29.俺のもうひとりの幼馴染み
辰樹は少し、首が痛かった。
昨日、公園で彩香から浮気者呼ばわりされて以降、何をどうすればそんな風に考えることが出来るのかと、自室で首を捻りながら考え込んでしまったのだ。
その際、本当にもげてしまうのではないかと思える程に何度も何度も首を傾げていた為、予想外な筋肉痛となってしまっていた。
截拳道の鍛錬で頸部の筋肉も一応鍛えてはいるが、普段余り動かすことの無い使い方をし続けた為、一部の筋組織が破壊されてしまったらしい。
しかし今は、そんなことをいっていられる場合ではなかった。
現在辰樹はT高校空手部の面々が集まる道場に居る。
そして目の前では、道着姿の空手部主将が気合の入った顔つきで空手の構えを取っていた。
放課後の、部活が始まろうという時間帯だった。
実は辰樹、この空手部主将からの申し入れで三本先取の寸止め試合をする破目に陥っていたのである。
「それでは始めます」
審判役には、副主将を務める二年生のイケメン男子が立った。彼は辰樹の隣のクラス、二年B組の生徒だ。
そしてギャラリーは大半が空手部員の生徒達だったが、その中にはわざわざ駆けつけてきた陽奈魅や柔道部主将、更には優衣なんかの姿もあった。
何故、こんな状況へと至ったのか。
発端はこの日の昼休み、隣の教室から副主将のイケメン男子が訪ねてきたことだった。
「佐山くん、だね? 済まないんだけど、放課後に道場まで来てくれないかな」
イケメン副主将は心底申し訳無さそうな顔つきで、小さく頭を下げた。
曰く、空手部主将がどうしても辰樹と勝負したいといい出して聞かないというのである。
よくよく経緯を聞いてみると、例のストーカー男を撃破したのが実は辰樹だったということを、陽奈魅と柔道部主将がポロっと漏らしてしまったらしい。
これに気を悪くした空手部主将が、ならば実力を見極めてやるなどといい始め、副主将のイケメン君に命じて辰樹を道場まで呼び出したという訳である。
(面倒なことになったなぁ)
まさかバレるとは思っていなかった辰樹だが、しかし空手部主将は一見豪気そうに見えて、中々しつこい面がありそうな気もした。
ここは素直に試合に応じて、適当なところで満足させてやれば良いだろう。
しかし陽奈魅の口からストーカー男撃破の際の状況を事細かに聞いていた模様で、余り中途半端な結果を残しては禍根を引きずることにもなりかねない。
ここは或る程度、辰樹自身の実力も披露した上で相手を納得させるしかないだろう。
であれば、2対3の対戦成績で辛うじて負けたということにするのがベストだ。空手部主将のプライドを破壊せず、且つ辰樹の実力を認めさせて相手も納得する形となれば、これ以外に方法はない。
「遠慮せずにかかって来い」
空手部主将は完全に辰樹を舐め切っているらしく、余裕の表情。
ところがその数秒後には、その強面に愕然たる色が張り付いていた。辰樹がほとんど一瞬で間合いを詰め、一本目先取となる拳打を相手の顎先に突き入れていたからだ。
「一本! 佐山くん!」
副主将が何の迷いも無く、辰樹の勝利を宣言した。辰樹が見るところ、この副主将は相当な腕前であり、単純に空手の実力だけを見れば主将をも上回っているのではないかとも思える。
しかしT高校空手部は、基本的には三年生が主将を務めることになっているらしいから、目の前に居る対戦相手は実力ではなく、たまたま生まれた年が早かったという理由のみで空手部のトップに立っているだけの話であろう。
実際、この三本先取の試合の中でも辰樹は全く負ける気がしなかった。それでも不自然に見られない様に負けを装うことが出来たのは、この空手部主将と辰樹との間に、相当な実力差があったからだ。
そして目論見通り、2対3の対戦成績で空手部主将が辛勝したという結果で終わらせることが出来た。
「それまで! 対戦成績3対2で主将の勝ち!」
副主将が声を張り上げると、道場内にはどよめきが生じた。空手部主将が勝ったことよりも、彼を対戦成績上で追い詰めた辰樹の実力に驚いている様子だった。
そして副主将は一瞬だけ、辰樹に苦笑を投げかけてきた。どうやら彼は、辰樹がわざと負けたことを見抜いている様だ。
「やるなぁ、お前……正直、甘く見ていた。俺が居なくとも、お前ならあのストーカーを倒せていただろうな……」
空手部主将が、それまでとは一変した敬意に満ちた表情で手を差し出してきた。
辰樹は握手に応じながら頭を掻いた。
「いえいえ……俺が二本取れたのは、普段先輩がほとんど接したことの無い武技だったからです。研究されてたら一本も取れなかったでしょうね」
一応謙遜して、相手を立てることも忘れない。空手部主将はすっかり上機嫌となり、挙句には心の友だの最高の好敵手などといい出し始める始末だった。
「なぁ、良かったらうちに入部しない?」
同学年の空手部員が勧誘してきたが、辰樹はやんわりと断った。
截拳道の動きが染みついている辰樹の技術では、空手の試合などでは多くの制限が課せられる。それに何より自分自身が、部活という集団の中で上手く馴染めるとも思えなかった。
やがて、空手部の面々から笑顔で見送られて道場を後にした辰樹。
ところが問題は、この後に潜んでいた。
「あの、佐山さん……少し、宜しいでしょうか?」
物凄く真剣な面持ちの陽奈魅が、辰樹を道場前の渡り廊下で呼び止めてきた。
一体何事かと小首を傾げながら踵を返すと、陽奈魅は距離感がおかしいのではないかと思える程の勢いで、その美貌をずいっと寄せてきた。
「佐山さんの截拳道……かなり年季が入ってますよね。いつ頃から学んでいらっしゃったんですか?」
曰く、例のストーカー男撃破の際にはほとんど一瞬で勝負が決まったから、ここまでじっくり見る機会が無かったという陽奈魅。
しかしこの日の試合で彼女は、何かを確信したらしい。
辰樹は、何となく嫌な予感を覚えた。
「えぇっと……まぁ、そうっスね。少なくとも十年以上は……」
すると陽奈魅は、矢張りそうかと納得した様子でたわわに実った乳房を押さえ込む様に腕を組んだ。
「そういえば……タツ坊も、同じぐらいの時期に……」
ふと何気ない様子で、そんな呟きを漏らした辰樹。
だがこの瞬間、彼は思わぬ形で確信を得た。
(や……やっぱり、このひと……ナミ姉だったんだ……!)
そんな辰樹の内なる驚愕には気付かぬ様子で、陽奈魅は尚も真剣な面持ちで考え込んでいる。
彼女が時折見せていた懐かしい面影は小学生の頃の、あの活発な美少女のものだった。これまで何度も覚えた既視感は、矢張り彼女がナミ姉である事実を裏付けていたのである。
つまり陽奈魅は、もうひとりの幼馴染みだったという訳だ。
と同時に、辰樹は息を呑んだ。
(ヤバい、どうしよう……俺、このひとと距離取り続けること、出来るかな……)
初恋のひとが、目の前に居る。
正直いって辰樹は、全く自信が無かった。