言い伝え
そのご老体は、今年八十になったのだという。
「それは……お若い」
驚きを隠さずそう言った娘に、上野と名乗ったそのご老体は照れ臭そうに笑う。
その顔も無邪気に見え、雅は思わず微笑んだ。
「あのお方が、先に逝かれたという知らせは、もう来ておる」
そう声をかけた先には、蓮が座っていた。
「……」
「私よりも、お前の方が、堪えるだろうと、あの方も心配しておられた」
「今さら、人の寿命で堪えることなどありはしません。ですから、あなたも安心して、往生なすってください」
「相変わらず、辛いのう」
言いながら苦笑する老人は、孫が来たというより、旧友が訪ねてきたような気楽さで、蓮と会話を交わしている。
「そういえば、蓮。お前が前に話してくれた話、こちらに戻ってから、聞いたぞ」
「おや、本当に、言い伝えられておりましたか」
しばらく表情が硬かった蓮が、久しぶりに笑顔になった。
今まで見た中で、一番嬉しそうな顔で、雅も気になって身を乗り出す。
「お話中、申し訳ありません。それは、どのようなお話なのですか?」
「別に申し訳がることも、遠慮することもない。薩摩のある村の、山の話なのだ」
「山……で、ございますか」
「うむ。その山はな、島原で起きた、大きな一揆が静まる少し前から、妙な者たちが住み着いてしまって、その者たちが、村を荒らしておったのだ」
島原のその一揆は、薩摩の侍たちも出払う、戦のような騒動になっていた。
だからこそ、荒らされる村の人々は、怯えながらもどうしようもなかったのだという。
「いつしか、その者たちが子供を攫い始めても、村人たちはどうしようもなくて、ただ仏に祈って過ごしていたのだが、ある時京から来た若いお坊さんが、その現状を知り、周囲の寺の徳の高い方々に呼び掛けて、その者たちを山に閉じ込めてくれたのだ」
「結界を張って、そいつらを必死で閉じ込めたはいいが、その京の坊さんは、そこから離れることが出来なくなっちまった。それだけ多く、集まってたんだ……妖しの類が」
気を抜いて、閉じ込める力が弱まったら、真っ先に喰われるのは、恐らくはその僧だ。
それでも、その僧は、二十年近くその場から動かなかった。
村の者が、力を合わせて作った小さな小屋で、村人の施しを受けながら、その年月を過ごしたが、こちらの力は弱まれど、閉じ込めた者たちの力は、そのままだった。
「そんな時、あるお武家が、わざわざ訪ねてきたのだ」
そのお武家は二人連れで、そのうちの一人は、何とも頼りない小娘のような、幼い子供だった。
聞くと、京から僧を迎えにきた若者が、思い余って呼んだらしい。
京の若者から、話を聞いて頷いたのは、幼い方だった。
色白のその子供は、連れに一言何かを言い残し、若者について、山へと向かっていったのだった。
ついて行った村人たちは、若者の紹介で僧に声をかけ、一人で山へ入っていく子供を、見送るしかなかった。
「その晩は、静かなものだったが、その次の夜、二晩目に山が騒がしくなった。どうやら山の中で何かが起こり、閉じ込めた者たちが、無理に外に出ようとしているらしかったのだが、坊さんは必死でそれをさせまいと、経を唱えていたそうだ」
今までより強く、僧の加護を感じた村人たちも祈る中、その夜はようやく明け、日が昇ってから子供が山から戻って来た。
全身血まみれで、恐ろしく眠そうな顔で。
「そこが、お前の話と違うのだ。村の者から聞いたという者の話では、その子供は、綺麗なままで出てきて、微笑んで村人に言ったそうだ。『もう、心配ない。憂いは去った』とな」
