占い師と屋上の自殺男
何の根拠もないことを誰かに納得させるのは難しいでしょう。そこにどんな感情や確信があったとしても、決定的に足りていないものがあるのです。
「アンタ! もうすぐ死ぬよ!」
そんな恐ろしい予言をしたのは、中華街の占い師でした。
成人式と誕生日を間近に控えた、大学二年の十二月のことでした。私は暖かい肉まんを求めて、夕方の中華街を気ままにぶらついていました。飯田橋にある大学から、わざわざここまで来ることもなかったのですが、この日は……この日だけは、なぜか横浜の中華街をぶらつきたい気分だったのです。
辺りが薄暗くなってきた頃、私は突然誰かに左腕を強く掴まれました。左手は私の利き腕だったので、少しゾッとしました。なんとなく、わかっていて掴んだような気がして……
「アンタ! ちょっと来てごらん!」
しわがれた女の声。外国人特有の妙な訛りがありました。私の利き手を掴んだ主は、いわゆる占い師でした。大体六十歳くらいで、ぺらぺらな素材でできた胡散臭い服を着ていました。
「は? なんですか? 私に一体――」
無視してしまってもよかったのですが、一応返事はしようと思いました。しかし占い師は私が言い終わるよりも早く、例の台詞を言い放ったのです。
「アンタ! もうすぐ死ぬよ! 成人のユカタ着る日。もう臭い、染み付いている。もうほとんど決まったことだよ!」
この占い師の言葉になんの心当たりもなかったかというと、そうではありませんでした。
「……う、うるさい! やめて!」
私は占い師の腕を振りほどきました。私はこの占い師が言ったことに、ぼんやりとした心当たりがあったのです。
それから私は逃げました。人ごみを掻き分けるようにして、駅まで向かいました。占い師はさすがに追いかけては来ませんでしたが、それでも逃げ続けました。
さて、その心当たりについてですが、話は三日ほど前に遡ります。
その日、私は木更津のとある廃ビルの屋上にいました。古ぼけた看板には『夕焼けビルジング』と書かれています。
木更津は私の生まれ育った町です。今は二年ほど前に引っ越して、大学の寮に住んでいるのですが、時折ふらっと東京から抜け出して、廃墟であふれ返ったこの町へやってきます。
なぜ廃ビルなのか、不思議に思われるでしょう。別に私が自殺を目論んでいた訳ではありません。鳶に餌をやるためです。鳶に餌をやるには、屋上が一番良い場所なのです。
しかし、この日はそんなことをするわけにはいきませんでした。
男が、知らない男がそこにいたからです。
錆びたらせん階段を登りきった時、私は思わず悲鳴をあげそうになりました。というのは、その男が自殺をしようとしていたからなのです。男はスーツ姿で柵の上に腰掛け、足を力なくぶらぶらさせていました。
彼は私の存在に気がついたのか、ゆっくりとこちらを振り返りました。やつれた顔面が、私のほうに向けられました。おそらく二十代。あまりにもやつれているので、正確な年齢は推測できません。
「あれ。もしかして、あなたもですか?」
男は私のほうを見てそう言いました。随分と冷静でした。
「まさか」
私には彼の言ったことが何を意味しているのかすぐにわかりました。そしてとっさにそう答えたのです。
「そうですか。すみません。同じ臭いがしたような気がしたので……」
「は?」
彼の発言に対し、今度は困惑しました。
「そんな風に見えますか? 私は」
私は馬鹿な質問をしました。少し間をおいて、ぼそぼそと聞き取りにくい返事が返って来ました。
「……いや、気のせいです。俺がこんなだから、そう見えたんです」
この言葉の意味について、深く考えるようなことはしませんでした。――この時は、まだ。
とにかく私は彼を引き止める必要があるように思いました。別に、赤の他人が自らの意思でこの世を去ろうが、私とは何の関係もないのですが、本能でしょうか。気がつくと私はポケットに入れていた携帯を取り出し、通報していました。しかしその瞬間、一番起きてほしくないことが目の前で起こりました。
「あれを落とすには、こうするしかないんだ」
男はそういうと屋上から地上に飛び出していったのです。私はぎょっとして柵の前まで駆け寄り、ビルの下を見下ろしました。
幸い、彼は生きていました。きっと、高さが足りなかったのか、おかしな言い方ですが、打ち所が良かったのだろうと私は思いました。
男が転がっている場所まで階段を駆け降りていきました。そこで彼はとんでもないことを言い出したのです。
「い、痛えぇ。何だこれ。き、救急車呼んで……!」
私はまたぎょっとしました。そんなことを言う彼の顔は、もうやつれてなどいなかったのです。それどころか、目には生きるための光が宿り、まるで別人のように見えました。まるで「最初から死ぬ気などなかった」とでも言うかのように、生き生きとしていたのです。
すぐに私の呼んだ救急車がやって来て、男を担架に乗せて運び出しましたが、私はなんだか胃の辺りがむかむかしていました。辺りには、一体どこから沸いてきたのか、いつの間にか野次馬が群がっていました。
ぼんやりと突っ立っている私を見た救急隊のおじさんが、余裕の笑みでこっそり私に言いました。
「大丈夫。これは大丈夫なやつ」
その日からというもの、私の日常は少しずつ狂い始めました。おそらく、この日からに違いないのです。
――もう臭い、染み付いている。もうほとんど決まったこと!
この言葉が常に頭の中にありました。今だからこそ言えるのですが、彼は単なる自殺志願者ではなかったのです。