1.俺の為すべきことと恋愛はもう終わっている
と或る、マンション内の一室。
そのリビング内で、佐山辰樹は自らが叩きのめした高校生や大学生の男共を軽く一瞥してから、トイレへと向かた。
鍵が、かかっている。
辰樹は冷めた表情で数度軽くノックし、トイレ内に居る筈の幼馴染み、若乃彩香に呼び掛けた。
「彩ちゃん、終わったよ」
するとカチャリと解錠する音が静かに響き、トイレのドアがゆっくりと開いた。
中から、ブラウスの胸元が大きくはだけた美少女が大粒の涙を流しながら姿を現した。
彩香だった。
「たっちゃん……来て……来てくれたんだ、ね……」
低い嗚咽を漏らして、そっと手を伸ばしきた彩香。
しかし辰樹は、そんな彼女の白くて柔らかな手をさっと振り払った。
「んじゃ、俺もう帰るし。身繕いぐらい、自分で出来るでしょ?」
「え……たっちゃん……そんな……どうして……」
尚も縋りつこうとする彩香。
そんな彼女に対して辰樹は、やれやれと小さくかぶりを振った。
「どうしても何も……俺はもう彩ちゃんのカレシじゃないし、彩ちゃんの好きなひとは今、リビングで死にそうな顔になって寝転がってるよ」
その瞬間、彩香はさっと顔が青ざめていた。
どうやら辰樹が何をいわんとしているのかを、理解した様だ。
「俺さ、知ってたんだよ。彩ちゃんが富岡先輩と浮気してたこと」
彩香を容赦なく突き放した辰樹は、リビングへと戻った。そこにはつい先程、辰樹が片っ端から叩きのめしたヤリサーの男達が無様に倒れ込んでいる。
いずれも苦悶の呻きを漏らしており、立ち上がれそうな者はひとりも居なかった。
そのうちのひとりが富岡諒一という一学年上の、同じ私立T高等学校に通う男子生徒だった。
(情けないなぁ……俺、こんな下らない奴にも負けてるんだよな……)
彩香とは、中学生の頃から恋人同士だった。
しかし先月、辰樹は見てしまった。彩香とこの諒一が、ひと気の無い校舎裏で熱い口づけを交わしている現場を。
辰樹と彩香は幼稚園の頃からの幼馴染みで、いつも一緒だった。
そんなふたりは中学校に上がった頃にはお互いに異性として意識する様になり、半ば自然と恋人として付き合う様になったが、辰樹が自他共に認める奥手な性格だった為、ふたりの関係はプラトニックなままだった。
辰樹は幼い頃から截拳道と呼ばれる総合格闘技の修得に熱心で、同時に学業に於いても秀でた成績を収め続けてきた。
その反面、感情がやや乏しい上に、同じ年代の男女が好む遊びなどにはほとんど興味を示さなかった。
どうやらその朴念仁な性格が彩香に厭われたらしい。彼女は、イケメンで色々な遊びを知っている諒一に惹かれた模様で、陰でこそこそとデートを重ねていた様だ。
そんなふたりの姿に、辰樹は絶望すると同時に己の不甲斐なさを痛感した。
(俺なんかじゃ、彩ちゃんは満足出来ないんだな)
辰樹は、彩香を諦めることにした。
彩香と諒一の仲を認め、ふたりの邪魔をしないようにしようと腹を括り、彩香とは距離を取ることにした。
ところが今日、その彩香が電話で助けを求めきた。ヤリサーの部屋に連れ込まれ、複数のオトコ達に無理矢理犯されそうになったのだという。
実は諒一も、そのヤリサーのメンバーのひとりだった様だ。彼は先輩達の求めに応じて、恋人である筈の彩香を輪姦の場に差し出そうとしたものと考えられる。
しかし間一髪のところで彩香はトイレに逃げ込み、手にしたスマートフォンで辰樹に救いを求めたらしい。
既に彩香とは袂を分かった辰樹だったが、しかし彼女の救いを求める声に応じた。
(彩ちゃんは、俺を裏切った……でも、一緒に居てくれた頃の思い出までは、否定出来ないよな)
かつては恋人同士だった。それは紛れも無い事実だ。そんな幼馴染みからの救いを求める声を、辰樹は無視することは出来なかった。
そして、少し前。
辰樹は彩香が連絡してきたマンションに乗り込み、宅配業者を装って玄関を開けさせることに成功。そのまま押し入って、室内に居たヤリサー連中を問答無用でぶちのめしたのである。
だが、そこまでだった。
辰樹が彩香に対して果たす義理は、その時点で終わっていた。
後は今まで通り、自分を裏切って他のオトコへと走った彩香を突き放すのみである。例え彼女が御礼の言葉を口にしたとしても、一切聞き入れるつもりは無かった。
「ねぇ、待って……ねぇ、たっちゃん! お願いだから、待って……」
よろよろと覚束ない足取りでリビングへ足を踏み入れてきた彩香だったが、彼女はそこで恐怖に引きつった表情を浮かべて凍り付いた。
叩きのめされて動けないとはいえ、先程まで自分に暴力を振るおうとした男達がそこに居るのである。
怯えて当然であろう。
しかし辰樹は、そんな彩香に手を差し伸べるつもりは無かった。
代わりに彼は同じリビング内の一角で、半裸の状態でがたがたと震えながら蹲っている女性の傍らへと歩を寄せた。
「これ、貴方の服ですか? そのまんまじゃ外に出られないでしょうから、さっさと服着て、逃げちゃって下さい」
辰樹は、彩香が着ていたものと同じデザインの制服を無造作に手に取って、その女性の前にそっと差し出してやった。
すると、その女性は怯えの中に幾らかの安堵の色を乗せて辰樹に視線を返してきた。
びっくりする程の美しい少女だった。歳の頃は、辰樹や彩香とほぼ同じぐらいか。
「あ……佐山、くん?」
「俺のこと、知ってるんです?」
不意に己の名を呼び掛けてきた正体不明の美少女に、辰樹は小首を傾げた。
一方、名も知れぬその美少女は、辰樹から衣服を受け取って胸元を隠しながら、そっと立ち上がった。
「あの……わたし、天坂です。天坂優衣……佐山くんと同じ、二年A組の……」
この時辰樹は、腕を組んで小首を傾げた。
正直、全く記憶が無い。だが、それも当然か。
辰樹は基本、クラスメイトの名前や顔などには全く興味が無く、覚える気すら無かった。
優衣のことを知らなかったとしても、全く不思議ではない。当然といえば当然の話であろう。
「えっと、すみません。俺、基本的にクラスメイトの顔も名前も全然覚えてないんで」
いいながら辰樹は踵を返した。
取り敢えず、やるべきことはやり終えた。
彩香にしろ優衣にしろ、後は勝手に逃げ出すなり何なりして欲しい。それぐらいは自分で出来るだろう。
「じゃ、俺もう帰るんで」
尚も何かいいたげにしている優衣をその場に放置して、辰樹はその部屋を去った。
当然、彩香の追い縋る声なども全く、無視して。