2 『これが新たな世界の形』
――日本第二バビロン。
大粛清前の日本地図で言うと愛知県中心地。旧名古屋市中区から二キロの地点に建っている。ただ愛知が名古屋も含めその大半を海に沈めた今日、そんな地域名称を言われたところで正しい場所を把握できる者は少ない。
空から見ればだだっ広い海洋のただ中、突如現れる建造物という印象だろう。海面からところどころ顔を出す独特のツイストした建造物やビル群が、三大都市と言われた街の名残を思い出させる。遠くにひと際顔を出している人工物は名古屋駅の顔だったセントラルタワーズだろうか。今ではその片方が半ばで倒壊し、無残な情景の一部となっていた。
威光を放っていたそれらビル群の五倍近い高さを誇るバビロンの最上層。
第二バビロン防衛省特殊災害対策本部。別名《特災》。
塔の防衛システムから洩れ侵入したゲマトリアを殲滅する免疫機関にして、塔内の調律師を一括管理しする彼らは、第二バビロンの守護者と言って相違ない。その組織の中心たる屋敷は、現在慌ただしく人が出入りしていた。
「当主、今朝の話はお聞きしましたか?」
畳張りの和室。その上座に坐する和服の少女が重い口を開く。
「ええ、聞き及んでおります。猪笹王が討たれたそうですね」
リンと響いたのは鈴の音。
独特の耳に残りやすくそれでいて不快にならない、十人いれば十人が聞き惚れそうな声音。その口を飾る容姿もまた完璧と言っていいほど造形をしていた。漆を塗ったように艶やかな黒髪が揺れる。欠点があったとすれば、感情の起伏が少なく不機嫌に見えるところだろうか。ただ見る人によっては憂いを帯びた美少女に映っただろう。
――神無月銀河。
去年没した父に代わり、若くして一組織の当主になった才女である。
「銀河様、これは由々しき問題ですぞ」
「人命こそ一番です。討たれたのならよかったではありませんか?」
「そのようなきれいごとを言っている場合ではございません! よそ者に先を越されたとあっては、我々特災の威光にかかわる重大事項です!」
あまりの暑苦しさに銀河は、耳にシャッターを下ろすように目を閉じた。
この拓真という男、有能ではあるのだが如何せん特災という名前に固執し過ぎている節がある。その点だけは苦手とするところだった。
「……言いたいことはわかるつもりです」
「では早速しかるべき処分を!」
「そこまでする必要があるのですか? 死傷者はいなかったのでしょう?」
「破壊された食料プラントの問題がございます!」
はたと記憶を巡る。
食料プラント――海水内のプランクトンや培養したミドリムシを使用し、合成食材を生成する工場のことだ。土地が失われて等しい現代、土地を耕したり家畜を育てたりといった農牧は難しい。一部持ち込まれた土で行われているが到底足りるわけもなく、この手の天然食材の流通は限られているのが現状だ。
そのため塔の胃袋を満たすのはこの食料プラントで作られた、何とも味気ない模造品が主となる。当然、塔にとってもリスク回避のためいくつも建てられた重要施設である。潰されたのはそのうちの一つだ。確かに問題ではある。だが、同時に建前だと言うことも気づいていた。
なにせ、身内には出動すれば必ず何かを壊して帰ってくる問題児がいて、それでも成果を上げているため何だかんだで毎回無罪放免になっているからだから。
とはいえ黙認されているだけで言及されれば無視はできない。
銀河は横目で壁に背を預け座る問題児を恨めしく見た。相変わらず呑気に我関せずといった様子で爪をいじる姿に思わずため息が漏れる。
「……わかりました。手荒なことはしないようにお願いします。暴力はいけませんよ」
「善処いたします」
曖昧な返事を残す様を見ると、無意味なことなのだろう。拓真の背が部屋を出て行く。扉が閉められ遠ざかっていく足音に、銀河は耳を澄ませた。
――――…………。
――……。
「も~出てったよ~、ぎ~んが~」
件の問題児が口を開く。瞬間、