「言いませんよ。二晩も寝てねえんじゃあ、そんなお愛想無理ですよ、あいつには」
呆れ顔の蓮が、手を振ってそう言い切るところを見ると、その人物を知っているらしい。
「大体、そんな大立ち回りして、身綺麗なままなんてこと、ありえねえ」
「……眠そうなだけ、っていうのも、ありえそうにないけど」
「坊さんや、村人に感謝されながら、その子供は、数日でその村を離れていったとか」
「逃げ戻って来た、とか何とか言ってたぜ。拝まれて居心地悪くて、眠ろうにも、その寝姿を拝もうとされたとか」
言い伝えというものが、どれだけ信用できないか、分かる話である。
「そこまで、神がかりにされちまっちゃ、来れても来ねえよな」
苦笑交じりの蓮に、雅は気になったことを尋ねた。
「あなたの、知り合いなのか?」
「ああ。生きてりゃ、六十過ぎちまってるけどな」
「人間だったのか? その子?」
「ああ。その筈だ。こういう生き方してたら、不幸なガキだったぜ。寿命が尽きて、逝っちまってた方が、あいつにとっては、幸せだろうさ」
笑みを浮かべながらの言葉だったが、雅は道連れとしてやってきた中で、一番不思議に思っていた事に得心がいった。
小さい体ながら、その体力は並ではないのに、なぜか投げやりな感じがする。
その原因は、今出た話の主が、もうすでにこの世の者でないと、諦めているせいだ。
こんな状態の若者に、自分の頼みごとを切り出すのは、酷だろうか。
娘の気持ちなどお構いなしに、ご老体は、身を乗り出した。
「ところで、気づいたか? この村の山」
急に問われ、蓮は少し考え、それから同じように身を乗り出す。
「やっぱり、あれが、お話の山ですよね?」
先ほどから地が出つつも、蓮が丁寧な言葉を心掛けているところを見ると、上野の翁はかなり偉いか、世話になった相手なのだろう。
目を輝かせながら話すご老体からは、想像もできないが。
黙って座る戒とともに、聞き役に回った雅は、もう一つの山の言い伝えを聞いた。
「実はの、去年の夏、突如あの山の厄は、晴れたのだ」
「突如? 何の変わりもなかったのに、でございますか?」
「うむ」
そこで、上野の翁はしばらく考えていたが、それはどこまで話そうかという、躇いだったようだった。
「他でもない、お前に話すのだから、まあいいか。どうせ、お前は、国を出るのだろう?」
「ええ。一度薩摩を歩いてから、船で出島に、と思っております」
国とは、この島国、という意味のようだ。
ますます落胆する雅の耳に、ご老体の話は届いた。
「去年の夏、我が家にある旅の方々が、泊まって行かれたのだ。その方の一人が、大切なものを烏に持って行かれてな、追いかけて行った先が、あの山の中だったのだそうだ」
その一行は、全体的に、大柄な武者が多かった。
うち二人は年ごろの娘で、都の方に向かうのだと、言っていた。
その一行が一晩泊まった翌日、一つの騒ぎが起きたのだ。
「どこから降りてきたのか、恐ろしく大きな烏でな、遊んでいた子供たちの上を旋回した後、襲ってきたのだ」
騒ぎを聞いた上野と旅人達が、子供を守りながら屋根のあるところに逃げる途中、客の一人の若者が、烏の嘴に捕らわれた。
何とか振りほどいて、地に足を付け見上げると、烏は諦めたのか上へ登って行く。
その嘴に、きらりと光る何かを咥えて揺らしながら山の方へ飛んで行くのを見て、若い客が立ち上がった。
