第14話 路傍の巫女
「はぁ」と悠人はため息をついた。
疲労は、もう感覚の一部になっていた。
大学の講義と特制隊での労働、その往復を重ねて帰路につく。体の節々が重く、頭の芯がじんじんと熱い。目を閉じたら、そのまま倒れてしまいそうだった。
自宅の前——
街灯のオレンジに照らされた路上で、ひとりの人物が倒れていた。
(……なんだ? 誰か倒れてる?)
悠人は一瞬、足を止めたが、次の瞬間には無意識に走り出していた。
(事故か? あるいは……怪異か?)
心臓が早鐘を打つ。最近、妙なことが多すぎる。
「もしもし、大丈夫ですか!」
倒れていた人物は、ぼろぼろの、いや、どこか古めかしい衣をまとっていた。なんとも言えぬ匂いがした。湿った土と、草木と、時代錯誤の空気のような――。女だった。長い黒髪、そして青白い肌。どこか現代のものとは思えない風貌。
その女が、突然、むくりと起き上がる。
「何者じゃ、お前は!」
見開かれた目。凛とした声。明らかに常識から外れた存在感。
(え、いや、それこっちのセリフ……)
「大丈夫なんですね……じゃあ僕はこれで」
逃げるように踵を返す。背中からなにか叫んでいたが、聞き取る前に家の扉を閉めた。
(関わっちゃいけない。あれはアブナイ人だ……)
翌朝。
出勤前、玄関を出たところで「ゴミの日」だったことを思い出す。
暑くなるこれからの時期、ゴミの出し忘れは地獄の入り口だ。袋を手に、ごみ集積所まで歩く。ふと、視線を感じて振り返る。誰もいない――と思いきや、電柱の陰にいる。
あいつだ。
昨夜の女。明らかにこちらを監視している。悠人が視線を向けると、女はぷいとそっぽを向いた。
(いやいや、謎ムーブだろ…)
しかも、その格好は変わっていない。まるで古代の巫女か、時代劇の登場人物。コスプレにしても浮きすぎている。最近、本当におかしなことばかりだ。けれど、どうしてか完全に無視することもできなかった。なぜだろう。昔から、こういう奴をどこかで知っているような――そんな錯覚。
「えっと……なにしてるの?」
「お前が怪異の元凶かどうか、調べておるのじゃ!」
(……関係者か?)
その瞬間、彼女の腹が盛大に鳴った。
ぐぅぅ、と重々しい音。
(腹へっているのか・・?)
女は地面にへたりこみ、顔を伏せるとぽつりぽつりと呟き始めた。
「最近の店は、まったくわからん。……コンビニ? 牛丼? ファミレス? なんじゃそれは……金も使えんし。選べぬまま断食二日目。昔は樹の実と泉の水で足りておったのに……」
(仙人かよ……)
悠人は無言で、自作のおにぎりを鞄から取り出した。特製唐揚げ入り、自信作。
そのおにぎりを差し出すと、彼女は一瞬目を見開き――そのまま、理性が吹き飛んだようにがっつき始めた。
(めちゃくちゃ食うやん……)
「まあまあ食えるではないか! なんじゃこの、カリカリでふわふわのかしわは……!」
悠人は、つい得意げに笑う。
「それはな、揚げたてならもっと旨いんだぞ。味がわかるなら、なかなかのもんだな」
気がつけば、少しだけ会話が弾んでいた。
時間を忘れて、気を緩めていた。
「しまった。遅刻だ。じゃあな、ちゃんと飯食えよ!」
女は、もぐもぐと口いっぱいに飯粒を詰めたまま、こちらを見送っていた。
* * *
本日の戦況は、過去最悪の部類に入るだろう。
同時多発的に複数の怪異が市内に出現し、そのうちいくつかは新型と目された。対応の手が追いつかず、市民の避難もなお不完全。ひとつ判断を誤れば、取り返しのつかない被害が出る——そんな予感が空気の中に濃く漂っていた。
「私は地点Cに行ってくる。柚里、ここは一人でいけるよね?」
通信機越しに聞こえた天花杏陽子の声は、いつものように凛としていた。
