6.俺の幼馴染みは変なところで大胆
季節が夏に近づいてくると、色々な生き物が人類社会に姿を見せる様になる。
しかし、それらの生き物全てが人間にとって無害という訳ではない。
例えばスズメバチは、その毒針のひと刺しでとんでもない被害を与えてくることは、誰でもよく知っていることだろう。
この凶悪な面構えの恐るべき怪物は、時として、信じられない場所に姿を現すこともある。
そう、例えば学校の教室内。
餌を求めてふらふらと彷徨っていた一匹のスズメバチが、何食わぬ顔で高校生達の頭上に不意打ちの如く出現することは、決して珍しい話ではないのだ。
「うわっ! やべぇ! ハチだ、ハチ! スズメバチだっ!」
休み時間――クラスメイト男子のひとりが声を裏返らせて警鐘を放った。
その指差す方向、天井付近を特徴的な姿がぶんぶんと我が物顔で飛び回っている。
途端に、教室内は軽いパニックへと陥った。
近くに居た生徒は我先にと廊下へ飛び出し、身の安全の確保を図る。
基本的にスズメバチは、巣の周辺にひとが立ち寄って来るか、或いは攻撃でもされない限りは襲ってくることはないとされているが、その一方で黒い物体や動くものにも反応し易いとされている。
それ故、急に走り回って逃げ出すのは寧ろ悪手だ。が、その性質をしっかり理解している高校生は、少数派といっても良いかも知れない。
少なくとも、ここ2年A組の生徒の大半は、慌てて逃げ惑うことで頭上のスズメバチを無用に刺激してしまうという事実を全く認識していなかった。
「やだ……やだやだやだ! こないで!」
ひとりだけ、逃げ遅れた女子生徒が居た。
彩香だった。
彼女は何か思い詰めた様子で考え事をしていたらしく、その為、スズメバチの出現に気付くのが他のクラスメイトに比べてワンテンポ遅れてしまった様だ。
そして彩香も他のクラスメイトらと同様、スズメバチへの適切な対処方法というものを知らなかった。事実彼女もまた、慌てふためいて大急ぎでその場を離脱しようとした。
そんな彩香に、頭上を舞っていた恐怖の生き物が急降下を仕掛けてきた。
だが、それよりも早く動いた者が居た。
辰樹だった。
「僥倖……これはまさに僥倖」
他のクラスメイトらが呆然と見守る中、辰樹は手にしたジップロックの口を大きく開けて、上から覆い被せる様な形でそのスズメバチを袋の内部に捉えた。
基本的に、羽虫の類は左右からの圧迫よりも、上下からの圧迫に弱い。浮遊する為には気流の上下運動が不可欠だからだ。
例えば蚊を叩き潰す時も左右から両掌を叩きつけるより、上下で叩きつける方が仕留め易いとされている。
同じことが、スズメバチの場合にもいえるだろう。
辰樹が截拳道で鍛えた鉄拳の超速を利用して、上方向からジップロックの袋を素早く覆い被せて捕獲することが出来たのは、この理論による。
しかし、普通に考えればスズメバチを袋一枚で捕えようとするのは狂気の沙汰であろう。
こんなことが出来るのは、截拳道の鍛錬で徹底的に動体視力を鍛え、スズメバチの移動速度よりも更に速い突きを実現する辰樹ぐらいであった。
そして、廊下に逃げ出したクラスメイトらからはどよめきと称賛の声が湧き起こった。
それらの声を、辰樹は完璧に無視した。今回彼がスズメバチを捕らえたのは彩香やクラスメイトらを守る為ではなく、完全に自分の都合だったからだ。
「た、たっちゃん……そそそそそれ……だ、大丈夫、なの?」
今尚顔を真っ青にして床にへたり込んでいる彩香が、辰樹が携えている袋を震えながら指差した。
そんな彼女に対し、辰樹は全く問題が無いと鼻を鳴らした。
そこへ、他のクラスメイトらに一歩先んずる格好で優衣が教室内に駆け込んできた。
「す、凄いわね、佐山くん! スズメバチを、あ、あんなに簡単に捕まえちゃうなんて……でも、それ一体、どうするの?」
「あ、これはね、蜂酒に漬けるんス」
実は辰樹の截拳道の師匠が、蜂酒を好物としていた。
蜂酒とは、スズメバチを焼酎で漬け込んだ酒のことを指す。
日本の里山では農作業や山仕事の疲労回復の為に、薬膳酒として供される文化があるのだという。
辰樹の師匠は、この蜂酒に目が無かった。
「こ、怖く、ないの?」
「刺されたら痛いんだろうけど、当たらなければどうということはない」
どこかの赤いひとみたいな台詞を吐きながら、辰樹は念の為にもう一枚、ポリ袋を上から覆い被せた。
すると廊下に逃げていたクラスメイトらが尚もびくびくしながら、三々五々、教室内に引き返してきた。彼ら彼女らは口々に凄いスゴイと称賛の声を尚も連呼していたが、決して辰樹に近づこうとはしない。
スズメバチに対する恐怖感もあるのだろうが、同時に辰樹が張り巡らせている心理的な見えない壁に、躊躇しているのだろう。
そういう意味では、堂々と歩を寄せてきた優衣は別格といえるのかも知れない。
「やっぱり佐山くんって、凄いね……只者じゃないとは思ってけど」
際立つ程の美貌に苦笑を滲ませた優衣。
そんな彼女に、辰樹は警戒感をあらわにした。
「褒めたって、これはあげませんからね」
「うん、要らないイラナイ。譲るっていわれても、わたし困っちゃうから」
ころころと可笑しげに肩を揺する優衣。
一方、彩香は未だに尻餅をついたままだった。
「でも、ホントに、ありがと、たっちゃん……アタシ、マジですっごく、怖かった……」
「どうでも良いけど彩ちゃん、パンツ見えてるよ。早く立ちなって」
辰樹に指摘されて、漸く自身の現状を認識した彩香は、慌てて立ち上がった。
しかし彼女は耳まで赤くしながらも、囁く程の小さな声で辰樹にだけ聞こえる様に応じた。
「えっと……別に、たっちゃんだったら、見られても、イイかな、なんて……」
意味不明なひと言に、辰樹は思わず眉間に皺を寄せた。
が、彩香の言葉などはすぐに忘れた。今は捕えたスズメバチを殺さずに持ち帰る方法を考えるだけで、精一杯だった。