襟元を探るその表情は、険しいものになっている。
その後、何かを口走り、若者はその後を追って、走って行った。
村人も近づかないあの山に入るのを、誰も止める間は、なかったのだった。
少し間を空けて騒ぎ出した村人たちを、宥める上野の耳に、若者の連れたちの会話が聞こえた。
「……ねえ、あの烏って、まさか」
「ちょっと、馬力が足りなかったわねえ」
「おい、大丈夫なんだろうな。本当に?」
「多分ね」
小声でのその会話は気になったが、その会話は連れの数人だけで、他の連れは、村人と同じくらい取り乱していた。
「続いて山に入ろうとするのを、必死で止めたものだった。入った者は命がないというのは、言い伝えとして話した後だったから、それでも入ろうとする彼らと、あの若者の間柄は、どういうものなのか。少し気になったな」
その後、若者は出て来なかった。
山の中で力尽きたのだろうと、村人たちがさらに恐れ始めた三日目の夜、一人の若者が上野家を訪れ、客たちに引き継ぎを求めた。
「いなくなった若者と、同じくらいの年で、背丈も似ていたからてっきり戻ったと思ったんだが……」
「誰だったんですか?」
「分からずじまいだ」
だが、客のあの会話を交わした者たちは、顔見知りだったらしい。
客の一人が目を剥いたが、その男が何か言う前に、若者が言った。
「この、馬鹿者どもがっ」
目を据わらせた若者は、返す言葉を待つつもりはないらしく、自分が言いたいことをまくし立てた。
「お前らは、オレの力を、勘違いしてるぞっ。いいか、お前が山に入っても、その性分を治してやるなど、無理だっ」
指をさされた男は、負けじと言い返す。
「それ位、分かってるわよっ」
「なら、これは、分かってるのかっ? 生まれ持った体質は、変えられんっ。オレができるのは、生まれつき持っていたものを、甦らせる力を、その本人の身から、強引に引き出すことだけだっ」
「……どういうことですか?」
これは、いなくなった若者を心配していた、連れの問いだ。
その問いに、若者は少し抑えて答えた。
「人が数日かけて治す怪我を、一晩で綺麗に治す力を、その本人から引き出すと、 大抵は体力を失い命を落とす。お前らが山に入らせた奴は、どんな状態だった?」
「……入らせ……た?」
来た当初、連れがいなくなるまで、笑顔を絶やさなかった男が、真顔で連れの一人を睨む。
睨まれている方も、真顔になっていた。
「怪我を治す力を、本人から引き出すだけ、なの……?」
「やっと分かったか、この大馬鹿者がっ。お前らの責任で、あいつは迎えに来い」
「あの子は、無事なのっ?」
捕まえようとした男からするりと逃げ、若者は無情に答えた。
「それも、自分の目で、確かめに来い」
そして、後を振り返らずに、上野家を辞していく若者について、客が全員、山へ向かってしまった。
「思うに、あの若者は、山に住む者なのだろう」
「話からすると、そう感じますね」
考えながら頷く蓮は、雅が妙な顔つきで、黙り込んでしまっているのに気付いたが、先に話の続きを促した。
「その若い侍は、無事だったんですか?」
「翌日の朝、連れの者たちと出てきた。その右手に、拾った大事なものを、握りしめておった」
そこで、上野の翁は、溜息を吐いた。
「その若い侍は何かの衝突で、右腕をばっさり落とされていたのだが……」
雅と戒の顔が、明らかに強張った。
「それが、生えていた、と」
神がかりな話で驚くのは分かるが、それとは違う狼狽え方の二人に、話していた老人も、さすがに気になったようだ。
