このとき
その翌日だった。使用人の平塚静さんの声で目を覚ました。
「翔様、本日は学校へ行かれる予定ではないですか?」
「おはようございます、そうでしたね。」
僕は起き上がって布団を畳んだ。そして、静さんが用意した朝食を食べる。
そして、鞄を持って出ようとした時、朱羽さんに声を掛けられた。
「翔様、出掛ける予定ですか?」
「大学に行くんだよ。」
「私も行きたいです!」
「蝶である君を連れて行く訳にはいかないから、ごめんね。」
「そんな…」
朱羽、そして鳳は残念そうに僕を見つめた。
僕が通う『聖都学院』は、学校法人聖都学園が運営する大学だ。蝶野家と聖都学園は密接な関係で、僕は、幼稚園の頃からそこのお世話になっていた。要は私立の持ち上がりという訳だが、僕は幼い頃から必死に勉強していた。
そんな聖都学院には、仲間が居る。幼馴染で高月堂の跡継ぎの高月遊星。兄さんが庭師の稲守鈴芽さん。そして、離島から一人でやって来た八木久遠君。学部も経歴もバラバラな僕達は仲良くしている。大学に居る時は蝶野家の当主という立ち場を忘れて、同級生とはしゃいでいる。もちろん、勉学にも励んでいる。
僕達は、講義の合間に中庭に集まっていた。そこで思い思いの話をする。
「翔、ほら、差し入れだぞ。」
遊星が手渡したのは、紙パックの酸乳飲料だった。僕はそれを飲みながら、遊星の話を聞く。
「今度店で新メニューを出すんだ。フルーツみつ豆の上にかき氷を載せるんだ。その上から練乳を掛けて…、」
「へぇ…、白くまアイスみたいで美味しそう!」
「遊星君、そんな話したら胃まで甘くなりそうだよ。」
甘いものが苦手な久遠君が眉をしかめた。
「そっか…、でも俺は和菓子屋の跡継ぎだからな、甘いのを売るのが商売だからな。」
「今度食べに行っていい?」
久遠君は置いておいて、甘いものが好きな僕は、どうしてもそのフルーツみつ豆かき氷が気になった。外出が許されるのならば、食べたい。
「ああ、翔の為に作るよ。」
「ありがとう!」
それから僕達はしばらくフルーツみつ豆かき氷について喋っていた。その間、久遠君は嫌そうにしていたが、高月堂は喫茶をしているという話を聞いて急に飛びついてきた。どうやら、久遠君はコーヒーや抹茶といった苦いものが好物らしい。僕達は今度高月堂に行くと約束し、それぞれの講義に戻った。
聖都学院に居る間は、自分が蝶野家の当主である事を忘れられる。遊星や学生達と仲良くするのが何よりも楽しい。学院を卒業すれば、外出する事も少なくなるのだろうか。
今日、僕は今宮洋教授と話していた。教授は提出物のレポートを見ながら何か考えているようだった。
「そっか…、蝶野も来年卒業なんだな。」
「はい…。」
「成績も申し分ないし、単位も落としてない。順調に行けばこのまま卒業出来そうだぞ。」
「ありがとうございます…。」
僕は鞄を握りながらそう答えた。
「それで、卒業後は実家を継ぐのか?」
「はい…、もう既にしているのですが。」
「そっか…、大変なんだな。」
「中退する手もあったのですが、やはり最後まで勉学に励みたいので、家業をしながら通学しています。」
今宮教授は、蝶野家の僕を一人の生徒として扱っている。蝶野家は聖都学園に出資している事から、特別扱いする教授や先生も珍しくはない。それが原因で僕は裏口入学したという変な噂が立った事もある。
僕は聖都学園に入学する為に幼い頃から必死になって勉強した。一見優雅に泳いでいる白鳥も、水面下では足を藻掻いているようにだ。涼しい顔で学園や学院に居るように見えるが、実は誰よりも必死だ。家が恵まれているからこそ、僕は努力していた。
お祖父様とお父様が亡くなってから、僕は蝶野家の当主になった。若い当主の誕生に親戚達は反対すると思ったが、誰も反対しなかった。僕は家業と学業を一人でこなさなければならなかった。お母様は家業に集中すべきだとおっしゃったが、それでも僕は最後までやりたかった、
一日の講義を終え、僕が帰ろうとした時だった。階段で足を捻挫してしまい、その場にしゃがみ込む。その時、同ように帰ろうとした久遠君が通り掛かる。
「足をくじいちゃって…。」
「送ろうか、家まで背負ってあげるよ。」
久遠君は、僕を小さい子供のように容易く持ち上げ、背中に乗せた。
「久遠君は背中大きいね…。」
「そうかな?」
久遠君は背が高く、顔立ちも整っている事から、大学では有名人だった。そんな久遠君は、都会に出たいという一心で、聖都までやって来たのだと言う。
「それにしても、大学なら国立の帝都大学に行く道もあったんじゃない?どうして、ここにしたの?」
「ここの方が雰囲気好きなんだ。それに、帝都大学に行ける学力まではなかったからね。それでも僕は聖都に来たかったんだ。」
「そっか…。」
「翔君は大変だね。仕事しながら学校に通っているんでしょ?」
「うん…、でも慣れたよ。」
学業と家業の掛け持ちに慣れたのは本当だが、大変なのは確かだ。それでも続けられるのは、遊星達が居るからだ。遊星達が居るから、勉強も、楽しみも続けられる。
正直、家には帰りたくなかった。鳳さんと朱羽さん、二人が待っているから。でも、帰らなければならなかった。二人が待っているから。もし、今後誰かと結婚するなら、こんな気持ちになるのだろうか。そうだとすれば、僕はまだ、結婚する自信は無い。
いつの間にか僕は久遠君の背中で眠っていたようだった。家に着くと下ろされ、久遠君と別れた。