2.俺の幼馴染みはちょっとどうかしている
その日の夜。
自室のベッドに寝転がって、截拳道の指南書をぱらぱらと流し読みしていた辰樹。
幼稚園の頃から通っていた道場は師範が病気を患った為に閉館となり、今は譲り受けた多くの指南書やビデオなどを見て、半ば独学の形で稽古を続けている。
截拳道はかの有名なブルース・リーを始祖とする武術であり、哲学である。
元々彼は詠春拳を基本とした振藩功夫(ブルース・リー式カンフー)を教えていたのだが、ロサンゼルスに拠点を移してからは更に実戦的な武術を模索して研鑽と実践を重ね、1966年にその名称を截拳道と改名。
この截拳道は拳法のみならず、フェンシング、ボクシング、キックボクシング、サバット、柔道、空手道、合気道、レスリングなど様々な武道や武術、格闘技を参考にしているとされ、そういう意味では総合格闘技の一種ともいえるだろう。
現在、辰樹はこの截拳道を師範代レベルにまで極めており、その気になれば道場を開くことだって出来る。
が、今はまだ高校生ということもあり、飽くまでも学業を優先して現在の生活を送っていた。
(けど……俺が截拳道ばっかりにかまけてたから、彩ちゃんは富岡先輩に心変わりしたんだろぉなぁ)
そういう意味では、自分にも責任の一端はあるかも知れない。
が、それならそれで、裏でこそこそ隠れて浮気などせずに、ちゃんと正面切って別れ話を切り出して欲しかった。
勿論、辰樹自身は彩香のことが好きだったし、別れて欲しいと懇願されたらきっと悔恨の念が込み上げてきたことだろう。
しかしそれが彩香の望みであるならば、拒絶するつもりはなかった。彩香がそうしたいというのであれば、いつでも受け止める準備はあった。
それなのに、彼女は陰で裏切る様な真似をした。そのことが兎に角、残念だった。
(俺が、そんな空気を作ってしまってたのかなぁ……)
別れ話を簡単に切り出すことが出来ない様な、自分はそんなにも重たい人間だったのか。
彩香にそう思われていたのであれば、矢張り日頃の不愛想で感情の起伏の少ない己の性格に難があるというしかない。
であれば、彩香との別れはツラいものの、素直に受け入れるしかない。
(それにもう……俺自身、女の子の気持ちがよく分かんねぇや……何かもう、めっちゃしんどいし、メンドクサイ……)
いつの間にか、截拳道のことから彩香との破綻した関係に思考がシフトしてしまっていた。
やっぱり自分はまだまだ、彩香に対して気持ちが残ってしまっていたのだろうか。
(我ながら……キモい奴だよなぁ、俺って)
良い加減、彼女のことは諦めなければならない。でなければ、いつまで経っても自分自身が惨めなままだ。
仮に今後彩香が何かと気を遣って接してくることがあっても、辰樹としては男女の関わりを一切断ち切らねばならないだろう。
(ま……幼馴染みとしては、今後も友達では居たいけど……恋愛とかは、もう良いや)
何となく、そんなところで自分的に腹落ちした辰樹。
と、その時だった。
「辰樹~。彩ちゃんが呼んでるわよ~」
一階から母の香奈枝が呼びかけてきた。
この時、辰樹は室内に己ひとりしか居ないにも関わらず、思わずぎょっとした表情で自室ドアを凝視してしまった。
(え……何の用かな)
物凄く、嫌な予感がする。
しかし家族はまだ、辰樹と彩香の破局を知らない。そもそも付き合っていたことすら話していない。今回も単純に、お隣の幼馴染みが遊びに来た、ぐらいにしか考えていないだろう。
(うわー……やだなー……って、いってらんないか……)
辰樹は仕方なく、彩香を自室に通して貰うことにした。
それから数分後。
彩香は辰樹の部屋のドア前で、物凄く居心地の悪そうな表情で無言のまま佇んでいた。
「……何か用?」
しばらく続いた沈黙の後、辰樹は大きな吐息を漏らしながら訊いた。
彩香は尚も気まずそうな面持ちで僅かに俯き、辰樹と視線を合わせられないままだ。
流石に良い加減しびれを切らした辰樹は、表情を厳しくして彩香に詰め寄った。
「あのさぁ彩ちゃん……今、こんなことしてる場合じゃないんじゃないの?」
「え……どういうこと?」
辰樹がいわんとしていることが理解出来ないのか、彩香は驚いた様子で悲しげな瞳を返してきた。
その余りに鈍感な反応に、辰樹はやれやれとかぶりを振った。
「富岡先輩のこと、心配した方が良いよ。俺さぁ、結構本気でぶちのめしたから、当分学校には来られないんじゃないかな……ほらほら、早くお見舞いに行くなり何なりしなよ」
するとどういう訳か、彩香は今にも泣き出しそうな表情で口をぱくぱくさせ始めた。
だがこれには辰樹も正直、内心でうんざりした。
(何、被害者面してんだよ……泣きたいのはこっちだってぇの)
一発ガツンといってやろうかとも思ったが、しかしそれは余りにも大人げない為、何とか堪えた。
ここはひとつ、紳士的に強制送還してやるしかない。
「はい、出口はこちらでございます」
いいながら辰樹は自室のドアを開き、何かいいたそうにしている彩香を無理矢理廊下に押し出した。
「母さーん、彩ちゃんもう帰るってー」
「あらー、そうなのー? もうちょっとゆっくりしてけば良いのにー」
辰樹は腹の底で、冗談ではないと毒づいた。
このまま彩香に居座られてしまっては、彼女が何をいい出すのか分かったものではない。
ところが彩香は意外にも、素直に頷き返して佐山家を辞していった。
但し、彼女は帰り際に悲しそうな面持ちで僅かに振り向き、妙な台詞を口走っていた。
「たっちゃん……アタシ、精一杯、償うからね……」
この時、辰樹は心底げんなりした。
本当にもう、勘弁して欲しかった。