「どうしたのだ? 具合でも悪くなったか?」
「いえ。大丈夫です。お話を、続けてください」
「いや、しかし、顔色が、尋常ではないぞ」
顔を曇らせて、老人は娘の顔を伺う。
「しばらく、奥で休むがいい。夕飯時には、まだ間があるからな」
「ありがとうございます。ですがその前に、一つだけ、お尋ねしても、よろしいでしょうか?」
気遣った言葉に甘えて引いた雅は、頷いてくれた老人に、尋ねた。
「その若者が、握っていた大事なものというのは、黄金細工で丸い二つの石を、包んだものではありませんでしたか?」
その問いに、蓮が目を見開いて固まったが、それに気づかず老人は頷いた。
「二つの色の違う丸い石を、八匹の蛇が包んでおった。色は褪せておったが、あれは黄金で作られておるのだろう。鎖も、胡麻粒ほどのものが連なって、素晴らしい細工であったぞ」
「……石は?」
「……ん?」
別なところからの問いに、振り返った上野が、ぎょっとした。
「蓮?」
いつになく強張った若者の表情に、雅も驚いて、自分の動揺から覚めてしまった。
「その、蛇に包まれていた、二つの石……どんな色でしたか?」
「石か? 草の色より青に近い色の石……確か、あの者は翡翠という石だと申していたな。もう一つは……」
「紅玉……ですか?」
「そうだが……何でも、人の形見を借りているだけだから、取られては困ると、思わず追いかけてしまったそうだ」
「……」
強張っていた顔が、唖然としたものに、変わった。
年相応にも見える、力の抜けたその表情は、蓮と顔なじみの老人をも驚かせるほど、珍しいものだったらしい。
「だ、大丈夫か、蓮?」
その、気遣った問いにも答えず、ぽかんとしていた蓮が、今度は笑い始めた。
腹を抱えかねない笑い方に、その場の全員が声をかけられず、一歩引いて見守るしかない。
「……いや、申し訳ありません。つい……」
ようやく、そう言いつつも、笑いが止まらない若者に、老人が恐る恐る尋ねる。
「大丈夫なのか? どこかで、強く頭でも打ったか?」
「大丈夫です。……頭を打ったのは、確かですが、実際に打ったわけでは、ありませんから」
苦しそうに息を抑えて立ち直り、蓮は背筋を伸ばした。
「で、その連中は、その後どうしたのでしょう?」
「村人に、その者の無事を知らせようと動いている間に、慌ただしく旅立ってしまった。追いかけさせたのだが、見失ってしまった」
「そうですか」
頷く顔には落胆はない。
「まあ、神隠しの村の方から来たからな。別な方向に行ったのは、確かだ」
「はあ?」
聞き慣れぬ呼び名に、蓮が思わず間抜けな声を上げた。
「何ですか、そりゃあ?」
「知らんのか? 随分前から、そう言われているはずだが」
不思議そうに翁が問い、若者が首を振って答える。
そんな様子を見てから、雅がそっと、声をかけた。
「申し訳ありませんが、夕食まで、わたくしたちは、休ませていただきます」
「おお、そうだったな」
あっさりと頷き、老人は家人を呼んでくれた。
案内された部屋で、家人の女性に礼を言い、力を抜くとすぐに戒が声をかけた。
「……いいのか? あの村の事も、あることないこと話にされてるぞ」
声を殺した問いに、雅は笑って見せた。
「いいんだよ。本当の事なんて、伝わらない方がいい」
それよりも、先ほどの蓮の事が気になった。
あの話以降の、心境の違い。
今までと違った表情は、憂いが消えたと言っていた。
カミカクシ、とはなんだろう?