「――……うばぁああああああああああああ~~~~っ!!!!」
銀河の粛々とした仮面が弾け飛び、その場に崩れ落ちた。
「あ~もうヤダヤダヤダ――ッ! 面倒事ばっかおこらないでよもーっ!!」
そして大の字でうつぶせになったと思うと、駄々っ子のように両手足をばたつかせ、ゴロンゴロンと髪が乱れるのもお構いなしに転がり始めた。彼女のことをよく知る人物が見れば目を覆うか現実を疑いたくなる光景である。
「あいっかわらず二重人格みたいなキャラ崩壊よね、それ」
「ぶ~、毎日クルミみたいにカッチカチな石頭を相手にしてるんですから、あなたの前でくらい気を抜いてもいいじゃないですか~」
「……あんたに憧れる男連中には絶対見せれない光景だわ」
「別に有象無象に興味なんてないですけどね」
「そう邪険にしてあげなさんなって。あ~ほら、畳の上でごろごろはやめろ~」
「ちょ、ひゃん! どこ触ってるんですか!!」
「どこって、ちょーど手ごろなところにお尻があったからつい?」
突然お尻を鷲掴みにされて飛び上がる。
両手をワキワキさせにじり寄る姿に、銀河は身の危険を覚えてサッと身を翻した。
「もう! オヤジ臭いですよ茜 そういうあなただってスカートで胡坐だなんて行儀が悪いと思います!」
私服に和服を好む銀河と違い普段着を制服と決めている彼女は、今日も二人の通う高校――桐蔭高校の制服を身に着けていた。当然そんな姿で胡坐をかけば下着が丸見えになるわけで。それを指摘する銀河も暴れたせいで和服の裾が乱れ、シミ一つない太ももがあられもないことになっていた。
「あたしはいいのよ。あんたと違ってキャラ作ってないし」
「そう言いながら、なんだかんだでガードは堅いくせに……」
銀河は知っていた。一見壁を作らないざっくらばんな彼女が、ある一線においての身持ちの固さは自分の比じゃないことを。ただそんなことを知っているのは付き合いの長い人――つまるところ、銀河や限られた数人しかいないわけで、同年代のがっついた少年たちが勘違いの果てに特攻。そして笑顔で地獄へ落とされ玉砕した回数はいざ知れない。
「まぁ気持ちはわかるけどね。あの拓馬って人、宗教じみた忠誠心とか見てて普通に気持ち悪いもん。しかもあれで特災ではマシな分類とかさ」
「だったら助け舟出してくれてもいいじゃないですかぁ」
「うへぇ……勘弁してよ。あたしはあんたほど猫かぶり上手くないんだから」
ぶすっと唇をたてる銀河にべっと舌を出した。言いにくいことをさらっと口にする竹を割った物言いに銀河は苦笑を漏らす。明け透けに言ってのける彼女だが、その容姿は銀河に負けず劣らず目を引いた。とはいえ銀河とはベクトルがまったく逆を向いているという点で面白い。
深い蒼みがかった瞳は日本人以外の血が混ざっているのか深海のように美しい。赤みを帯びた茶髪は肩口少し下まで伸び、頭の片側で結っている。俗にいうサイドポニーだ。毛先のウェーブがフワフワと揺れて活発な印象を他者に与える。覗く八重歯は親しみやすく、化粧気のないことが逆に彼女の素の良さをよく表す。どこピリした屋敷の中でも、彼女の周りだけは穏やかな春の陽気が満ちているような。そんな自ら輝く少女。
――鳴海川茜。
特災のナンバー2にして銀河と並び評され実力者である。
(表向きは)儚げで粛々とした高嶺の花である銀河。
(ガードは固いが)親しみやすく感性に生きる茜。
パッと見では正反対な二人だが、その関係は当主と部下という関係を超え馬が合う。そのことが特災内では七不思議の一つとなっていたが、なまじ強く美しく対極な特災の要である二人は、同世代はおろか少し歳の離れた相手にすら神格化され、戦場の女神のように扱われることが多い。
そのため、憧れやら偶像やらで丁寧にラッピングされた上に過剰包装を繰り返した結果、『太陽(茜)がないと月(銀河)が輝かないように、月(銀河)がないと太陽(茜)は眩しすぎるように、才ある者同士は引かれあうのだろう』といった感じで好意的に納得されているわけだが、単に根っこが似た者同士なだけであることを知る者は、少なくとも特災内にいない。
