再会 その一
当たり前のように朝が来て、私は重い頭を持ち上げました。昨夜の夢の記憶は生々しく、それでいてどこか懐かしい余韻がありました。
あんなに死にたがっていた自分が、今はこのザマ。あの屋上の柵に足を掛けようとした時、私は誰よりも死を恐れていなかった。好奇心に背中を押され、どこまでも清々しい気分だったはずが、一体どうしてこんなことになってしまったのか。今の私は、誰よりも死の存在に怯えている。もしかしたらこれは、あの日軽率に死を受け入れてしまった罰なのでは――
また頭痛が始まろうとしていました。ここまでくると、もうなんとなくわかってしまうのです。頭の奥の方から、化け物たちが手をつないでぐるぐる回りながらやって来るようでした。
「ほら、もう起きなさい!」
部屋のドアが半分ほど開き、母が顔を出しました。
「もう起きてる!」
「あんた、今が何時だか分って言ってるの?」
私はまだ眠い目をこすり、時計に目を向けました。
「えっ、十二時!?」
屋上の男に再会したのは、それからさらに五日が経った一月の三日のことでした。
この五日間の間、私は万一に備えて身の回りの整理をしたり、見られたら困るようなものを処分したりしていました。おかげで物置状態だった部屋は見違えるほど綺麗に生まれ変わり、私は生まれて初めて掃除の素晴らしさを実感しました。しかし、やはりこの最悪な状況から脱却するヒントを欲していました。そこで、私は何度か例の廃ビルまで歩いていき、もしかしたらあの男がいるのではないかと近くをうろうろしました。
そしてその日も私は、気まぐれに例の廃ビルまで歩いて行きました。そこにつくまでの間、四匹の黒猫が私の目の前を横切っていきました。
その日、彼は錆びついたらせん階段の下にいました。私の姿を確認すると、幽霊でも見るような顔をしたので、少しだけ腹が立ちました。意外にも感動は薄く、「やっと会えた!」とは思いませんでした。
見ると彼は足を怪我しているらしく、松葉杖を一本脇に抱えていました。
「こんにちは」
私は彼に声を掛けました。
「もう怪我は回復しましたか。見たところ、大けがというわけではなさそうですが」
「はい。高さが足りなかったのと、電線にぶつかって減速したおかげで軽傷で済みました。この松葉杖は念のためです」
私は彼が意外にも礼儀正しかったことに驚きました。夢の中で見た印象とはまるで違っていたので、なんだか申し訳ない気分になりました。
「もしかしたらも心当たりがあるかと思うんですが、僕はあの日、何かあなたにうつしたかもしれません」
「ええ、そのことについて、私もどうしても真相が知りたくて、この五日間ここら辺をうろうろしてました。今日は本当に運がいいです」
その後、急に北風が吹き出したので、私たちは近くの寂れた喫茶店に移動しました。
彼は白澤さんという名前でした。高校を卒業後、大学へは行かずに今の会社に就職し、現在独り暮らし。あの時飛び降りたのは自分の意志であり、そこにはある理由があったようでした。
「どうしてあんなことしたんです?」
私が尋ねると、彼は真剣な顔で語り始めました。
「本当に……本当に馬鹿みたいな話ですが、あれは、死ぬためにやったことではなくて、むしろ死なないためにやったことでした」
「はい?」
「わけがわからないでしょう。自分でもわけがわかりません。あの日僕が飛びお降りる何日か前、妙な占い師に声を掛けられたんです。その占い師は僕に『三週間後に死ぬ』とだけ言い残して消えました。だからその日が来る前に――」
「ちょっと待った」
私は彼の話を遮りました。
「その占い師っていうのは、もしかして中華街で会いましたか?」
「いや、たしか新宿――」
「じゃあ、どんな特徴でしたか?」
私は相手が引いているのもお構いなしに、かつて人見知りで友達が作れなかった人間とは思えないような勢いで詰め寄りました。
「えーと。確かしわの多いおばさんで、いや、お婆さん? ひらひらした安っぽい服で……そうだ。変な訛りがあったんだ。日本人ではなかった」
間違いありませんでした。その占い師というのは、中華街で私に声を掛けてきた女と同一人物だったのです。
「私もその占い師に会っています。あなたが飛び降りた後の話です」
「本当ですか。僕もその占い師に死ぬと言われた数日前、飛び降りを目撃しているんです。亡くなった方は同じ会社の人で、聞けば数週間前から様子がおかしかったようです。これは単なる噂に過ぎませんが、遺書も見つかったらしくて、そこには『頭が痛い』とか、『死にたくない』とか、そんなことばかり書かれていたそうです。もしかしたらこの噂は嘘かもしれません。でも、僕にはもう、何らかの繋がりがあるようにしか思えないんです。例えば、僕が事故を目撃した日に、亡くなった方に乗り移っていた『何か』が僕に拠り所を変えて、その後屋上での一件を機に、あなたの方に……なんていうような。すごく馬鹿な話ですけど」
私は彼が飛び降りた瞬間を思い出しました。
「もしかしてあなたはあの日、その自分に乗り移った『何か』を振り落とそうと……?」
――あれあれを落とすには、こうするしかないんだ。
確かそう言って飛び降りていったはずでした。
「僕は駅のホームで事故を目撃してから、ずっと身体に違和感がありました。最初は単なるストレスかと思いました。でも占い師にはっきり『死ぬ』と言われてから、頭痛に悩まされるようになったんです。病院に行ったり、もう一度その占い師を探してみたり、ダメ元でお祓いを受けたりしてみましたけど、なんの効果もありませんでした。頭痛は決まった間隔でやってくるわけでもなく、突然何の前触れもなくやって来るんですが、ある時気が付いたんです。その頭痛が起こるのは――」
「『死』に関係する物事を見聞きしたり、考えたりした時?」
私は思わず口を挟みました。
「すごい。そうです。全く僕と同じです」
彼は喜べばいいのか悲しめばいいのかわからないと言った様子で、眉間にしわを寄せました。