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चंद्र讚歌 -La L'inno per il Candra-

誘眠の書

作者: 関ひだり

 『快眠のための本(一般人向け)』なる書籍が最近増版され、よく売れている。噂では、ある不眠症の患者が最後の頼みにこの本を読んだところ、これまでの症状が嘘のように、瞬く間に眠りに落ちたという。この話が火のように世間に広まって、同じように不眠に悩まされている人や、美容や健康のために睡眠を活用したい人などが我先にとこの本を求めて書店に詰めかけた。


 ドクター・ラウロ・エスポスティは著名な睡眠学者だった。エスポスティ博士は、巷で流行している『快眠のための本(一般人向け)』がどのようにして人々を眠りに引き込むのか不思議がって、早速その本を手に入れようとまちの本屋に繰り出した。しかし、人気の絶頂にあるその本は既に売り切れていて、さらに取り寄せの予約もいっぱいになっているという。仕方なく、博士はその店を後にし、別の書店へと向かった。


 日没を迎え、辺りは闇に飲まれ始めていた。エスポスティ博士はふらふらになって歩いていた。まちの中にあった書店の全てを巡ったが、結局どの店でもその本は品切れだった。ひとつ前の書店でようやく一冊だけ残っているのを発見したが、目の前で別の客に持っていかれてしまったときは絶望のあまり涙がこぼれたほどだった。


 とぼとぼと自分の研究室に戻ってきた。研究員の何人かがまだ居残って仕事をしていた。


 「エスポスティ博士、おかえりなさい」

 「ああ、ただいま。結局例の本は手に入れることができなかったよ」

 

 疲れて自分の椅子に倒れ込む。思えば朝起きて以来、何も口にしていなかった。


 「それなんですが、博士、実は私が注文していて、先ほど届いたところなんです」

 

 研究員の一人がとんでもないことを口にしたのが聞こえた。博士が顔を上げると、彼はおずおずと一冊の本を掲げた。『快眠のための本(一般人向け)』と大きく書いてある。それを見た博士は驚愕して、それから気を失ってしまった。



  *** 



 博士が次に目を覚ましたのは翌日の朝だった。研究員の誰かが運んでくれたのだろう、備え付けのベッドの上に横たわっていた。しばらく寝惚け眼で視線が宙を彷徨っていたが、袖机に例の書が載っているのを見た途端、昨日の出来事がフラッシュバックした。日中彼がまちを駆けずり回ったこと自体は無駄なことだったのかもしれないが、そんなことはどうでも良くなるくらい気分が高揚した。とうとう、手に入れたぞ。


 エスポスティ博士は逸る気持ちを抑えきれず、震える手でその本を手に取った。それから、恐る恐る開いた。しかし、次の瞬間博士は途方に暮れることとなった。というのも、そこに書いてあったのは、彼のような睡眠学者や、あるいは少しこの分野を齧ったことのある者ならば誰もが知っているであろう、徹頭徹尾、睡眠に関する知識だったのである。それも、別段新しかったり突出していたりするでもなく、ごく普通の、何ならややオールドファッションな内容だった。


 しかし博士はすぐには諦めなかった。もしかすると、活字の形など、細かいところに何か細工が施されているのかもしれない、そう仮説を立て、早速光学顕微鏡で丁寧にページとそこに印刷された文字を観察した。あるいは、匂いが関係するのか、それとも手触りなのか、ひょっとすると文字列に隠された暗号があるのでは……このように、次から次へと仮説を立てては調査をし、調査をしては新たな仮説を立て、考えつくあらゆる分析機器を駆使して隅から隅までこの本を調べ尽くした。結果として、この『快眠のための本』は他の書籍と比較して、何ら変わりのない、普通の本だということが分かっただけだった。そして、博士が最も落胆したことは、研究中に自分が一切眠くならなかったことだった。とうとう嫌気がさして、本を机の上に投げ出してしまった。



  ***



 次の日、エスポスティ博士は出版社に苦情を入れた。あの本を読んでも全然眠くならない、詐欺ではないか、という旨を伝えると、電話口からは予想外に落ち着いた声が返ってきた。


 「お客様のご職業は何ですか?」

 「私は睡眠学者だ」

 「ああ、なるほど。それです。あの本は『一般人向け』と書いてあるではありませんか」


 もし良ければ、お客様のような方向けの本をお送りしますよ、出版社はそう申し出た。そんなものがあるのなら先に言ってくださいよ、博士は怒るのも忘れて快諾した。


 それから数日経った後、『快眠のための本(専門家向け)』が研究室宛に送られてきた。エスポスティ博士は未だ半信半疑ではあったが、とにかく椅子に座って、心なしか薄く感じるこの本を開いた。すると、読み始めてからものの数分で、寝息を立て始めるのであった。手の力が抜け、本が床に落ちて開いた。


 そこに書いてあったのは、まるで幼稚園児に言い聞かせるような文体で書かれた、極限まで噛み砕かれた、睡眠に関する知識だった。



…For Sound Sleep.

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