そう尋ねた、セイへの返事は、ロンとオキの大笑いが、先だった。
歩きながら、器用に腹を抱える二人を、若者は僅かに顔を顰めて睨んでから、答えを教えてくれそうな、エンに顔を向ける。
「詳しくは分からないんだが、まあ、かどわかし、かな?」
「かどわかし……人攫い、か?」
何で、この国には意味は同じなのに、言葉が違うものが多いのか、頭を抱えそうになりながら、覚えた当初はそう思ったものだが、それはこの国に限ったことではなく、丁寧な言い方と乱暴な言い方で、言葉が違うことはよくあるのだと、今では苦にはならなくなった。
それでも、思わず確かめる口調になったセイに、エンは頷いて見せた。
「人間という生き物は、よっぽど信じられないのだろうな。同じ人間が、人間をかどわかして、金で取引するという話が。だから、何の前触れもなく、いなくなる人間は、カミが隠したんだと思いたいんだろう」
「かどわかしに合った、という他に、突然の不幸で戻れなくなったとか、色々理由は、ある筈なんだがな」
笑顔で言うエンも、頷いてから鼻を鳴らすオキも、人間嫌いの気があるだけに、辛口な説明だ。
セイは、取りあえず頷いてから、もう一つ聞いた。
「カミ、と言うのは、どこから来てるんだ? こっちのカミか?」
そこからか、と呆れる一同の傍で、若者は自分の今は黒い髪を一房掴んだ後、懐の中の懐紙を指差した。
「それとも、こっちか?」
「どっちでもないわ。神様の方よ」
「神様? この国って、仏教国じゃあ、ないのか?」
「そんなことないわ。ここにはね、大昔に降臨した、神様の子孫がいるのよ。まあ、その昔、その御子孫の側近が、仏教も広めちゃったんだけど」
「……すごいのか?」
「すごいわよ。未だに、その御子孫は、続いてるんだから」
「そう、それは、すごいことですよね。そこまで続くからには、かなり縛りもあるでしょうけど」
「まあねえ、それを誇りにしていれば、苦にはならないんじゃ、ないかしら」
なぜか、話はその方面で盛り上がり、会話が弾みながら旅は進んでいく。
その村に差し掛かった時、それまで普通に会話に加わっていたゼツが、突然黙り込んだ。
目の色を悟られぬように、細めの目をさらに細めているこの大男は、昔から表情が硬いが、実はこの中で一番正直者だった。
あまり変えられない表情からは、何も分からないが、代わりに顔色は、正直に変わっていた。
その変化に気づきながらも、平常心で村の中に入った一同は、植えたばかりらしい苗の中で働く、農村の人々に、挨拶を返しながらも、そのまま進んでいく。
どうも先に泊まった村より、子供の数が少なく見える。
「女性が、少ないそうですよ、この村は」
「あらま。じゃあ、増えようがないわね」
「ええ。だから、嫁取りも、周りの村からしているそうですけど、寂れていますからね。親も行かせたがらないそうです」
「ねえ、じゃあ、旅人が消えるって、女の人?」
旅人だった女が、村の女になったのであれば、それも、消えたことになると、ロンが言ってみると、エンは苦笑して首を振った。
「それじゃあ、雨が多い時期だけ、っていう話じゃあないでしょうに」
「あら、雨が多かったら、旅人を足止めできるわよ、その間に……」
「夜這いして無理矢理、か。ありえるから、怖い話だな」
薄く笑うオキに同意しつつも、エンが答えた。
「確かに、女性連れもいたらしいですけど。連れ合いが消えたんで、村の男に嫁いだとか……でも、消えるのは、大抵若い男、らしいですよ」
「本当に?」
「ええ。だから、この子が狙われるんじゃあ、って思って、急いで来たんです」
「若い男って、どうしてかしら?」
「さあ」
農作業中の百姓に挨拶され、笑顔で返しながらエンは言った。
「徳の高そうなお坊さんも、この村の事を気にして、一度、雨季の最中に泊まったらしいんですが、そのお坊さんも、消えてしまったとか。その他、その手の事に自信のある、方術使いや陰陽師も泊まったらしいんですけど、お坊さんが連れてた子供まで、姿を消してしまって、周りの村では雨季になると、その村へ足を運ばなくなったとか」
