って……あれ、絶対アウトだよ!」
ひとりごとを言いながら制服に袖を通し、髪を無造作にまとめる。
(今度こそ辞めてやる……でもなあ、言い出しにくいんだよね……。退職代行『もうあかん』も、特異体対策法に抵触するとか言って取り合ってくれないし……。あれ本当意味わかんない。)
そんなことを考えていると、ドアの向こうから母親の声が飛んできた。
「珍しいわね、寝坊なんて。」
そう言ってから、机を見ていつもの不満を口にする。
「また机の上散らかしてる。今日ゴミの日よ。いらないものだして」
「はーい……」
返事をしつつ、柚里はむすっとした顔で机の前に立った。
昨夜の疲れがまだ身体に残っている。それぐらい、許してほしい。文句を言いつつ、ガチャガチャで手に入れた小物やクレーンゲームの景品などを、ぽいぽいとゴミ袋に放り込んでいく。
「こういうのって、楽しいのは初日だけなんだよね……」
そうつぶやいたそのとき、ふと写真立てが目に入った。家族4人の写真。笑っているのは、昔の自分だ。黙ったまま、じっとそれを見つめる。何秒かのち、そっと元の場所に戻した。
それから机の隅に、小さなペンダントが引っかかっているのが目に入る。もういらないかと手を伸ばす。
が、指先が止まった。
(これ……なんだっけ?)
なにか、大事なものだった気がする。でも、思い出せない。だからといって残しておく理由もない。
「……こうやって捨てられないから、部屋が片付かないんだよね」
そう言って、ペンダントをぽいっと袋に放り込んだ。
「いってきまーす!」
柚里はバタバタと玄関を出た。
それから近所の家を訪ねた。
だが、チャイムを押そうとして、首をかしげる。
「あれぇ? おっかしいな……」
この家に何か用があったはずなのに、それが何だったか思い出せない。
(最近、ほんと忘れ物がひどいなぁ。……ボケてきたのかな)
門先に立っていたご近所の奥さんがぽつりと漏らす。
「そういえば……葵生ちゃん、最近見かけないわねえ」
「葵生ちゃん?」柚里が眉をひそめる。
(……そんな子、この辺にいたっけ?)
誰だったか。会ったことがあるような気がする。でも、思い出せない。記憶の底に引っかかる、大事な存在。それが、そっと柚里の胸の奥で揺れていた。
* * *
昼下がりの教室は、いつもより少しだけ騒がしかった。
誰かが笑い、誰かがあくびをしている。外の蝉の声が窓越しににじんでいた。
その中で、唐突に名前を呼ばれた。
「ねぇ、柚里。知ってる? 最近SNSで話題の――『エアフレンド』ってやつ」
声をかけてきたのは、隣の席の子。名前は……なんだったっけ?喉元まで浮かんで、そこから先に出てこない。柚里はわずかに眉を寄せた。
「エアフレンド……?」
自分の口から出た声が、少しだけ遅れて耳に届いた気がした。
「そう、それ。なんか、最近物忘れひどくなってない?」
「……え?」
「ちょっとずつ、大事なことを忘れていく。それってね、エアフレンドの仕業なんだって」
冗談みたいに軽い口調だったけれど、どこか芯の冷たい響きがあった。
「エアフレンドっていう怪異に取り憑かれるとね、少しずつ記憶が薄れていくの。
最初は、カバンの中のメモが消えたり、宿題や約束を忘れたりするだけ。
でもだんだん……周りの人が見えなくなる。友達が、話しかけても応えてくれなくなる。それどころか、相手にはこっちの声すら届かなくなってくるの。まるで、そこにいないみたいに。
そして最後にはね、自分のことすら忘れちゃう。名前も、顔も、存在そのものも。
全部が真っ白に溶けて、世界からいなくなっちゃうんだって」
「……それって、死ぬってこと?」
「うん。姿が消えてから数日後、机の下とか部屋の隅に、赤黒いシミだけが残るらしいよ。乾いていて、ちょっとだけぬるっとしていて、ふき取れないの。何度拭いても、何日経っても、そこに残り続ける。
それだけじゃなくてね。……そのシミから、名前が聞こえるって人もいるんだよ。小さな声で、何度も、何度も。でも、その名前が誰だったか、もう誰にも思い出せないの。ねえ……あなたの近くにいない? 最近、顔が思い出せない子。机だけはあるのに、そこに誰が座ってたか分からない子」
その言葉に、柚里は思わず教室の後ろを見た。
窓際の机、カーテンに隠れかけた席。そこに誰がいたっけ。
誰かいたような、いなかったような。記憶が霧のようにゆらいで、掴もうとするたび指の間からこぼれていく。
帰り道、柚里はひとりだった。
いつもの道、いつもの信号、いつもの踏切。
でも、心のどこかが引っかかっていた。
(あれ……私って、いつもひとりで帰ってたっけ?)
