化け物と白澤
「それ」は、追い詰められ、弱った人間の魂を好んで貪った。雄か雌かもわからない、誰も真の姿を知らない。ただわかっているのは、それがいわゆる「化け物」であるということだけだ。
その化け物を、ひとまずは「彼女」と呼ぶことにする。何故なら、化け物は占い師の女の姿をしていたからだ。
彼女は飢えてなどいなかった。この格好は、何かにすがりたい追い詰められた人間を捕まえるのが容易であり、なんといっても場所を選ばないからである。手相、タロット、生年月日……手段は重要ではない。少しの脅しと呪いを掛けるだけ。たったそれだけで、獲物は勝手に動き出す。
その日の夜、彼女はとある駅前で道行く人々を眺めていた。足早に行き交う東京の人々の顔には、所々暗い影が落ちているように見えた。
暫く眺めていると、一人の男がぶつかって来た。酒の臭いが彼女の鼻を刺激した。どうやら酷く酔っているようだ。
男は彼女の方を振り返り、睨み付けた。二十代くらいの若い男で、仕事帰りというような服装ではなかった。おそらく休みをもらって東京までやって来たのだろう。仲間と酒を飲んで、家に帰るところなのだ。
「どけよババア」
男は言った。
「あたしは、悪かないよ」
彼女は言い返した。彼女はただ、駅の前の階段に腰かけていただけなのだ。
「なんだてめえ。消えろよ、きったねえな」
男は今度はそう言って彼女の脛をけ飛ばした。その時、彼女は思った。
まったく、なんてみっともない奴だ。ひょっとして、人間全体の魂の価値を下げるのは、この男のような人間ではないだろうか? 人間の生命は他の動物とは少し違う。必要以上に深く考え、他人を恨み、気使い、死ぬことを何よりも恐れている。しかし、理不尽な災難に限界まで追い詰められ、完全に今までの自分と切り離された途端、考えることをやめ、他人に興味をなくし、すんなりと死を受け入れる。空っぽになるのだ。その過程は素晴らしい。だがこの男は何だ? こんなろくでなしにも、そんなことが可能だと言えるのか?
「あんた、もうすぐ死ぬよ。あと三週間……」
彼女は地鳴りのような低い声でそう言った。心の中で、憤りと期待がせめぎ合っていた。
呪いを受けた男の名前は、白澤と言った。彼は酒癖が悪く、いつも機嫌が悪かった。そして、この日の夜も例外ではなく、駅前にいた占い師の女に八つ当たりしたのだった。女の脛に蹴りを入れると、いくらか気分が落ち着いた。しかし――
「あんた、もうすぐ死ぬよ。あと三週間……」
女の言葉は白澤を捉えて離さなかった。まるで、何か悪いものにでも取り憑かれたように。
いつ、どこで、何をしていても、頭の中には女の姿が、声がある。どんなに晴れた日に外へ出ても、背後からは真っ黒な闇が迫って来る。
――じきに乗っ取られる。
そう感じた。そんな日々の中で、彼は徐々にやつれていった。
彼はあらゆる手を尽くした。何の根拠もない死から逃れようと、独り狂ったように奔走した。
ある時は女と会った駅前にやって来て、彼女の姿を探した。また、ある時は病院へ行って検査を受け、それでも解決しないとわかると、今度は霊媒師を頼った。
しかし、すべて無駄に終わった。頭の中の女と、自分の背後に迫りくる真っ黒な闇を追い払うことはできなかった。
気が付くと、白澤は廃ビルの屋上に立っていた。本来、その日は会社に行くはずだが、彼はわずかな可能性に賭けることにした。
女が言っていた日まで、あと三日しかない。その前に、手を打たなければならなかった。
屋上から飛び降りるのに、恐怖などなかった。もしこの時、白澤の中に少しでも恐怖心と呼べるものが残っていたとしたら、この行動は違った結果を生んだかもしれない。
飛び降りる直前、二十歳くらいの若い女が現れた。彼は、彼女に対し、どこか自分と似たような空気を纏っているように、もしくは過去に纏っていたように感じた。
「あれ。もしかして、あなたもですか?」
無意識に、白澤はそう言った。
「まさか」
若い女もすぐにその意味を理解したらしく、目を泳がせながらそう言った。
その後、白澤は空中へ飛び出した。一瞬、例の真っ黒な闇を振り切ったような感覚があり、淡い期待が生まれた。しかし、彼の前に待ち受けていたのは、そんな闇とは比べ物にならないほどおぞましいものだった。
「なんだ、やっぱり同じ。気に入ったよ」
頭の中で、そんな声が聞こえたような気がした。
「次は、あの子だ」




