扉
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その日の仕事は終わるのが常より遅かった。自宅に帰り着いたのはすっかり夜が更けた11時頃だった。
玄関を開け照明を付けたぼくはぐったりとし、足をひきずるようにして部屋に向かい、着替えもせず、うつ伏せにくずおれるように横たわり、そしてあっという間に寝てしまった。普段にない量の仕事をこなしたのだ。疲弊は結構なものだっただろう。
さいわい、明日は休みだった。
寝て、ぼくはある夢を見た。
真っ暗闇。雨の降る音が聞こえる。しとしと。小雨のようだ。
ぼくは目を開けた。すると暗幕が上がり、明瞭な景色が眼前にじんわりと広がっていく。
昼のようだった。
てっきり横になっていたと思い込んでいたが、違った。ぼくは立っていた。
傘を差し、あちこちに整然と植樹されたレンガの上。濡れたレンガはテカテカ光っている。
ここは、どこだろう? 広場のような……
辺りを見回す。4階建てくらいの建物が周囲にある。遠くに目を向けると道が、門まで伸びている。門の先は……霧か靄でよく見えない。
思うに、学校なのだろう。そしてここはその中庭。いつか幼い時、同じような景色を見たことがある。
空を見上げれば、気重な雲の壁。
ぼくは一人だった。
校舎の出入り口のガラス扉を見る。校内は薄暗く、人気がなさそうだ。
ぼくは歩いて行って、傘を閉じ、扉のそばにたてかけると、中に入ろうとした。
だが、把手に手を伸ばそうとして、はっとする。ガラス扉にある反映があるのだ。それは、ぼくでも、はたまた中庭の木々でもない。
その反映は、ぼくの影法師のようだった。真っ黒でまるで視認出来ないが、ぼくと同じ高さの背で、痩せ具合も同じで、そう、ぼくの影法師のようだった。
「入るのは、よくない?」
『うん』
「どうして?」
――難しい迷路なんだ。
そう、影法師は答えた。
迷路? ぼくはガラス扉の向こうに目を凝らした。
見れば見るほど、不確かな、ここがかつて自分が通った学校なのだろうという推測が、確かなものになっていく。
だが、中は真っ暗だった。深淵であり、虚空であった。そこにはまれば二度と抜けることの困難な、"それ"だった。
ふと、ぼくの分身が、その反映が、じんわりと消えていく。そして、ぼくの反映が心なしか、くっきり見えるようになった気がする。
もう一人のぼくは目を開けて怪しげに微笑む。彼は指を下方にさす。ぼくは目でその動きを追う。
すると、立てかけていた傘が、ぱたんと、ぼくの方に倒れてくる。つぶらな雨粒がズボンに付着する。
ぼくは雨傘をおもむろに拾うと、再びガラス扉を見た。だが、そこにぼくの分身は最早いなかった。
影はぼくの足元に、よく見えないが、建物の車寄せの地面の陰に、溶け込むように存在していた。
ぼくはきびすを返し、傘を開けた。雨粒が弾け飛ぶ。
中庭に戻っていく。しとしとという雨音。空を見上げれば、しょげてしまいそうになる一面の灰色。
迷路。
その中に入れば、ぼくは、どうなっていたのだろう。あの影が暗に示したように、二度と抜け出せなくなったのだろうか。あるいは、あの校舎の中に、思い出を、昔の名残を、見出したのだろうか。
門の向こうは霧で見えない。まるで行き止まりのようだ。出るのはよして、しばらくこの中庭で、雨音に耳を澄ましていよう。
ぼくはパーカのポケットに傘を持たない方の手を突っ込み、顔を上げ、雨粒が降ってくる陰鬱な空を眺める。
――。
迷路に入ることを中止したぼくだが、内心、無意味なことのように思えた。ぼくは、自分がすでに迷路の中にいて、行き場を失ったことを、潜在的に知っている気がした。
夢には注意があった。だが、現実にはなかった。しかし、ぼくが現実という迷路の扉の前に臨んだ時、あの影法師は、まだ存在していなかった。
そら色の空間、そら色の空。そしてそら色の、中空に立った薄い一枚の扉は、おのずと開いて、物凄い引力でぼくをその中に吸い込み、そして閉じてしまった。ぼくは怪力に押し込まれてしまったのだった。
――。
ぼくはなお雨空を見上げて憂いの味をかみしめている。後ろを振り返る。
あのガラス扉の中は、空色ではない。真っ黒だ。
そのピカピカの面に、おぼろげにまた、消えていたあの影が、映りこんだような気がする。
影はガラス扉の内側に立って、ぼくを見つめている。
ぼくを制止するように、
と同時に、
ぼくを差し招くように……。
***