違和感。
それは、かすかな石ころのように心の中で転がり続けている。信号待ちをしていたとき、前方に見覚えのある背中が見えた。
璃華子だった。
おしゃれで、クラスの中でもひときわ目を引く存在。彼女が、ひとりで歩いていた。
「璃華子ちゃん……!」
思わず声をかけると、彼女は軽く振り返った。
「柚里ちゃん? あ、びっくりしたー」
少し話してみると、意外なことに、気が合った。言葉のテンポや間が心地よく、思ったより自然に笑い合えた。だけど、ふとした会話の中に不気味な気配があった。
柚里はふっと立ち止まり、空を見上げた。夕暮れが街を染めている。通学路には、影が長く伸びていた。
「なんか、いつももうひとりと一緒に帰ってたような気がするんだよね」
「そうなんだ。誰?」
「……わかんない」
「ほんとにいたの?」
「うーん……」
璃華子もまた、首をかしげる。
名前も顔も浮かばない。けれど、確かにそこに誰かがいた気がする。一緒に笑った。肩を並べて歩いた。そういう記憶が、輪郭のないまま胸の奥で疼いていた。それが誰かだったのか、それとも――ただの気のせいなのか。柚里は、心の中の違和感をそっと押さえるように、足をまた一歩、前へ出した。
風が吹いた。
どこかで、小さな名前を呼ぶ声が、かすかに聞こえたような気がした。
でも、それが誰の声だったのかも、もう思い出せなかった。
* * *
夕暮れが、世界をやわらかく染めていた。その日、作戦は定時で終了した。時計の針が静かに17時を指した瞬間、柚里の体から、張り詰めた糸がぷつりと音を立てて切れた気がした。
眠い。とにかく眠かった。立っているだけで、まぶたがふわふわと落ちてきそうだった。どうしてだったろうか。夜更かしのせい?ああ、そうだ。昨晩、ついついアニメの続きを見てしまったせいだ。
「あー……自己責任だわ、完全に……」
任務中、隣にいた悠人に呆れたように言われた言葉を思い出す。
―大丈夫ですか? 気を抜くと、死にますよ。
そりゃそうだ、と心の中で苦笑した。彼は無表情に、冗談みたいなことを言う。
それでも今日は定時で終わった。それが何よりも救いだった。お腹がすいた。お風呂に入って、ゆっくり温まって、そのまま寝てしまおう。そんな普通の願いが、今は宝物のように思えた。
帰りの電車は、夕暮れの光に照らされて、やけに静かだった。ガタンッ、ゴトンッというレールの音だけが、車内の空気を振動させている。最寄り駅に着いたとき、ふと気づいた。
降りるのは、自分だけだった。
(え?……こんなこと、ある?)