特制隊の中でも一目置かれる存在。自ら先陣を切る姿勢を決して崩さない、クラスS3の隊員。つまり最強。
「え、えー……一人でなんて……」
「頑張って!」
通話はぷつりと切れる。
ツー、ツー、ツーと音が耳に残った。柚里は地面にへたり込むように腰を落とし、ため息をついた。そんな彼女に、悠人が声をかける。
「柚里さん、頑張りましょう!」
頭のどこかでは、杏陽子の姿が焼き付いていた。
(さすが杏陽子さん……誰よりも真剣で、誰よりも信頼できる隊長だ)
だが、現実は待ってはくれない。柚里は既に小型の物理型特異体と交戦中で、市民の避難誘導も並行して行っていた。戦いながら、人を守る。それは想像以上に神経をすり減らす行為だった。別地点では陽凪汰が奮闘していた。自信家で、無鉄砲なところもあるが実力は確か——とはいえ、戦力的には限界が近い。
(このままじゃ……また市民に被害が出る……)
悠人は、自分たちに今残されたリソースを見直すことにした。
武器はある。車両も確保できた。問題は、それをどう使うかだ。後部座席に積まれた武具の数々。初見の物がほとんどだったが、それはいつものこと。悠人は手元のマニュアルをめくる。そこに記された奇妙な文様——まるで蛇がのたうつような不可解な文字列。だが、集中すれば読める。訓練の賜物だった。
「お前……読めるのか?」力也が驚いたように言う。
「……これか。ネミドゥアモゥイ……熱源誘導弾……!」
敵、味方、地形、時間……最適な資源の割り振り。
自分にしかできない戦い方がある。真正面ではなく、間接的に状況を操ること。
「柚里さん! なんとか3体、対応できないか?」
「いや無理だよ、この状況じゃ! 小型って言っても意外としぶといんだから!」
とは言いつつも、どこか余裕を感じさせる戦いぶりだ。
そのとき——スマホの着信音が響いた。
柚里が一瞬きょとんとした顔で応答する。
「あ、ママから電話かかってきた、ちょっと待った
……いや、だからかけてこないでって言ったでしょ?
仕事中なんだけど? え? 緊急事態……?
……うん……ハンバーグでいいよ、ママありがとね、切るね」
(……夕飯の相談かよ!)
思わず悠人は心の中で突っ込みを入れる。
だが、なんだか少しだけ和んだ。そうだ。柚里は口では文句を言うが、実は能力の高い子だ。芯が強く、多少の混乱では折れない。今、必要なのは柔軟性と判断力。彼女にはその両方がある。陽凪汰はどうせ独断専行だろうが、彼はそれが一番向いている。下手に抑えるより、自由に暴れさせた方が結果が出る。
「力也、運転交代だ! 特異体ホイホイを起動・設置、敵をこちらに引きつける!」
「俺!? ペーパードライバーだけど……やるしかねぇな! 任せとけ!」
「柚里には3体対応してもらって、それが終わったら地点Aの支援に回ってくれ。無理に潰さなくていい、時間を稼いで!」
「えー、大丈夫なの〜?」
「杏陽子さんには、大型特異体を倒し次第ヘルプを要請! 凪咲さんにはバックアップを!」
悠人の声は、場を統率する響きを帯びていた。
(……失敗すれば、一番危ないのは俺たちおとりかもしれない。それでも……それが、俺にできる戦いだ)
作戦は上層部に通され、許可された。
「そういうわけですから、局長、この作戦でいきます」
「頑張って! 悠人君」八重野局長が短く応じる。
「ファイトですよ〜!」凪咲も、緊張を和らげるように微笑んだ。
そして——数時間後。全員が傷だらけになりながらも、彼らは怪異を抑え込むことに、かろうじて成功する。誰かが命を落とすこともなく、市民の犠牲も最小限に抑えられた。
戦いは終わらないが、今日という日を乗り越えた。それは確かな成果だった。