上野にて
国立科学博物館。明治に創立され、第二次世界大戦中もなんとか焼失を免れた博物館施設。年間二百万人の人々が訪れるといいます。
「まあ、すぐ終わるから」
私たちは地球館の三階にある展示室へやってきました。ここには夥しい数の動物の剥製が並んでいます。悦子はその一角にしゃがみ込み、猛烈な速さで鉛筆を動かし始めました。
「この変なガゼルみたいなやつ描いたら、次はマッコウクジラね……あ、莉子は好きに見てていいよ」
彼女が好きに見ていて良いというので、私は剥製の周りを独りぶらぶらとうろつき始めました。何だかよくわからない動物がたくさんいるなーと思いながら、一体ずつ眺めていると、ある剥製と目が合いました。大きなフクロウの剥製でした。私はフクロウの目をじっと見つめ、フクロウもまた、ガラスの目で私の目をじっと見つめました。すると突然、また例の頭痛に襲われたのです。
――もう臭い、染み付いている。もうほとんど決まったこと!
どういうわけか、この頭痛が起こる時は必ずと言って良いほど、あの占い師の言葉が頭の中に響きました。まるで、何か見えないものに頭を乗っ取られているかのように。
頭痛はなかなか治まらず、フクロウとも見つめあったまま動けません。もはや私がフクロウを見つめているのか、フクロウが私を見つめているのかわからなくなってきた時、私は後ろから何者かに肩を捕まれました。
「なーに見てるの?」
悦子でした。硬直した状態からようやく解放された私は、小さくため息をつき、言いました。
「……なんでもない」
この時、私は頭痛のことを彼女に告げるべきか悩みました。目の前で男がビルから飛び降りるのを見たこと、妙な占い師に死の宣告をされたこと、それから頭痛に悩まされていること、病院に行っても何の異常もないと言われたこと――
しかし、私はそれを伝えませんでした。もし伝えてしまったら、これらはより一層明確化され、私は言葉という形に押しつぶされるような気がしたのです。何の根拠もない。わざわざ他人に教えて悩むべきことではない。そう思うようにしたのです。
「ごめん待たせて。フクロウ好きなの?」
悦子は、私がフクロウの剥製をまじまじと眺めているところを見ていたらしく、そんなことを言いました。
「別に、ちょっとぼーっとしてたの。次はえっと、マッコウクジラだっけ? 行こう」
私はフクロウの顔を見たくなかったので、これでもかというほど目を逸らし、ついでに話題も逸らして、その場を立ち去ろうとしました。私の慌てぶりに、悦子は訳が分からずキョトンとしていました。
悦子がマッコウクジラの絵を描いている間、私は彼女のそばを片時も離れませんでした。「自由に見てきていいのに」と彼女は言いましたが、私は先ほどのフクロウが目線だけ飛ばして、どこまでも自分を追ってくるような気がしてなりませんでした。頭痛はすっかり治っていましたが、一人になるのは嫌でした。
悦子は黙々と絵を描いていました。ただそっくりに模写するのではなく、被写体をヒントに明確な世界観を鉛筆一本で作り上げていく様は、見ていてとても心地が良いものでした。
私はそんな彼女の姿を見ながら、再び自分の身に起きたことについて話してしまおうか悩みました。しかし、口に出した出来事が明確な形を持つのではないかと考えると、やはり言い出せませんでした。今考えれば、単に親友に引かれたくなっただけだったのかもしれませんが。
それから博物館を出た私たちは、少し歩いて上野恩賜公園の中にあるカフェに入りました。落ち着いた古民家カフェで、随分前から目をつけていた場所でした。クリスマスイブのランチタイムであったため、店内は混み合っており、ちらほらとカップルの姿も見られました。
「変な話だよね。ヨーロッパの祭日にあんみつやほうじ茶を飲みに来るなんて」
悦子は周りのカップルたちを見渡して言いました。
「聞こえるよ?」
「別にいいよ。みんな心のどっかで気が付いてるだろうし。『なんか妙だな』って。……はあ、クリスマスか。そういえば、私にはクリスマスを祝う習慣がまるでない。何故かプレゼントだけは親や友達から貰えたけど。それだけじゃイエスも浮かばれないだろうね。確か、莉子の家は今でも祝うんだよね?」
「一応ね。仏教徒のくせにケーキとか買ってきて、おまけに近くに教会が立ってたりするから、なんとなくノリでミサに参加しちゃったり。なんか、お母さんがそういうこと好きなんだよね。……まあ、寮生活始めてからは一人だから、特に何もしてないけど」
私は話しながら、これが人生で最後のクリスマスになるのではないかと考え、少しゾッとしました。そして例の頭痛がここでも襲ってくるのではないかと思ったので、一瞬身構えましたが、幸い頭痛は起きませんでした。
そう。気にせずにはいられないのです。根拠のない死の塊に見張られているかのように、何をしていても頭の中に不穏な影がちらつくのです。明らかに取り憑かれているのです。
――お願いだから私の中から消えて。
「独りかぁ。莉子、彼氏とかできてないの?」
私は悦子のとんでもない質問によって現実世界に連れ戻されました。女子大生二人が上野の古民家カフェで恋愛について話そうとしている状況が、今まさに出来上がろうとしていたのです。私はそれがとんでもなく嫌でした。悦子は変わり者で、世の中の流行り廃りに惑わされないユニークな人間ですが、それでも時折「普通の女子大生」になってしまうことがありました。そして彼女には彼氏がいるのです。それは私が認めたくないところでした。
「できてないよ。それより今はペットが欲しいかな。猫とかインコとか」
私は、取れかかった「変わり者芸大生」の仮面を、再び悦子に装着させようと試みました。
「前々から不思議に思ってたんだよね。どうして莉子は誰とも付き合わないんだろうって。まるで『日当りは良いが、実はいわくつき物件』って感じでさ」
無駄でした。私はこの手の話が嫌いでしたが、こうなるともう止めようがありません。目の前に出されたナポリタンと見つめ合いながら、じっと嵐が通り過ぎるのを待つしかないのです。因みに、ナポリタンと見つめ合っていた時は、至って普通に身動きが取れました。
登場人物整理
【莉子】
十九歳の主人公。中華街で占い師に無茶苦茶な余命宣告をされてから頭痛に悩まされている。どうやら屋上で見た出来事と関係があるようだ。
【占い師】
中華街で莉子に声を掛けた怪しい女。
【屋上の自殺男(白澤)】
莉子の目の前で飛び降り自殺を図るも高さが足りずに未遂に終わった男。歳は二十代前半。今後もがっつり登場する。
【悦子】
莉子の唯一の親友。芸大に通っている。思ったことはズバッと言う性格。