誰もついてこない。車内にはまだ多くの乗客かいたはずなのに、全員がぼんやりと座ったまま、動く気配がない。それどころか、彼らの顔が見えなかった。シルエットだけがそこにあるような、不完全な存在たち。
ざわっと背筋を何かがなぞった。
気のせいだ、と柚里は自分に言い聞かせる。
この駅はそもそも利用者が少ない。偶然。確率。統計。――だから、気にしなくていい。ホームに降りた瞬間、電車の扉が静かに閉じ、ゆっくりと去っていった。誰もこちらを振り返らなかった。
自宅の玄関に立ったとき、安堵が胸に広がった。やっぱり帰る場所があるって、それだけで幸せだ。
「お母さーん、ただいまー! 今日のご飯、なに? 先にお風呂入っちゃおっかなー。疲れ取らないと……」
言葉を連ねながら、靴を脱ぐ。そしてふと、母の気配を感じて顔を上げた――その瞬間だった。
母は、怪訝そうな表情で恐る恐る口にした。
「……どなた?」
穏やかな声、だけど遠慮がちで、どこか緊張していた。まるで、家に入り込んできた知らない訪問者を迎えるような口調だった。
「は? なに言ってんの? 冗談やめてよ……」
玄関の奥から、弟のヒロトが顔を出した。彼はちらりと柚里を見ると、首をかしげた。
「……誰?」
思考が真っ白になる。
「……なに言ってるの、ママ。私だよ。柚里だよ。冗談でしょ? モニタリングかなんか?」
自分の声が、異様に大きく反響した。だけど母は一歩後ずさり、顔を曇らせた。
「ごめんなさい……あの、どちらさまですか?」
その一言で、心が砕けた。
今にも涙が出そうだった。けれど、泣いてはいけない気がした。
玄関の匂いはいつもと同じだった。
壁の色も、靴箱も、柱の小さな傷も、全部が我が家だった。
なのに、そこにいる人だけが、なぜか自分を拒絶していた。
柚里はぎこちない笑顔を浮かべ、喉を震わせて言った。
「……ほんとうに、間違えました。となりの子…でした。」
母は戸惑ったまま何も言わず、ただ玄関の空気が、ぴんと張り詰めた。
もう限界だった。柚里はくるりと背を向け、玄関を飛び出した。扉の音が背中に響く。心臓が激しく打っていた。
走りながら考える。
(私の家だったのに。どうして?
私のことを、ママが……ヒロトが……知らない?
なんで? なんで……?)
答えは風の中にすらなかった。
ただ夕闇が、街をゆっくりと飲み込んでいく。走って、走って、どこへ向かっているのかも分からない。足元のアスファルトが、知らない町みたいに思えた。ほんの数分前までは確かにあったはずの「帰る場所」が、すでに遠い夢のように思えた。遠くで電車の音がした。誰も乗っていない列車が、通り過ぎていったような気がした。
とりあえず、光のある場所へ。
それが本能的な判断だった。柚里は、駅前のハンバーガーチェーンの自動ドアをくぐった。ガラス越しの光は、やけに白く、まるで病室の蛍光灯のように、肌の下の不安まで炙り出す気がした。手元のレジ袋には何が入っているのか、よく覚えていない。注文をした記憶はある。けれど、レジの人の顔も、手渡された瞬間の感触も、どうにも曖昧だった。
席に腰を下ろし、ハンバーガーをかじり、コーラを飲む。ポテトを指先でつまみ、口に放り込む。
――どれも、味がしない。
舌が麻痺しているわけではない。温度は感じる。食道を通る感覚も、胃に届く重さも、確かにある。なのに、空虚だった。音のない映画のように。
(……どういうことなの)
スマートフォンを取り出し、写真フォルダを開いた。嫌な予感がしていた。的中するような気がしていた。映っているのは、友達の笑顔だった。手を振っている姿。ピースサイン。制服。教室。だが、そこに――柚里だけが、いない。自分のいたはずの空間は、不自然な空白になっていた。まるで誰かが消しゴムで塗りつぶしたかのように。
写真の中心にいたはずの自分が、何も写っていない。
(夢……? 寝不足だったから?)
そんな言い訳が通用するような、優しい現実ではなかった。怖くなって、もう何も口にできなくなった。トレーごと、まとめてゴミ箱へ突っ込む。ガシャンと投げ捨てる音が、店内に不釣り合いなほど鋭く響いた。
行き場を失い、柚里は駅のホームに戻っていた。電車は来ない。構内放送も、誰かの足音も聞こえない。どこか時間が、世界ごと止まっているようだった。
(……どうして、誰も来ないの)
頼れる場所は、対防局しかなかった。
そこに行けば、きっと誰かがいて、何かを教えてくれる。
* * *
駅のホーム。
遠くから電車の音が聞こえてきた。
その機械音に、柚里は思わず胸をなでおろす。
(よかった……来た)
けれど、電車は止まっても、扉は開かなかった。中をのぞく。乗客がいた。たしかに、何人かが座席に座っていた。しかし、誰も微動だにしなかった。動きのない姿。表情のない顔。あれは人間だろうか。それとも……マネキン?
そう思った瞬間――車内の全員が、一斉に柚里の方を向いた。
視線が刺さる。けれど、そのどれもが、感情のない、乾いたものだった。