「しかし、よそ者の調律師ですか。海外から日本に入ってくるなんて珍しいですね」
「今の日本ってな~んもないもんね。ほとんどの土地は海の中だし」
拓真から渡されていた資料を畳に寝ころびながら広げる。そこへ傍に茜が座り直し覗きこんできたので僅かに体を傾けた。
「顔写真はなし。現場の状況写真だけですか」
「ふーん、どれどれ? うっわ、これまた派手に壊してくれたね。ビルが跡形もなく倒壊してるじゃん」
「よっぽど高位の調律師ということでしょうか? となるとどこかしらの組織の可能性が高そうですね。単純に考えるならコンコルディアですが……」
世界各国の優秀な調律師を集めた国際組織――コンコルディア。
世界に点在する人類最終防衛権である塔を守るため世界を飛び回る非政府組織(NGO)である。多くの上位調律師が所属し、塔の危機にはいち早く駆けつけどこよりも早く解決しては去っていく。言うなれば特災を塔の免疫機関とするなら、コンコルディアは世界の免疫機関といって過言ではない。
まるで正義の味方のような甘い理想を掲げながら、実際に多くの功績を残す。本物の実力者の集まりだ。ただその強引さゆえに、ある程度自衛のまかなえる塔からは国内干渉と白い目で見られるのが常でもあった。
「でもコンコルディアっていえば超一流の調律師集団でしょ。そーいう連中って貧困地域とか、人材の乏しい第三世界が主な活動地域なんじゃなかったっけ? 余裕のある日本に来る意味がわかんないんだけど?」
「はい、特に島国という閉鎖社会である日本は、ゲマトリアを悪妖怪や怪異と呼び対立してきた歴史が古いですから。他国と違い対抗手段も経験値も持ち合わせています。……もっとも特殊な調律師が生まれれば、このような優位性あまり意味はありませんがね」
「いや~それほどでもないかな~」
自分のことを言われたと思ったらしい茜がわざとらしく頭を掻く。そういうところが古老連中の癇に障るのだろうが、本人に言ったところで理解されないのだろう。
魔を持って魔を制する。
第二バビロンの調律師の本質を理解する者は彼らをそう評する。
退魔の一族『神無月家』は、初代当主がすでに廃れた技術――ゲマトリアを使役する力でゲマトリアと契約。それを代々受け継ぎ、後世の血族やそれに連なる者が体に憑依させることで超常の力を手に入れる契約術を得意としていた。それは特災という組織に形は変えようとも本質は変わらない。
ゲマトリアを憑依させ戦う彼らのことを《憑依型》と呼んだ。
だが、あらゆる分野で例外が存在するように契約術にも例外は存在する。それが茜だ。銀河たちが人工的に作られた調律師であるのならば、茜は天然。生まれながらにしてゲマトリアを体内に宿していた異端児。
《転生型》
近代では超能力者と呼ばれ、中世では魔女狩りの標的にされた、生まれつきの調律師だ。
当然、伝統とプライドが時に命より優先される格式高い――もしくは頭の固い昔気質な――調律師からしてみれば、ぽっと出にもかかわらず実力のある茜を許容できるわけもなく、陰で『呪われた血』や『混ざり者』と揶揄される存在だ。
本質的にはどちらも同じなのに……。身内の情けなさには辟易する銀河だった。
「……あれ? もしかして今回ゴタゴタしてるのって」
「やっとそこに行きつきましたか」
相変わらずのんびりしていますね、と続けた。
「特災でも手を焼いた猪笹王を特災以外の者が討伐した。それが『当家の威厳にかかわる』らしいです」
自嘲気味に頭を振った。
「そこまで気にするようなことかなぁ~」
「ここ最近は特災内でゴタゴタが続いて、塔の民間人から不平が出てきていますからね。少々神経質になっているのかと思います」
「あ~例の事件かぁ。あれは確かに災難だったよね」
茜は言ってからはっと自分の失言に気づく。だが時すでに遅く、銀河は悔しげな表情で唇を噛んで、なにかに耐え忍んでいた。
