第13話 灰色の夕暮れ
重い鉛のような身体を引きずるようにして、澄乃は歩く。足元はぬかるみ、雨がしとしとと降り始めていた。途中、にぎやかに会話を交わす男女の高校生とすれ違った。澄乃が通った高校と同じ制服。まるでこの先の未来が輝かしいものであると確信しているかのような煌きに包まれていた。
見上げた喫茶店の外観は、記憶のなかと変わっていなかった。けれどその懐かしさが静かに込み上げてきた。無意識のうちに避けていた場所。記憶の底に封じ込めていた時間。
扉を開け、澄乃は奥へと歩みを進める。
そこにいた。宗一郎が、昔と同じように座っていた。よく二人で向かい合って座っていたいつもの席だ。なぜだろう。思わず泣き出したくなるような、甘酸っぱい気持ちが胸に広がった。
「このお店、来週閉店するんだ」
「……そう」
言葉はそれだけだった。
それ以上、何も言えなかった。
時間が、沈黙の海を漂うように流れる。気まずい思いをした。今すぐに逃げ出したかった。しかし宗一郎の言葉に、澄乃ははっとする。
「澄乃……それ、まだ使ってるんだ?」
彼の視線は、澄乃の手元に注がれていた。握りしめていたのは一本のペン。それは——宗一郎のものだった。いつからか、手放せなくなっていた。無意識に、どこへ行くにも持ち歩いていた。自分と自分をつなぎとめてくれる一つのお守りだった。
「大事にしてくれてるなんて、嬉しいよ」
なぜ、そんなことを覚えているのか。彼にとってただの不要なペンだったはずだ。
「その日のこと、覚えてる?」
彼からペンをもらったときのこと・・・?
「三年前の、六月二十日。午後三時四十分ごろだったよ」
「え……?」
あまりにも細かい記憶に、澄乃は驚いた。
「澄乃が消しゴムを落とすかどうか……かけてたんだ」
かける?私のゴムを落として、宗一郎くんが拾うことがそんなに大事だったの?
それって・・・・。
ああ、頭がふらふらとする。
なにかが抜けていく。体中から。まるで穴が開いてしまった風船のように。
「……もう、宗一郎くんとは会えない」
彼女がそう宣言すると、宗一郎は唖然とした表情になった。
「……どうして?」
それには答えずうつむいたまま、喫茶店を後にする。
ここにいてはいけない。私はもう、この世界の人間じゃない。
灰色の街並み、灰色の時間をこれから進んでいくのだ……。
その時。
掌に、ぬくもりが落ちてきた。
彼の手だった。
澄乃の手を、確かに掴んでいる。
その温度が、心の奥を震わせる。
ああ、触れたかった。でも、触れてしまえば終わるから。だから触れられなかった。けれど今、この手が彼の手に包まれている。この温かさが、世界を崩してしまうほど嬉しい。
それでも、彼女は声を絞り出した。
「……やめて」
雨音と涙が混ざる。
ポツ、ポツ、ポツ。
「勘違いしないで。そういうの、もういらないから」
振り払った手に、ひとしずくの涙が落ちる。彼は何も知らない。何も分からない。それでよかったのだ。
宗一郎の最後の言葉が、雨音のなかに滲んでいく。
「……でも、これだけは言わせてほしい。あなたの幸せを願っています」
澄乃は一人、雨の中を歩く。
六月の、灰色の夕暮れ。
「……あれ? 私、今、なにしてたんだっけ」
ふと見上げた空は、まるですべてを忘れたように澄みきっていて——あまりに綺麗だった。
宗一郎が、もう一度振り返ったとき、そこに彼女の姿はなかった。
ただ、雨だけが静かに降り続けていた。
* * *
それから数日が過ぎた。
澄乃の姿はどこにも見つからなかった。捜索願が出され、ポスターが貼られた。けれど、澄乃という存在は、まるで霧の中に溶けてしまったかのように、手がかりひとつ残さず消えていた。
――本当に、彼女はこの世界に存在していたのだろうか?
悠人は、そんな思いを抱えながら、どこか現実感のない日々を過ごしていた。
特防隊の休憩室で、杏陽子がふいに声をかけてきた。
「ねえ、運命って、あると思う?」
その声は、風が軒先にかすかに触れるような、揺れを孕んでいた。
悠人は窓越しに空を見つめる。
「運命……そうだね。あるとも思うし、ないとも思う」
「……どういうこと?」
杏陽子は小首をかしげ、不満げな顔を見せる。
「運命って、自分の思考の及ぶ範囲内で決まってるような気がするんだ。だけど、もし自分の世界を広げることができたなら、運命も変えられるんじゃないかなって」
「ふーん」
彼女の表情は曖昧だった。どこか拗ねたようでもあり、何かを隠しているようでもあった。悠人は理由が分からず、少し焦る。
「……ところでさ」
と切り出す。
「メッセージアプリなんだけど、よかったら交換しませんか? そのほうが、なにかと便利だし」
杏陽子の肩がビクリと小さく揺れる。
「…そ、そうだね。便利だし、交換しておいたほうが実務上いいかもしれない」
彼女は無表情だった。けれどその表情には、ほんのりとした紅潮と、何かを秘めた光が宿っていた。
その日の帰り道、悠人はふと、ある街角で足を止めた。
——澄乃が、最後に目撃された場所。
街の風景は、なにも変わっていなかった。自動販売機の並ぶ路地、剥がれかけたポスター、遠くで鳴る工事の音。けれど、そこには妙な静けさがあった。人がいない。車の音さえ遠く、ただ風だけが通り過ぎていく。
そのときだった。
視界の端に、長い黒髪の少女が映った。白い着物。雪のような肌。まるで浮いているかのようにベンチに腰かけ、どこか遠い場所をじっと見つめている。内定が決まった日の帰り道、偶然に出会った少女——あの時とまるで変わらぬ姿。
「君……」
思わず声をかけると、少女はゆっくりと顔をこちらに向け、微笑んだ。
「モモだよ」
耳元で囁くように少女の声が頭に入ってくる。
「モモ……?」
名前を繰り返すと、嬉しそうに頷いた。
人ではない——悠人は、確かにそう感じた。だが怪異のような異質さはなかった。むしろ、どこか懐かしく、遠い記憶に触れるような雰囲気を纏っていた。
「君は……ここでいなくなった女性のこと、知っている?」
モモは答えず、ただ歌うように詠う。
たとえ善く見ゆることなれども、
また悪しく見ゆることなれども、
己が誠心に背きしは、皆、禁忌なり。
禍憑、その禁を重ねば、
力は薄れ、命は尽き行かむ。
心の理を忘るるなかれ。
悠人は目を瞬かせた。
「え……? それ、何……?」
古語のような、けれどどこか記憶の底に眠っていたような言葉。
モモは微笑みながら、現代語で言い直した。
「禁忌を犯せば、身を滅ぼす。ただ、それだけのこと」
そう言ってから、彼女は微笑んで、まるで風のように走り去っていった。
「待って!」
思わず呼びかけるが、止まる気配はなかった。少女の姿は、まもなく夕暮れの陰に溶けて消えた。
家に帰ると、疲労がどっと押し寄せた。
なにが現実で、なにが夢なのか。頭の中で整理すべきことが山ほどあった。悠人はベッドに倒れ込む。
(怪異って……一体なんなんだ)
それは恐怖の象徴ではなく、むしろ人の心の奥底に根づいた、何か大切な歪みのような気がした。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
通知が一つ、メッセージアプリに届いている。
《天花杏陽子です。よろしくお願いします。》
ゆっくりとスマホを胸に置いて、彼は目を閉じた。