第5話
翌日以降、私の生活に不安と恐怖が混ざり始めました。
例のお辞儀をする男とたびたび遭遇するようになったのです。
場所は大学や自宅周辺、スーパー、映画館、ショッピングモール等、特に規則性はありません。
男はふとした瞬間に遠くに立っており、こちらに背を向けて頭を揺らしているのです。
気になるのは、男がだんだんと私に近付いていることでしょうか。
常に距離が短くなっているわけではないのですが、たまに十メートルほどの場所にいたりするのです。
さすがに怖くなった私は、大学で日奈子に相談しました。
日奈子は眉間に皺を寄せて唸ります。
「やばいね。警察に相談した?」
「したけど今の時点では動けないって」
「何それ。全然役に立たないじゃん」
日奈子は不満そうに頬を膨らませて、ため息を吐きました。
それから彼女は気を取り直して私に尋ねます。
「どれくらいの頻度で遭遇するの?」
「三日に一回くらい……? 一日に何回か会う時もあるけど」
「うっわ、完全に監視されてるね。それで警察が動かないんだ」
「実害が出ていないから厳しいって」
「何のための警察だよ」
頬杖をつく日奈子は、足をばたばたと動かしてテーブルに突っ伏しました。
それから顔だけ私に向けて提案します。
「危なそうだし、うち泊まる?」
「いやいや、迷惑だよ。日奈子に危害がいくかもだし」
「あたし空手やってたから返り討ちにするよ。このまま何もしない方が心配だからさ、ね?」
「うーん……」
日奈子を巻き込むのは躊躇しましたが、これ以上一人でいるのが不安だったので、私は彼女の提案に甘えることにしました。
夕食後、日奈子の家に一緒に帰りました。
気を紛らわせるため、ゲームをしながら時間を潰します。
途中、日奈子がニヤニヤしながら言います。
「ホラー映画でも観る?」
「さすがに今はちょっと……」
「だよねー」
いつの間にか日付が変わっていたので、私達は布団に入りました。
ゲームの途中から酒を飲んでいたせいか、日奈子はすぐに寝息を立て始めました。
私はというと、少し目が冴えてしまい、なかなか寝付けません。
物音で日奈子を起こしてしまうのも申し訳ないため、じっと天井を見つめたまま眠気が来るのを待っていました。
布団に入って三十分が経過した頃でしょうか。
ベランダ側の窓から何かがぶつかる音がしました。
その音は一定の間隔で鳴り続けています。
私は布団を頭で被ると、イヤホンを着けて大音量の音楽で誤魔化して眠りました。
そして翌朝。
私は少し焦った様子の日奈子に起こされました。
「ねえ、美琴。起きて。起きてってば」
「何? どうしたの」
「窓。見て」
日奈子がベランダのカーテンを開けました。
窓の一か所に小さな亀裂が入り、少量の血が付いていました。
私はその光景に固まってしまいました。
(昨日の音って……)
日奈子は窓を開けてベランダを確認した後、自信なさげに呟きました。
「カラスとか雀がぶつかったのかな、たぶん。死骸は落ちてないけど」
私の脳裏を過ぎったのは、例のストーカーです。
でもそれは絶対にありえません。
日奈子の部屋はマンションの七階にあるからです。
人間がベランダまで侵入するのは困難でしょう。
結局、明確な答えが出ることなく、私達は大学に向かいました。
電車に揺られる間、頭の中では昨晩の窓の音が延々と繰り返されていました。