「……」
話の始めの方は、よく分からないまま聞き流し、後の方を真面目に考えつつ、並んで歩いている若者を見下ろし、ロンはそのまま顔を上げた。
「色々と、考えられることはあるけど、取りあえず、この村は抜けちゃいましょ。気になるなら、帰りにまた、立ち寄ればいいんだから」
今は、別な大事な用が、控えている。
同感の三人も頷き、風変わりな武芸者集団は、腰の低い村人たちに挨拶を返しながらも、その村を抜けて山々に囲まれた道に出た。
そこで知らず緊張していたゼツが、大きく息を吐く。
「大丈夫か?」
血の気も戻って来た大男に、エンが声をかけると、ゼツは頷いて言った。
「早く離れましょう。ここに一泊するより、野宿の方が、ましです」
その声はまだ硬く、緊張を含んでいる。
一同は頷き、旅路を急いだが、すぐに足止めされた。
道の真ん中に、巨大な岩が鎮座し、完全に行く手を阻まれていたのだ。
「ここって、確か、向こうの村と、繋がってるはずの道よね?」
「ああ。昔からの道が、この岩で塞がってしまって、今は使われていないというなら、先の村で、教えてもらえたはずだ」
この国に何度か来ている二人が首を傾げている傍で、セイが岩に近づいていく。
「こんな所で、考える間が惜しい。少し離れてくれ」
言った若者が、岩の強度と大きさを、目で図っているのに気付き、ロンが慌てて止めた。
「待ちなさいっ。それは、ちょっと、目立ちすぎるわっ」
「心配ないよ。目立たないようにやるから」
「心掛けて、目立たなくなる獲物か、これがっ」
喚くオキに、若者は宥めるように言う。
「自然に崩れた風を、装うから……」
「いや、それは、無理あるだろ」
「回り道できるはずよ。探してくるから、動かないで」
口々に言ったオキとロンが、返事を待たずに動き出した。
オキは左側の、ロンは右側の山の中に、身軽に飛び込んでいく。
「……これを何とかするのが、一番、手っ取り早いのに」
呟くセイを、エンがやんわりと宥める。
「こんな所で、お前を目立たせたくないんだ。先は長いのに、こんな初っ端で目立ったら、後が大変だろ」
「お尋ね者にでもなったら、大変ですからね」
ゼツも頷き、岩を見上げた。
「しかし、大した力持ちもいたものですね。どれだけの時をかけて、どこからこんなものを、ここに持って来たんでしょうか?」
「大勢で、引き摺って来たのかもしれないぞ。もしくは、コロを使って動かしたか……いや」
エンも一度見上げて答え、地面に目を落としてその言葉を覆した。
「違うか。どちらの方法も、何らかの跡が残る。いつからこれがあるのか知らないが、かなり前にここまで運ばれたか、ゼツの言うとおり、持って来たかしかないな……」
「下の土が、乾いてない」
つられて、視線を下に落としていたセイの言葉で、二人も気づいた。
ごつごつした岩の下の部分に、まだ水気を含んだ土が付いている。
「この辺に、何か質の悪いモノが、住み着いているのかもしれません。それなら、あれにも得心がいきます」
「あれ?」
「先ほどの村、あり得ないほど、濃い匂いがありました。本来ならあっても、あそこまで濃く匂うはずがないものの匂いが」
硬い声の言葉に、二人が黙ったまま再び岩を見上げた時、左右の山に入っていた二人が、殆んど同時に戻って来た。
「大丈夫だ。獣道ではあるが、岩の向こう側に出れる」
オキが言うのに続いて、ロンも言った。
「こちらもよ。足場は悪いけど、通れないほどじゃあないわ」
双方の言い分を聞いたセイが、黙ったまま不意に右足を上げた。
履いていた旅用の草鞋が、その動きで宙に舞い、それを目で追う連れたちに、若者は短く告げた。
「裏なら右、表なら左」
言う間に落ちた草鞋を、ゼツが拾いがてらに確かめに行き、その場で告げた。
