1 『終わった世界より』
「ダアァァ――ッ!! ちくしょおッ! ちっくしょ――ッ! どうしてこうなった!」
入り組んだ路地を走り、東雲海斗は世の不条理へ絶望の声をあげていた。
後方を確認。地元民でさえ把握している者の少なく路地裏には霧が立ち込め人の子一人見あたらない。おかげで二〇前半の若者がよれたスーツに身を包み全力疾走していても悪目立ちしないことが唯一の救いだ。
問題があるとすれば、自分がどこにいるのかすでに把握できていない一点につきる。
間違いなく迷子である。
「くそ、くそくそくそ! 全部あいつのせいだコンチクショウッ!」
今はいない相棒の言葉を思い出す。
『帰国一日目くらいは豪勢にいこうではないか!』
すべてはあのセリフから始まった。
他国が初めてということはないくせに、早朝の時差ボケからかやたらテンションの高かった彼女は、飛行機を降りた瞬間財布をくすねると走り去っていった。
食い意地を張った彼女に買い物を任せるなど財布の自殺行為に等しい。いつもの海斗なら見過ごすようなことはなかっただろう。だが、どうやら彼自身も少々浮ついていたらしい。「ま、今日くらいはいいか」と寛容できる程度のゆとりを持ってしまっていた。
突然ビルの間から現れた巨大な影と目が合ったのはその後すぐのことだ。それから逃げること一時間。入国早々熱烈すぎる歓迎を振り払うこともできず今に至る。
………………なんだこれは。
まったくもって嬉しくない。
できることならモーレツなラブコールは女性にしていただきたかった。
いや、生物学上は女なのかもしれないが、所望するのは女の人である。断じて人外は御免こうむりたい。
「っざけんなよマジで! いくらなんでもしつこすぎんだろ! やるなら堂々と来いよバカ野郎!!」
ドンッと、返答に答えるように巨大な緑色の物体が降ってきた。
「あ、ごめんなさい。文句言わないので、マジレスとかやめてくれませんかね」
平坦な声で懇願してみる。だが人ならざる敵――ゲマトリアがそんな願いを聞き入れてくれるわけがない。荒い鼻息に鋭い二本の牙。五メートルはゆうにある巨体は四つ這いにもかかわらず海斗より背が高く、家畜の豚とは明らかに違う筋骨隆々とした骨格が目を引く。その背には熊笹が生い茂り、まるで着物を着ているようなある種の雄々しさを感じさせた。
目の前に現れたのは、どこの山の主だよと言いたくなるほど巨大な猪だった。
岩石のような顔の中心で瞳がギョロリと海斗を捉える。
「まずッ!」
巨体がぐっと後ろ足を踏みしめ前足を持ち上げる姿に、海斗は力の限り横に跳ぶ。数瞬後、猪の両足がさっきまでいた場所を踏み抜いた。舗装されたコンクリートはその重量で陥没。地割れと轟音を轟かせクレーターを作ったかと思うと、
――がくんと、大きく地面が傾いた。
「って、ちょっと待――」
貫く笑劇にたたらを踏む。大荒れの海原に翻弄される船のごとく地面は上下すると、大きく傾斜角をつけて停止した。ゴミやらコンクリート片が転がってきて、容赦なく海斗にぶつかる。
たまらずうつむいた海斗。ひび割れた地面の先で藻屑となって消えていく残骸の姿を見て、自分が地上一〇〇メートルの人工物の上にいることを思い出す。一歩間違えば自分が落ちていた。そう思うと血の気が失せる。
「こんの肉塊が! 暴れるなら場所を考えろよ!!」
海斗は転落防止のガードレールにしがみつきながら面を上げる。
すぐ目の前に猪の尻が迫っていることに気づいたのはその時だ。
「って、お前も転がってくんなあああああ!!」
脹脛に力を込め力の限り横に跳躍。視界の端で激突したガードレールを歪め暴れる猪の姿が映る中、海斗は崩れた地面から覗く賽の目状の基礎を掴みバランスを取った。僅かに遅れて体制を立て直した猪が海斗をまねて、蹄を賽の目にひっかけ対峙する。
――妖怪・怪異・魑魅魍魎。
彼らを呼称する様々な呼び名がある中、一〇年前に大発生以降、世界の共通認識として広く使われるようになった名称――『ゲマトリア』。
今回のように既存の生物を巨大化しただけの比較的大人しいものもあれば、生物学的にありえない姿をしたものもいる正真正銘の怪物たちである。そしてこの猪にかんして言えば、どうやら見た目通り思考は獣に近いらしい。