「……ごめん、無神経だったね。そう言えば智香と静流は銀河が目にかけて可愛がってた子たちだっけ」
「いえ、こちらこそごめんなさい。……ダメですね。いつまでも引きずっていては」
――特災の術者が敵前逃亡し姿をくらました。
そんな噂が現在、第二バビロンではにわかに広まりを見せていた。噂の出所はわかっていない。ゆえに真偽も定かではない。当然根も葉もなければこのような噂はすぐに忘れられる類いの代物だ。だが火のないところに煙は出ないもの。この件について特災は一切の弁明をしなかった。
それもそのはず、噂の一部は真実だったからだ。
正確には――失踪である。
「惜しいよね。二人とも経験さえ積めば、間違いなく特災の柱になる逸材だったのに」
「はい、実力こそまだまだでしたが、潜在的な〈気〉の容量では私を超えていましたから」
ここ半年で特災内の才能ある術者が何人も前ぶれなく消えていた。そのうちの二人こそ、銀河を『お姉さま』と慕い、茜を『超えるべき存在』とライバル視していた智香と静流である。特災が抱えるゲマトリアの中でも一〇指に入る強力なものと契約した彼女たちは、間違いなく次代を率いる要となるはずだった。
「あ~でもあれよね。威厳も何も、あたしだってある意味よそ者だよ? ほら養子だし?」
微妙な空気を払しょくするように、茜がおどけて小首をかしげる。
その自虐ネタとも言うべき内容に銀河も思わず苦笑を漏らす。
「茜は別格なのでしょうね。何せ第二バビロンはじまって以来の天才だ~なんて、お父様が太鼓判を押すほどですし」
「都合いいなぁ」
見たいものだけ見て他には蓋をする。蔓延したそんな空気に茜は肩をすくめた。そんな心情を察したのか、銀河は恥じ入るように眉根を押さえる。
「今頃は嬉々として部隊を招集しているでしょうね」
「ふ~ん………………茜はそれでいいの?」
声のトーンがやや下がる。
茜に心の中を見つめるような真摯な視線を向けられ、銀河は僅かに頬を緩める。
(やっぱり誤魔化せませんね)
言葉以上の気持ちが通じ合う関係に僅かな心地よさを覚えた。心情を見抜かれて喜ぶのは一組織のトップとしてどうなのだろうと思ったが、一人……いや、二人くらいならそういう相手がいてもいいだろう。そう言い訳してゆっくりかぶりを振った。
「いいも悪いも彼らにも大義名分がありますから。頭ごなしに否定はできません」
「……はぁ、あんた、やっぱり特災のトップだけあるわ。ほんっと頭固いよねぇ」
だいたいの事情を飲み込んだのか、座った姿勢のまま勢いをつけて立ち上がり、「ん~~ッ!」と大きく伸びをひとつ。すると服の上からもわかる歳相応以上に育った胸元が強調され、彼女の女性らしさをいかんなく見せつけた。
歳の割に豊かな胸が反れる光景に、歳の割に平坦な銀河は「む……」と苦虫を一〇〇匹ほど噛んだ。
「あたしちょっと行ってくるわ」
「…………そうですか」
「あんたはどうする?」
「いえ、銀河には無能な古老連中では勤まらない業務がたくさん残ってますので」
「トゲきっついな~。でも最近屋敷に籠りっぱなしじゃ腕錆びるよ? 《白の剣姫》さん?」
「ご安心ください。それでもあなたよりは強いですから。《黄金の戦姫》さん」
《特災の二姫巫女》
そう呼ばれる二人は冗談交じりに自らの異名を口にし、異性が見れば一目で恋に落ちそうな笑顔を浮かべ合った。
「あはは、相変わらずサラリと嫌味なこと言ってくるわね」
「ふふ、事実ですよね?」
「あ~はいはい! ま、たまには手合せしてよね。あんた以外じゃ練習相手にもならないんだからさ」
茜はそのわざとらしい仕草を適当に受け流し掌を振り、形式に則って当主である銀河に一礼すると足早に部屋を後にし堂に入った作法で襖を閉めた。一連の動作にまた苦笑が漏れる。相変わらず変なところでまじめだ。
台風のように力強く自由な茜を、ほんの少しだけ羨ましく思う銀河だった。