「裏です」
拾い上げた草鞋を手に、急いで戻ってくるその無表情にロンが目を細め、連れたちを促した。
「行きましょう。厄介なことになる前に」
それに頷いて、ゼツが追いつく前に、右側の山の中に足を踏み入れようとした時、弱弱しい男の声がそれを止めた。
「お待ちくだされ、お武家様方」
振り返る連れたちに、追いついたゼツが短く言う。
「行きましょう。構ってはいけません」
緊張をはらんだその声に頷くが、その前に、弱弱しく呼ぶ声の主が姿を見せた。
村からここまでの傾斜を、必死で走って来たらしい。
五十に近い年の男を筆頭に数人の男が、何事かと思わず立ち止まってしまった武芸者たちに近づいて来た。
お人好しとまではいかないが、弱い者には優しい方の連れが、思わず声をかけてしまう。
「どうしたのだ、そんなに慌てて。我々に、何か用か?」
この国の、武士の言葉使いでそう問うエンに、大きな武芸者たちの前で息を整えていた男が、ようやく言った。
「皆様方は、どちらまで、行かれるのですか?」
「然したる目的があっての旅ではないが……江戸に向けて歩こうと、考えている」
見上げた顔を、一瞬凝視してからエンは答え、僅かに顔を顰めた。
その表情は、明らかに後悔していたが、もう遅い。
「さようですか。ですが、向こうの村に向かう道は、この通り、塞がっております」
「だから、回り道しようと、話し合っていたのだが」
エンの代わりに、そう返したゼツの口調は、厳しい。
その口調に心境を表した男に、エンは視線を投げつつも、口を閉ざした。
武芸者たちが背にしている岩を、人間にしたかのような大男の冷たい声にも、村の男は怯まず、代わりに首を振った。
「この山には、回り道できる道はありません。獣ならば行き来していましょうが、人である皆様方が、通れる道では……」
「これも、修行の一つと思えば、通れるものだ。心配はいらない」
静かにセイが返すと、村の名主らしい男は眉を寄せた。
「ですが、あちら側の山には、山犬が住み着いておりまして、下手に入ると、危のうございます」
指した方は、オキが大丈夫と、言い切った山だ。
思わず、オキを見るエンとゼツの視線から逃げ、男は顔を背ける。
「こちら側の山は、岩が多く、崖に面しておりますので、鹿しか通れぬ、危ない山でございます」
呆れたエンとゼツの視線が、今度はロンに向くが、こちらは笑顔のまま二人を見返した。
「私は、どちらかというと、鹿の方が好きなので、そちらの山から回ろうと思ったのだが」
無感情ながら、やんわりとした声が、信じられない事を言ってのけた。
思わずセイを見下ろすと、若者は村人たちに微笑んでいる。
どうやら、二人の危険と思う境界を予想して、草鞋を放る力を、加減して決めたらしい。
舌打ちしかねない顔で見下ろすオキと、笑顔を苦笑に変えて見下ろすロンに構わず、セイは言った。
「心配はありがたいが、修行の一環なのだ」
「し、しかし……」
役柄に沿って、そう通そうとする若者に、村の男は言葉を探していたが、何やら意を決して言った。
「実は、この岩は、わが村にいる、とあるお方の御意思によって動いているのです」
「ゴイシ? これは、岩の類ではないのか?」
「は?」
「石と言うのは、片手で動かせる位までの大きさと聞く。これはどう見ても両手を使うだろう?」
思わず返した問いに、村人もきょとんとする。
問いを投げた若者を慌てて小突き、色黒の男とその傍の男が引っ張り、下がらせる。
ロンの背の陰で、エンがセイと顔を突き合わせ、人差し指を口元に立てる。
「余計な事は言うな。御意思というのは、石の事じゃないっ」
「囲碁に使う石の事じゃ、ないのか?」
「全く違うから、しっ、だ」
真面目に頷いている若者を背に、今度はロンが、村人たちと対峙する。
「御意思ということは……高貴な者が、何か考えを以って、それに呼応して動いている、と?」
問いながら、セイの考え違いにも、修正をかけた。
