23.俺の名言?
後で少し、時間をくれないか。
昼休みが終わり、もう間も無く五時限目が始まろうとする段になって、優衣が不意にそんなメッセージをラインで送りつけてきた。
一体何事かと訝しみつつ、放課後に階段横の用具室前で落ち合うことにした。
そして指定の時間、指定の場所に辰樹が足を向けると、先に待っていた優衣が随分と落ち込んだ顔でひとり静かに佇んでいた。
「どうかしたんですか?」
「うんと、あのね……」
若干いい辛そうに、口の中でもごもご言葉を濁らせている優衣。だがそれも最初のうちだけで、彼女は大きな溜息を漏らしてから用件を切り出してきた。
「その、御免なさい……わたし、カレシとは別れられなかった……」
何だそんなことか――辰樹は喉元まで出かかった応えを辛うじて呑み込んだ。
そもそも、辰樹の方から優衣に対して、カレシと別れてくれなどと頼んだ覚えはない。あれは優衣がサフレを復活させたいからと、彼女の意思で一方的に宣言してきたに過ぎないのだ。
それ故、ここで下手な応答を返してしまえば辰樹も優衣の行動に自ら一枚噛んでしまうことになりかねない。流石にそれは危険だと己の本能が警鐘を鳴らしていた。
「わたし、サフレが欲しいけど不義理なことはしたくないから、別れてってお願いしたんだけど……そしたらカレシが、今までわたしのプロレス趣味を真剣に捉えてなかったことを、謝ってきて……」
そのカレシの気持ちも分からなくもない。
優衣程の美少女が、お洒落やグルメなどの一般的な女子高生が好みそうな趣味よりもプロレスを優先させるなど、少し想像し辛いだろう。
ところが今回、彼女が別れ話を切り出したことで漸くカレシも己の認識の甘さを痛感したに違いない。
優衣曰く、今のカレシはこれからは優衣の趣味にもしっかり向き合うことを約束してくれたらしく、何なら自分が優衣のサフレになるべく、体を鍛えようという決意まで示した模様。
(良いカレシさんじゃないですか)
辰樹は素直に、優衣のカレシの人柄の良さに感心した。
自分のカノジョが特殊な趣味を持ち、しかもオトコの側がカノジョの好みに合わせて自分の意識を改造しようなどというのは、ちょっとやそっとでは出来ることではないだろう。
そんなにも良いオトコを辰樹とのサフレ復活の為に斬り捨てるなど、言語道断だ。
少なくとも、歩み寄ろうとしてくれる相手の想いを無下に振り払うべきではない。
「だから、その、御免ね……わたしの方からサフレになって、なんて誘っておきながら、一方的に反故にする形になっちゃって」
「いや別に良いっスよ」
辰樹は若干の困り顔で頭を掻いた。
しかし内心では、大喜びだった。優衣が取ろうとしていた行動は、どんなに控えめに見ても相当に自己中な発想から出ていたものだ。
彼女がカラオケボックスのロビーで語った恋人との絶縁宣言は、相手の気持ちを考えずに、彼女だけの論理で動き出した或る種の暴走ともいって良い。
それを思いとどまることが出来たのだから、僥倖と考えるべきであろう。
だがそれ以上に辰樹が心から安堵したのは、自分自身が誰かのカノジョを寝取る様な真似をせずに済んだという点だった。
サフレは決して恋人という立ち位置ではない。しかしながらその女性のカレシを別れ話で苦しめることになってしまえば、それは結局その女性を寝取ることと変わらない。
辰樹としては、極力避けたい状況だった。
(何っつっても俺自身が、カノジョ寝取られて嫌な思いしたもんな……)
彩香が諒一に寝取られた。
あの一事を以て辰樹は、余程のことが無い限り、ひとがひとを奪うという行為は、少なくとも自分はなるべく避けようと決意していた。
それだけに今回、優衣が今のカレシとの別れを思いとどまってくれたのは本当に有り難い。
「まぁ、それならそれで良かったんじゃないスか? やっぱりあんだけ体を密着させる様なことは、カレシさんとやってくれた方が良いと思いますよ」
「うん、それはまぁ、そうなんだけど……」
と、ここで優衣はまたもや妙にもじもじした態度を見せ始めた。
まだ何かあるのか――辰樹は内心で物凄く渋い表情を浮かべた。
「わたしの彼ピってね、まだ全然筋肉とかついてなくて、その、すぐにはアルゼンチンバックブリーカーなんか出来そうにないのよ……」
「いや、それはもう根気強く待つしかないでしょ」
段々雲行きが怪しくなってきた。
このままでは優衣は、カレシとは別れないが、もうしばらくは隠れてサフレ活動をやりたいなどと二股宣言を口にしかねない。
セックスに走る訳ではないからビッチという呼び名は適切ではないだろうが、それでも大問題だろう。
ここは勝負所だ――辰樹は言葉を尽くして優衣の視線を飽くまでもカレシだけに向けさせる決意を固めた。
「カレシさんが非力なら、委員長が一緒になって頑張ったら良いんですよ。んで、カレシさんが立派にアルゼンチンバックブリーカー出来る様になったら、委員長だって、ワシが育てたってドヤ顔出来ますし」
「そっか……ワシが育てた……」
優衣は大きな胸を抑え込む様にして、腕を組んだ。
遂には、
「流石佐山くん、名言だね」
などと意味の分からないことをいい出す始末だったが、彼女が納得するならこの際、何でも良い。
ともあれ優衣がその気になってくれたならば、辰樹自身は間男にならずに済んだ上に、優衣の体面も守ってやることが出来たという理屈になる。
彩香の時は寝取られた幼馴染みを救う格好となったが、優衣の場合は自分が寝取ってしまう前に踏みとどまらせた訳だ。
この意義はとんでもなく大きいだろう。
「でもホントに御免ね。アルゼンチンバックブリーカー、気持ち良かったでしょ?」
「あの、委員長……何でもかんでも、一緒にしないで下さい」
辰樹は露骨に渋い表情を返した。
優衣のこういう部分が少し、残念ではある。