第11話 もやの中の来訪者
澄乃は、薄い朱のもやがかった空間の中にいた。
曇ったガラス越しの光のように、世界は輪郭を失い、音さえも水中のように鈍っていた。そこは雑居ビルの一室のようだった。無機質な白い壁と、歪んだ天井の蛍光灯。だが、どこか温かさがあった。多くの人々がいた。にぎやかに見えたが、不思議と誰の声も明瞭には聞こえない。彼女の隣には桃奈がいた。
いつもと変わらずに微笑み、澄乃のそばに座る。
「澄乃、大変だったね。怖い思いをしたでしょう?」
その声だけは鮮やかに、耳の奥に沁みる。
「気にすることなんてないよ。いつも澄乃が正しいんだから」
「でも……木村さんが……」
言葉の端にひっかかる棘のような名前。同じゼミの知り合い。
桃奈は静かに首を振る。
「その人、本当に澄乃にとって必要な人だったの?」
「必要かどうかは……分からない」
「じゃあ、いらないじゃない。これからは考える必要すらないよ」
澄乃は目を伏せた。ここがどこなのか、いつからいるのか――わからない。けれど、いつも気がつくとここにいる。温かく、どこか懐かしく、なにより――安心できる場所。だが同時に、ひどく孤独な空間でもあった。
そのときだった。遠く、かすかに声がした。男の声。怒鳴るような、何かを引き裂くような叫び。
「逃げろ!」
澄乃は驚き、耳を塞いだ。
(ここに、誰かが来られるはずがない)
それでも声はやまない。
「早く……!」
(うるさい……誰なの?)
答えはない。ただ、叫びが続く。
「なぜ入れない……! 早く逃げろ!」
桃奈が目を細めた。
「なに? あいつも澄乃を困らせてるの?」
その視線の先に、男がいた。
男は雑居ビルの外に一人立ち尽くしていた。彼の目には、もやに包まれたビルが映っていた。近づこうとしても、気づけば外へと押し戻される。まるで、何か見えない力が建物を守っているかのように。
「何が起きてるんだ……?何をされたんだ……?」
彼は窓を見上げた。そこに、誰かの気配が確かにあった。見知った横顔、そして、その前に現れる――黒ずんだ姿をした怪異。その顔は誰かに似ているような気がした。
「お前は……誰だ?」
その怪異は、低く、ゆっくりと口を開いた。
「あなたは自分の手がきれいだと思う?」
宗一郎は息を呑んだ。
「俺の……手?」
答えが見つからないまま、彼はようやく声を振り絞った。
「きれいかどうかなんて……わからない。ただ――誰かを知らず知らず傷つけていたことは、…あると思う」
怪異は表情を変えなかった。なにかにひっかかりしきりに思考をめぐらせているようにいえた。
そのとき、背後から駆ける足音。悠人と、杏陽子がビルに到着した。
「怪異の反応があって来てみたら……!」
杏陽子は即座に銃を構えた。標的は血濡れ雀。その狙いは寸分の狂いもなかった。だが、放たれた弾は虚空をすり抜けた。まるで、そこに存在しないかのように。血濡れ雀は、まるで煙のように、その場から消えていった。
「駄目。やっぱり知覚型はやっかい…」
杏陽子が小さな溜息をつく。
「この男……大学のキャンパスで見たことがある」
悠人が宗一郎を睨む。
「君の名前、それにどうしてここにいるのか説明してもらおうか」
「冬木宗一郎です」
男は真摯に答えた。
「澄乃が……危ない。彼女は怪異に囚われてしまっている。」
語られた事情はこうだった。
高校の頃、澄乃と親しくしていた宗一郎は、卒業を機に彼女と疎遠になっていた。だが地元に戻った彼は、澄乃の周囲で起きている不可解な出来事を耳にし、いてもたってもいられず動き出したという。
「俺の声が、彼女に届かない。どうも怪異が遮っているらしい。中には入れない。けれど……彼女は、このビルの中にいるんです。携帯も通じない……」
「とても厄介ね……」
杏陽子が肩をすくめる。
悠人は押し黙った。(S3クラスの杏陽子さんが厄介って言うなら……俺にできることなんてあるのか?)
宗一郎は続けた。
「澄乃は……本当に優しい人なんです。明るくて、思いやりがあって、俺の人生で、初めてそんな存在に出会った。だから、どうしても……守りたい。なんでもやります。協力させてください」
すぐに判明したこと。その雑居ビルは、すでに何年も前から空き家で、どのフロアにもテナントは入っていないということだった。いつの間にかその赤く亡霊のように揺れていた靄も晴れ、なんの変哲もないその姿を現していた。築何十年と経っているであろうコンクリートむき出しの壁面。そこには人影はどこにもみあたらず、ただがらんとした大きな空きスペースだけがガラス窓越しに伺うことができた。
「そんなはずは……ないのに」
宗一郎は唖然とした様子で言葉をこぼした。
怪異とともに調査の糸口すら幻のように消えていったようだった。