本当に言葉は難しいな、としみじみとしている若者に構わず、前方の会話は続く。
村人たちは深く頷き、代表で話していた男が答えた。
「わが村の山には、狐様が住み着いておりまして。その方が、こうしてまれに旅の方を、足止めるのでございます」
「狐が、足止める?」
オキが、眉を寄せた。
「どういうことだ?」
思わず食いついた男に、ロンが僅かに顔を顰める。
そんな武芸者に構わず、村の男は答えた。
「それは美しい狐様で、若い男が村を通るとこうして足止め、宿泊していただけという、我々への御命令なのです」
「宿泊させるだけ、か? 狐にしては、欲のない話だな」
「あの方なりに、わが村の衰退が気になっているのでございましょう」
しみじみと言う男と、その背後にいる村の衆たちを、セイは二人の背に隠れたまま見た。
「……」
次いで連れの、今は黙っている二人を見る。
二人共黙ってはいるが、表情は早くこの場を離れたい、と言っている。
どうするのかと、自然と会話を任された形の二人を見ると、その二人も顔を見合わせている。
その戸惑いを突いて、村の男はやんわりと言った。
「狐様の御意思でお泊りいただく方には、村総出でお迎えする決まりと、なっております。どうか、わたくしたちの村で、体を休めて下され。寂れた村ではありますが、精一杯のおもてなしの用意はございます」
「いや、心遣いは嬉しいが……」
やんわりと断ろうとした男に、村人は続けた。
「丁度、狐様への貢物と、あのお方の見初めた方を迎える為の、清酒も揃ったところでございます」
「清酒?」
前で立ちはだかっていた、二人の声が揃った。
その声に喜色が見え、後ろの男二人が、揃って利き手の拳を握ったのに気づき、セイは慌てて後ろの二人を抑える。
こんな所で、この連中を喧嘩させるのは、流石にまずい。
背中を向けて、後ろの二人を牽制しながらも、肘で前の男の一人を小突く。
いい加減に切り上げろ、と言う意の動きに、小突かれた方は一瞥しただけだったが、意図は通じた。
「それは、本当に惜しいが、此度の旅は、急いでいるのだ。帰りならば、喜んで立ち寄るのだが……」
「それでは、遅うございます。この岩は、今の時期にしか、この場にないのでございます」
「どうしてだ? 随分と、じめじめした時期を選ぶ狐殿だな」
「その辺りの事は、村でゆっくり、お話しいたしますので、どうか……」
「いや、しかし……」
低姿勢の村人たちを前に、こういう状況に慣れているはずの、男二人が躊躇っているのは、清酒と言う餌が、目の前にちらついているせいだけではない。
牽制されていた二人も、表情に出さないようにしているが、それに長けたエンの気持ちもセイにははっきりと分かっていた。
若者は一度空を仰ぎ、まだ明るい空に、一番星がちらつき始めているのを見上げ、ゆっくりと村人たちの方に向き直りながら、前に進み出た。
「そこまで、言っていただけるのなら、一晩お世話になる。このような、むさ苦しい連中ばかりだが、本当に、構わないのか?」
ゆっくりと控えめな言い分に、村の代表らしい男が、ほっとした顔で頷いた。
「もちろんでございますっ。わたくしの家で、どうか一晩と言わず、何日でも、ご滞在いただければ……」
「そうか」
その態度に、目を細めながらもセイは頷き、連れたちを見上げた。
それを見返す四人の目は、曖昧な色で、若者を見返している。
あっさりと、態度を変えたセイを非難したいが、自分たちがその狐様とやらに、興味を覚えてしまった事を悟られ、それに反対する気持ちも弱い。
性格も体格も、生まれも違う彼らだが、揃って興味のある事には貪欲で、お節介だった。
結局、この旅も、寄り道が多くなりそうだ。
内心、ため息を吐きながら、セイは改めて村人たちに顔を向け、深々と頭を下げた。
「それでは、今晩はお世話になる」
それに従って、後ろの四人も、ゆっくりと頭を下げた。




