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怪異~終焉を招く少女~  作者: 初瀬 朋多迦
怪異との邂逅
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第1話 夕映えの違和


都内の高層ビルが夕映えに染まる頃、悠人は静かに電車に揺られていた。胸ポケットの内定通知書は、まだ温もりを残す手のひらの中にある。整然とした企業説明会の光景がまぶたの裏に蘇る。

「チームマネジメント」「ワークライフバランス」――そんな甘やかな言葉が飛び交う会議室。にこやかに頷いていた採用担当者の顔。

(いやぁ、本当にラッキーだよ。こんな一流企業に内定をもらうなんて……)

ふと心の中で呟くと、自然と口元が綻んだ。夢見ていた未来が手に入った。これからの人生は安泰だ、そう信じて疑わなかった。

車窓を流れる街の風景はいつも通りだった。信号に群れる車たち、歩道橋をのんびりと渡る人影、そしてそのすべてを包むように、ぽつりぽつりと降りはじめた雨。灰色に染まった空はどこか寂しげだったが、不思議と今の悠人には心地よかった。


やがて電車が最寄り駅に滑り込む。雨はすっかり上がり、濡れたアスファルトに夕陽が反射していた。見慣れた街、いつもの道。だが、その日の街は、どこか違っていた。通りは静まり返り、人の気配がほとんどない。時間帯のせいだろうか。だが、その静寂はただの静けさではなく、何かを孕んでいた。


ふと、前方に微かな気配。

悠人が足を止めると、その視線の先、商店街の一角に、ひとりの少女が佇んでいた。長い黒髪が背に流れ、まるで時代を錯覚させるような美しい着物を身にまとっている。その姿は、まるで浮世絵から抜け出してきたようだった。彼女は、並べられた商品棚をただ静かに見つめていた。手を伸ばすこともなく、言葉を発することもなく。

その横顔には、なぜかこの世の終わりを予感させるような、深い哀しみが滲んでいた。時間が止まったような感覚。周囲から音が消え、風も止み、そこに存在しているのは彼女ひとりのようだった。


そのとき、悠人の耳の奥に、まるでどこか遠い場所から届くような歌声が響いた。


あまつかみ、くにつかみの大神たち、

たかまのはらに神さびます大神たちの御前みまえに申し奉る…


それは祝詞にも似た、不思議な韻律を持つ言葉だった。


この世に現れし禍憑まがつきの行い、心、振る舞いの全て、

神々の御力みちからをもって清めたまい、祓いたまい給え。

つみ、けがれ、怪異のかげを拭い去り、

清々しく澄みたる世の中に、安らかなる光をもたらし給え…


悠人の背中に、冷たい何かが走った。鳥肌が立つ。言葉の意味は分からないはずなのに、身体の奥底が反応していた。

(……なんだ、いったい?)

気づいた時には、少女の姿はそこになかった。ただ、濡れた石畳の向こう、夕陽だけがゆっくりと沈もうとしていた。幻視だったのだろうか。なにかの前触れだろうか。


* * *


都会の喧騒が遠のくにつれて、耳に届くのは、どこかで軋む看板と、冷えた風がビニール袋を這わせる音だけ。そんな寂しげな風景の片隅に一人暗がりにしゃがみこむ人影があった。

紺色のセーラー服――この辺りの高校のものだろう。見慣れた制服であるはずなのに、その存在感はどこか異質だった。

ふと、さきほどの着物の少女の姿が、脳裏にかすかに重なった。


今日は、何かがおかしい。


どこか現実の皮膚がめくれ、違うものが覗き始めているような、そんな感覚があった。このご時世、見知らぬ人間に関わるのは危うい。見て見ぬふりが最善の策。それが、悠人の生き方だった。誰とも深く関わらず、迷惑もかけず、ただ淡々と、静かに生きる。だが、この時ばかりは、足が止まらなかった。就職先が決まり、明るい未来が開けたという気の緩みだろうか。胸の奥にあった硬い結び目がほどけ、彼の足は少女へと向かっていた。


「こんなところで……何してるの? 気分でも悪いの?」


その声に、その女子高生はピクリと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。雨に濡れた髪が頬に貼りつき、光を鈍く弾く。すっと通った鼻筋に、夕陽の朱がかすかに影を落とす。透き通るような肌は、どこか現実味を失っていた。その瞬間、悠人の胸を鋭い既視感が貫いた。


──この顔を、知っている。


けれど、思い出せない。記憶の奥深く、厚い埃のかぶった引き出しの向こう、決して開かぬよう鍵をかけられた場所に、確かにこの少女の面影はあった。


(……かくれんぼ しているの。)


耳の奥底で声がした。それは口から発せられたものではなく、頭の奥深く、夜の底で風が吹くように静かで、それでいて確かな響きだった。悠人は言葉を失ったまま、彼女の動きを見守るしかなかった。

「敵を待ち伏せしているだけ」

彼女はすましたようにそう言った。声は冷たく、どこか硬さを帯びていた。けれど、その細い手はかすかに震えていた。

「……敵?」

「怪異よ」

彼女は淡々と続けた。

「このあたりに潜んでるの。わたしは、それを狩る役目」

怪異という言葉が耳に残った。ニュースで何度も聞いたことがある。正式名称は『特異体』。十年前に日本に現れ、今なおその全容が掴めぬまま、人々を脅かす存在。八年前、特異体対策庁が設立され、怪異排除のための法整備が急ピッチで進められた。それでも、悠人にとってそれは「どこか遠い出来事」だった。テレビの中の災厄、スクリーン越しの恐怖。けれど今、目の前にいる少女がその現実を生きている。紛れもなく、彼女は戦っているのだ。街の片隅、誰にも気づかれぬまま、震える手で何かと向き合っているのだ。


(それにしても、一体どこに怪異がいるというのだろうか?)


悠人は訝しげに視線をめぐらせる。

「あなたは……ここから、早く離れなさい」

彼女の声色が、突如として変わった。先ほどまでの儚げな雰囲気は影を潜め、代わりに纏ったのは鋭い静けさだった。

悠人は、言葉を返せなかった。「……そうですか」と背を向ければ、それで済む話だったはずだ。けれど、できなかった。胸の奥がざわつく。なぜだかわからない。懐かしさのような、痛みのような、不思議な感覚だった。


彼女は再び口をつぐみ、ポケットから小さなガラス瓶を取り出した。透き通った液体を躊躇なく喉に流し込む。その瞬間、彼女の喉元がかすかに震え、小さく息をつくような音が漏れた。

「……それ、何?」

悠人の問いに、少女は伏し目がちに答える。

「怪異対抗薬よ。これを飲まないと……まともに戦えない」

「戦うって……君が?」

「そう」

その声に迷いはなかった。


次の瞬間だった。

ビルの隙間、壁の影から、それは染み出すように現れた。まるで漆黒の液体が生きているかのように、ドロリとした影が地面を這い、ゆらりと立ち上がる。大きさは熊に近い。だが、それは獣ではなかった。骨のような形状と粘性のある表皮が不安定に重なり、目も口も定かでないまま、全身を異様な黒が覆っていた。それは、ただ存在しているだけで、周囲の空気を圧迫し、音を吸い込むようだった。


その日、俺は初めて怪異と呼ばれるものを目の当たりにしたのだ。


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