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竜に挑んだ男たち

作者: 山彦八里

 かつて、まだ誰も世界の果てを知らぬ頃。


 誰にも知られぬ英雄がいた。

 ただひとりの友が知る、男がいた。


 男は少しだけ普通の人とは違っていた。

 身の丈は六尺を超え、肌は剣林弾雨を徹さず、血潮は熱した鉄のように熱く。

 ひとたび激すれば、大樽三杯の水と七人の女を必要とした、人の形をした人でないなにか。


 誰もが男を敬い、しかして畏れ、遠ざけた。

 南下する蛮族と戦い続けた男に残ったのは、ただひとりの友だけだった。


 男にはただひとりの友がいた。

 友は誰もが知る栄光の船乗りだった。


 若くして船長となり、各地を巡って莫大な富を築いた英傑。

 戦乱に明けくれる地に夢と希望をもたらした立志伝中の人物。

 そして、世界の果て、大海の縁、“断崖竜(だんがいりゅう)”に挑み敗れた、老人だった。





「どうしても行くのか?」


 日も昇りきらぬ桟橋、他に誰もいない静かなその場所に、男と友の姿はあった。

 男は小さな舟に乗っていた。

 慣れた手つきで(もや)いを解き、それから、友を見上げて困ったように笑った。


「行くとも、友よ。それが俺のなすべきことだ」

「ひとりで、行くのか?」

「お前の足で船はきつかろう」


 男の言葉に、友は返す言葉なかった。

 友は大海の縁を支配する“断崖竜”を突破せんと船隊を率い、敗北し、半死半生の身でこの地に流れ着いた敗残者だった。

 かつての栄光も夢の彼方。

 長く海を漂ったその足はやせ衰え、杖をつかねば歩くことすらままならなかった。


 そして、それ以上に恐怖があった。

 竜への、恐怖だった。


 世界の縁をぐるりと囲む巨体。

 ひと口で大船を呑みこむ巨大な顎門。

 あるいは、嵐を巻き起こす竜の翼、一振りで津波を起こす竜の尾。

 恐れ知らずの海の男たちが、何も為せず塵のように吹き飛ばされた。

 その光景が、その恐怖が、友の足を陸に縫いつけていた。


「竜は人の身では抗しきれん」

「そうだな」

「いかにお前が強くとも、無理だ」

「そうかもしれん」

「生きては戻れぬ。……それでも、行くのか?」

「ああ。それでも、行くのだ」


 何故だ、と友は訊かなかった。

 そんなことは訊かずともわかっていたからだ。


 冒険で得た宝を見せびらかし、夢と希望を語ったのは誰だ。

 世界の果て、断崖竜を超えた先に黄金の都があると騙ったのは誰だ。

 かつて少年だった男がどのような目で己を見ていたか、忘れたわけではあるまい。

 過去に戻れるならば、己を絞め殺してやりたかった。


「……すまない」


 ついに立っていることさえできず、友は杖を投げ出し、桟橋に両手をついた。

 男には友の他に親しい者はいない。

 止められるのは己だけだ。


 だが、そう――だが。

 男の手には櫂の代わりに光輝く鉾があった。

 黄金のように輝き、鋼のように堅く、放てばイカズチの如く迸る。

 かつて友が、海神の洞窟から簒奪した、栄光の残滓。

 竜に敗れた友が、それでも手放さず、それゆえに陸へと彼を導いた――七つ海の宝。


 友が、男に授けた、竜殺しの秘策だった。


 いかな竜とて、この鉾に逆鱗を貫かれれば、タダでは済まない。

 だが、その代償が何なのか、わからぬ友ではなかった。


 それでも、託してしまったのだ。

 行くなと言いながら、その口でまやかしの希望を授けたその卑劣さ、傲慢さ。

 これを、矛盾と言わずに何と言うのか。


『この男なら、あるいは――』


 夢と希望を語り、男たちを海へと駆り立てた友は。

 その実、誰よりもその麻薬に酔いしれていた。もはや抜けだせぬほどに。


「友よ、顔を上げろ」

「だが、私は……私は……お前を殺してしまう……」

「わかっているとも。お前の恥辱、お前の傲慢、その全てを俺は知っている」

「だったら!!」

「だからこそだ、友よ――――」



 ――――お前の希望がまやかしでなかったことを、俺が証明しよう。



 男は笑った。大いに笑った。


 その決意を誰が知ろう。

 誰もが諦め、嘲笑い、見捨てていった夢の残骸を。

 この男だけは最後まで信じていたのだ。

 ただひとりの友であるが故に、信じていたのだ。


「お前こそが、俺の夢だった。どうか顔を上げてくれ。この旅立ちを見送ってくれ」


 老人はもはや何も言葉を発することができなかった。

 小さくなっていく男の背中を、ただ見つめることしかできなかった。

 己の罪を、ただ見ていることしかできなかった。











 男は、帰ってこなかった。





 それから十年後。

 老人は病床に臥す中で、ひとつの噂を聞いた。

 とある船団がついに世界一周を成し遂げたという噂だ。


 人々は歓喜し、その偉業を称えた。

 竜などいなかったのだと、それは老人の語ったおとぎばなしだったのだと、笑った。

 そして、誰もが竜を忘れた。


 老人だけは知っていた。覚えていた。

 竜は、いたのだ。

 男は、証明したのだ。

 そのことを、彼だけが忘れていなかった。

 老人は、帰らぬ英雄の為に、涙した。




 ――かつて、まだ誰も世界の果てを知らぬ頃。


 誰にも知られぬ英雄がいた。

 ただひとりの友が知る、男がいた。


 男は少しだけ普通の人とは違っていた。

 身の丈は六尺を超え、肌は剣林弾雨を徹さず、血潮は熱した鉄のように熱く。

 ひとたび激すれば、大樽三杯の水と七人の女を必要とした、人の形をした人でないなにか。


 誰もが男を敬い、しかして畏れ、遠ざけた。

 南下する蛮族と戦い続けた男に残ったのは、ただひとりの友だけだった。


 男にはただひとりの友がいた。

 友は誰もが知る栄光の船乗りだった。


 そして。

 ただひとり、男の偉業を知る。

 ただひとりの、友だった。




お題:絶縁、挫折、竜、絶倫、へり

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― 新着の感想 ―
[一言] なんだろう。 こんな短い文なのに、物語として成り立っている。知らず知らずに夢中になってしまった。 素敵な作品をありがとう。
[良い点] 切ないですね
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