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28.俺の下痢腹

 余りにも不用意だったと、辰樹は己の迂闊さを責めた。

 陽奈魅とは距離を取らなければならないと決意したにも関わらず、彼女のペースに乗せられ、つい二度もアフタヌーンティーを一緒に堪能するなどしてしまった。


(いってることと、やってることがバラバラじゃねぇか……)


 不甲斐無い話である。

 あれ程に自分を戒めた筈なのに、結局辰樹は、陽奈魅がナミ姉かも知れぬという淡い慕情に引き摺られてずるずると彼女との交流を続けてしまった。

 初恋の相手と思しき女性との縁を切りたくない――その抑えようもない本心が、辰樹の覚悟を大いに揺るがせていたことは間違い無いだろう。

 その結果彩香に、陽奈魅がナミ姉である可能性という余計な疑念を抱かせてしまった。


(樫原さんとの付き合い方は、ちょっと考えないといけないかも知れないけど……)


 だが陽奈魅との関係について思考を巡らせるのは、後回しだ。

 今は目の前の難敵、彩香をどうにかせねばならない。

 辰樹はひとつ深い吐息を漏らすと、自らを落ち着かせるように低い声音で問い返した。


「樫原さんがナミ姉だったとして、それが何だっていうんだい?」


 この辰樹の反問に対し、彩香は急に表情を暗くして俯いた。

 何やら、口の中でもごもごいっている。余りに不鮮明な声音だった為、彼女が何をいっているのかさっぱり聞き取れなかった。


「え? 何? 俺が何だって?」


 辰樹はそっぽを向いている彩香を、回り込む様な姿勢で覗き込んだ。

 すると彩香は不満げな表情でちらちらと視線を返しながら、反撃の一手を放ってきた。


「だってさ……もし、あのひとがナミ姉だったら……たっちゃん、浮気するかも知れないじゃん」


 その瞬間、辰樹は全身を雷に撃たれたかの様な衝撃を覚えた。

 聞き間違いかと思ったが、しかし彩香ははっきりと、辰樹の浮気は許せぬという意味の台詞を口走っていたのである。


(な……何いっちゃってくれてんの、このひと……)


 辰樹は目の前に居る美少女が、果たして本当に人間なのかと心底疑ってしまった。

 或いは人類の皮を被った物体Xではないかとすら思えた。

 彩香はあろうことか、浮気は許さぬなどと語っている。

 己が散々やらかしたことを完全に棚に上げて、辰樹の心変わりを責めようという訳だ。

 最早、正常な思考で捉えるのは余りに危険な存在だ。自分の幼馴染みは、得体の知れない化け物だったということだろう。


(あり得ねぇ……あり得ねぇよ……何をどうしたら、そこまで自分のことを棚に上げられるんだよ……)


 辰樹は恐怖すら覚えた。

 彼女はもう、まともな議論など全く不可能な相手ではなかろうか。

 だが、ここで動揺している姿を見せてはならない。下手に狼狽えれば、彩香の思う壺だ。


(く……こんな挑発なんかにゃ乗らねぇぞ!)


 恐らく彩香には、辰樹を挑発するという意図は無かっただろう。しかし辰樹は、彼女の浮気許すまじ発言は紛うこと無き挑発だと解釈していた。


(落ち着け……冷静になるんだ……そうだ、こんな時は素数を数えれば良いとか何とか、偉いひとがいってたっけ……)


 そこで早速思いつく限りの素数を頭の中で諳んじ始めたが、すぐに枯渇した。実は辰樹、素数は余り多くは覚えていなかったのである。

 ならばと今度は、別の方策で自らを落ち着かせようと頑張った。


(そうだ……英訳だ。棚に上げるを英訳するんだ)


 どこからそんな発想が出てきたのかは自分でもよく分からないが、今は兎に角、彩香からの挑発を華麗にやり過ごす為の時間と精神的なゆとりが必要だ。


(How can you put yourself on hold and say such a big thing to others?)


 我ながら、中々の出来栄えだ。

 今ならインバウンドな社会にも適応出来るかも知れない。

 そして心が安らいでくると、今は何をすべきなのかがはっきりと見えてくる様になった。


「あのさ、彩ちゃん」

「……何?」


 彩香は警戒する様な目つきでじろりと睨み返してきた。

 しかし、己の為すべきことを理解した辰樹はほんの少しもたじろぐことなく、次なる一手を打った。


「腹減ったから、帰る」

「ちょ……ちょっと待ってよ! アタシまだ、お話終わってないんだけど……」


 狼狽する彩香だが、辰樹の判断には僅かな揺らぎも曇りも無い。

 そう、ここはもうさっさと逃げるべきだ。

 話の通じない相手、どう転んでも勝ち目の無い相手からは逃げる以外に手はない。

 三十六計逃げるに如かずとは、今の辰樹の為にある様な言葉だろう。


「あと微妙に下痢だし、切れ痔でケツ痛いし、もう我慢出来ない。また明日ね」

「え、どゆこと? たっちゃん切れ痔だったの? ちゃんと軟膏塗ってる?」


 そこ、喰いつくとこか――辰樹は内心で呆れながらも、さっさとベンチから立ち上がった。

 彩香も仕方無さそうに、一緒になって腰を浮かせた。

 一応辰樹の腹具合を気にかけてくれているのか、心配げな面持ちで横から覗き込んでくる。


「大丈夫? お腹痛いなら、浣腸持ってこようか?」

「いや、彩ちゃん……下痢腹で浣腸は逆効果だって……」


 どうやら彩香も微妙に動揺しているらしい。

 自分の恋バナを下痢腹と切れ痔で断ち切られたのだから、それも無理からぬ話か。

 いずれにせよ、今宵の危機は何とか乗り切った。

 明日以降、陽奈魅とは今後どの様に接してゆくべきかを改めて考えなければならないが、今は兎に角自宅に逃げ帰ることが先だ。


「たっちゃん、きっとアレだよ……唐揚げの食べ過ぎだよ。多分、脂に当たっちゃったんじゃない?」

「ハイ、ソーデスネ」


 適当な相槌を返しながら、辰樹は自宅の玄関ドアに逃げ込んだ。

 今夜はもう、誰とも顔を合わせたくはなかった。

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