メセン
遠くから見ているだけのときが一番ドキドキするのかもしれない。
究極の恋ってかたおもいだと思う。
「かたおもい?」ひらがなで書くかたおもいを想像する。とても甘くて切ない感じがするのだから。
「片思い」と、今度は漢字に変換して声に出してみる。
やっぱり片思いはツライのかもと現実味を帯びてくる。
あたしは今日も課長を目で追っている。背の高い痩せ型の課長を。背が高いので遠くにいてもすぐにわかる。
あの人は結婚指輪をしてはいない。既婚なのに。この前偶然同じ会社の絵里と一緒に帰ってゆくところを見てしまった。ああ、この人も男だったんだ。と、内心ガクンとしたが、少しだけ安堵したあたしがいた。
生真面目だけが取り柄だと思っていたから余計にその出来事を見たせつな怒りよりもほっとしたのだ。絵里は課長との夜のことを赤裸々に語ってくれた。
帰りが偶然一緒になって、あ、じゃあ、飲みにいく? とお互い合意をし、課長は、今夜さ、嫁がいないんだ。と、最初に付け足したらしい。きっとそのつもりで誘ったのだろう。
「課長さ、」
絵里はあまり聞きたくないことまで語ってくれた。
綺麗な方ではない絵里。胸だけが育って歯茎がむき出しになっている絵里。
「麻友も今度飲みいこうよ、ね」
遠くに課長がいる。あの手で絵里の胸をもんだのか。あたしは気もそぞろで絵里の話を聞きながら、パソコンに顧客データーを打ち込んでいる。
どうして男って浮気をするのだろう。
奥さんだけじゃだめなのかな。奥さんってゆう存在って一体なんなのだろう。
あたしもアラサーで独身で彼氏もいないが、別にこれといって不自由なことはなにひとつもない。むしろ休日に思う存分寝たり、裸で部屋をうろちょろしたりとやりたい放題で今から結婚をして誰かと住んで。とかそゆうことのビジョンがまったく見えない。
だから女は不倫をするのか。不倫なら結婚を意識しなくてもいいし、もう使用されているものだから共有相手にご飯や洗濯などはまかせ、あたしはパンツを脱がせるだけでいい。きっと家庭では決して吐かない、生クリームのように甘すぎる言葉を囁き、愛を確認しようと躍起になる。家庭では一生出来ない恋愛ごっこを外でする。お互いが割り切っていたらそれはそれでいいことではないのだろうか。
「…‥」
あたしは頭をブルブルと何度もふる。
いいや、不倫はダメだ。頭ではわかってはいるが、想像は飛躍するけれど、あたしはそのような勇気など持ち合わせてはいない。
「おつかれさま〜です」
就業ベルが鳴ったと同時にパソコンをシャットダウンし残業とゆう単語をいわせない雰囲気を漂わせつつさっさとタイムカードを押してエレベーターの前に立つ。
「頼むよ〜。森下く〜ん」
佐々木さんが絵里に向かって残業を頼んでいる声が聞こえてくる。いつも残った方に残業がいい渡されるので今日は前もってシャットダウンの準備をしといたのだ。
絵里いいじゃんか。あたし昨日も一昨日も絵里がとっとと帰ったから残業だったんだよ。
いい気味。あたしは見えない舌を出す。
夕方の5時。
窓から見えるおもての世界はまだたっぷりと明るい。遠くの山に夕日が乗っかっている。澄んでいて綺麗にみえる。
あたしははーっと息を吸い込んだ。
エレベーターが開いていつもの感じで乗り込む。
「あ、待って!」
その声に慌てて『開』のボタンを押し、肩で息をしている声の主を見たら課長だった。え、あたしはその佇まいにギョッとなる。
「、と、1階でいいでえすか?」
手がいい歳をして震えているのがわかる。課長は、うん、と、うなずいたあと、背筋を伸ばしあたしの横に並んだ。
5階から1階まではものの数十秒だ。
目だけでゆっくりと課長の方を見やる。
こんなに近距離で並んだことなどなかったので課長の背の高さに改めてびっくりした。
「なに?」
炎のように熱い視線を感じたのか課長が急にあたしを見下ろし声をかけてきた。
なに? え? なに? ええ? なにって?
変な汗がタラタラと垂れてくる。
「ああ、なんでもないです!」
課長は急にハキハキとこたえるあたしに目を丸める。目元が何気なしに笑っているように見える。
「山田さんって」
え? 課長があたしの名前を呼ぶ。
「は、はい」
たじろぎながら顔をもたげつつ、次の言葉を待つ。
「背、低いんだね」
「はい?」
柔らかく優しい視線が降ってくる。思わずその視線にうっとりしつつ、
「148センチです」
あはは、笑いながらこたえる。
「小さいな」
ぼそっとつぶやいたと同時に『チン』と音がして1階にたどり着く。
「あ、どうぞ」
あたしは課長に先を譲りそのあとでエレベーターから降りた。
課長はやはり背筋をピンと伸ばして果敢に歩いてゆく。狭い空間に課長とふたり。心臓の鼓動が聞こえたかもしれない。
「小さいな」か。
課長の視線はとても高くに感じた。
180センチほどあったと思う。
近くにいかないとわからないこともある。遠くで見ていただけだと背の高いのは認識していても香水の匂いだけは分からなかった。
「ブルガリ、かな」
昔付き合っていた男と同じ匂いがした。さりげない匂いが昔と現在をリンクさせる。
おもては7月の空気をうまく含んでいてほどよい暑さが肌をまとってゆく。
あたしは背が低い。
背が低くてよかった。と、思ったのは30年間生きてきて初めてかもしれない。
ふふふ。
カラスが「カーカー」と鳴いている。
あたしはもう一度橙色に染まった空を見上げた。