第10話 終電ホームの惨劇
こうして現場へは杏陽子とふたりで向かうことになった。
てっきり公用車か、秘密めいた装備でもあるのかと思いきや、彼女は当然のように言った。
「電車だよ。交通費は実費精算。後で事務所のパソコンから『経費らくらく奉行システム』にログインして申請してね。……あ、自宅からここまでの定期券、買っておいたほうがいいよ。定期前提の通勤費しか出ないから」
「うちって一応国家機関ですよね……」
(なにが“らくらく”なんだ……なんて職場だ………)
電車。徒歩。経費削減。現実は予想以上に地味で、泥臭い。
「あ、ちなみにタクシーはやむを得ない場合のみ、ね。基本は徒歩。節約ってやつ」
(なんか、イメージしてたのと違う……)
電車に揺られながら、ふと疑問が浮かんだ。
「……困難なミッションだって言ってましたよね。なぜ、俺だったんですか?他にもいると思うのに…」
杏陽子は一瞬、驚いたように眉をひそめ、それから目を伏せた。
「……八重野局長が決めた。それに……私は従うだけ」
その答えは、まるで線を引くような距離感があった。
「………足手まといにはならないように頑張ります」
そう言いながら、悠人は窓の外に視線を向けた。
杏陽子はそれからなにか言いたげだったか結局何もいわなかった。列車のガラスに映る自分の顔が、やけに頼りなく見えた。この夜間のミッション、実を言うとそれほど嫌というわけではない。
電車のリズムに身を任せながら、ふと彼女との出会いを思い出す。怪異対抗剤を強引に口元に押し当てられた時、おどろくほど近くにあった彼女の顔。つややかな黒髪の先がこちらの頬に触れそうで、ふっくらとした唇が呼気とともにわずかに震えていた。最初の衝撃だった。怪異でもなく、戦場でもなく、彼女の存在そのものが衝撃だった。
終電間際。
一通りの操作を終えたが全く成果はなかった。東京の地下を這う列車の振動が、悠人の足元から背筋へと微かに響いていた。発車を知らせる音が過ぎ、扉が閉まると、車内は一瞬だけ静寂に包まれた。
杏陽子の横顔をちらりと見る。さすがに彼女といえども疲れの色がみえる。調査の末、血濡れ雀と呼ばれる特異体の活動は、どうやら特定のエリアで繰り返し現れていることが分かってきていた。だが、その特定は曖昧なもので、地図の上では点々と散っている。
地下鉄のホームに差し掛かったその時だった。悠人の視界に、妙な影が映った。先頭車両の、照明の陰、線路脇に、まるで溶けかけた人の形をした影がいた。それは“人”のようでいて、決して“人”ではなかった。
「おい、あれ……」悠人が声を上げるよりも早く、その影が誰か――通行人と思しき人物を、すっと引き寄せた。驚愕の声も、抵抗する音もなく、ただ闇に溶けるように。列車の風のように、静かに。杏陽子がすぐに走り出した。悠人もそれに続く。だが、そこに人影はもうなかった。
残されていたのは一本の手。五指を緊張のままに広げたまま、切断された手首が、床に転がっていた。
ホームには、澄乃が立っていた。目を見開き、まるで氷漬けのように動けずにいた。
「澄乃さん!」
声をかけた悠人に、澄乃はぎこちなく振り返った。唇が震えている。目は恐怖に濁っていた。
「……あれは、人間じゃない……」
かすれるような声。恐怖と混乱に染められた顔に、彼女が何を見たのかが透けて見える。
「落ち着いてください、大丈夫ですから」
悠人はそう言いながらも、自身の掌に汗が滲むのを感じていた。
これは――怪異の仕業だ。なぜ手だけが残されるのか。なぜ、指先なのか――。
「……誰が犠牲になったんだ……?」
悠人がぽつりとつぶやいた。
「まだ分からない。鑑定に時間がかかる」
杏陽子が答えたが、その口調には緊張が滲んでいた。
翌日。
監視カメラの映像が解析され、死者の身元が明らかになる。
木村 花林――
澄乃と同じ大学の四年生。悠人も顔を知っていた。ついこの間、ゼミの飲み会で、くだらない愚痴をこぼしあったばかりの仲間だ。
言葉を失った。現実が、一枚一枚皮を剥がすように近づいてくる。これは、もう他人事ではない。怪異がターゲットにしているのは澄乃の交友関係?なにかしら関連しているのだろうか――そう思った矢先、もう一つの気配があらわれた。
夕暮れの大学の構内。澄乃の姿があった。
(そもそも。彼女はどうしてあんな終電間際に駅のホームに…)
悠人が疑問に思っていると、その彼女の背後にある見知らぬ男の存在に気づいた。
(誰だ――?)
年齢も、雰囲気も、学生ではなさそうだ。だが、どこか妙に自然に、その場にいる。それ以上に気味が悪いのは、その男が一向に澄乃へ近づこうとしないこと。
視線を向けるわけでもない。けれど、その足取りは、まるで彼女の行動を知っているかのように正確に後を追っている。悠人は、ぞわりと背筋に冷たいものを感じた。急いでその男の元へと駆けた。
しかし、そこには誰もいなかった。校舎の影、風の中に溶けるように、男は跡形もなく消えていた。
悠人は、確かに感じた。血濡れ雀という怪異の存在が、もうすぐそこにいるのだと。