狙った獲物は逃がさない。そんな非常に単純でわかりやすい思考が見て取れた。
「あはは、この状況でまだ襲う気満々ですかそうですか」
空々しく笑う海斗の声には泣きが入っていた。
巨体が揺れる。直後、雄々しい嘶き空気を衝撃波となって震わせた。
辛うじて残った地面をさらに捲りながら迫る音の壁にたまらず身をすくめる。その硬直を狙い猪は巨体を揺らし、猛然と突っ込む。海斗は回避が間に合わないと判断。すかさず腰を落とす。短い呼気を一回割り込ませ、弓の弦を射るように拳を振りぬく。
猪の牙と拳が接触――破砕音。
わずかな間隙の後、根元から折れた牙が地面に刺さる音が響く。嘶きとは違う苦痛から出る悲鳴が響き渡る。だが攻防は終わっていない。振りぬいた拳をほどき五指が肉を鷲掴む。握力だけで皮を貫き破りスプレーのように鮮血が飛び散った。
「ラッアアアアアアアア――ッ!」
咆哮一声。
大樹の根のように踏みしめた下半身を中心に、巨体が半月を描いて持ちあがりビルの壁へと叩きつける。倒壊音と粉塵の中に猪の姿は消えて行った。
「やったか!?」
「うむ、カイト。それは負けフラグという奴ではないか?」
まさか返答が帰ってくるとは思っておらず慌てて振り返り――顔のすぐ横の地面に鉄骨が突き刺さった。
ビーンと、鉄骨が震える。風切音と掠ってできた頬の擦り傷に、思わず首が繋がっていることを確認してしまう。もし数センチでもずれていたら海斗の首ははじけ飛んでいたことだろう。冷や汗ものだが驚いてばかりはいられない。
「ほれ、さっさとどかんと巻き込むぞ」
なぜなら、こんな無茶をやらかす相手を一人しか知らなかったから。
そしてそいつの仕業なら、この程度では終わるわけがないから。
「ちょっ!! 待て待て待て待て――――ッ!」
出鱈目に横へ飛ぶ。一拍後マシンガンのごとく鉄骨の雨が飛来。
非常識な散弾を前に、哀れビルは根元から刈り取られ倒壊。地面ごと抜け、おそらく猪を撒きこんで大穴の下へと消えて行った。
「なんじゃ、存外呆気なかったのぉ」
トンと突き刺さった鉄骨の頂点に着地したのは一人の少女だった。
歳は一〇に届くか届かないかというところ。
黒を基調としたドレスで身を包み、やたらフリルの多いデザインはゴシックロリータファッション。反して露出の少ない地肌は陶器のようになめらかに白く、どこかハッとさせられる。足元まで届くクセの少ない銀髪が風に舞って、気の早い天の川が地上を彩った。目を引く瞳はルビーの原石を散りばめ、吸い込まれるような魅力を発している。幼いながら将来を約束された美貌に、いっそ浮世離れした雰囲気さえ覚える。
ただ、その華やかな見た目とは裏腹に、手に持つビニール袋はずいぶん庶民的だ。顔を覗かせる『特売半額!』のシールに至ってはシュールさすら醸し出している。
「……フリッカ」
「うむ、元気そうで何よりじゃな! カイト!」
「元気そうじゃねぇよ! 元気じゃなくなりかけてたよ!! さっきの当たってたら間違いなくひき肉ミンチになってたぞ!!」
「いや~ちょっと手元が狂っての。ワシもまだまだじゃな、カッカッカ!」
「そのミスで頭をキャストオフしかけた俺に、まず言うことはないのかな!?」
てへぺろっと舌を出すフリッカに、海斗の額には青筋が浮かぶ。
しか人の感情の機微を察するほど成熟した精神はまだないのか、それとも性格か。十中八九後者であるだろうが、フリッカはわれ関せずといった調子でビニール袋を掲げる。
「そんなことより見よ! 肉ぞ肉! 合成食材や混ぜ物でなく、天然一〇〇%の牛じゃ! しかも全部半額ぞ? 野菜もちゃんと言われた通り新鮮なものを見て選んだ。これでこの国に伝わるニクジャカなる家庭料理を作れるの!」
キラッキラした目が褒めて褒めてと訴える。
その無邪気さゆえに、言っている内容の世知辛さがなんとも涙を誘った。
その時だった。開いた大穴が突然爆発する。
粉じんが晴れた先にいたのは先ほどの猪だった。前足をひっかけ辛うじて転落をまのがれたらしい。その瞳は明らかに恐慌状態で、傷だらけの体とは裏腹に荒い息をつく。
「チッ! いい加減しつこいっつの!」
相変わらずうるさい咆哮の風圧に、顔を腕で隠し耐え凌ぐ。
「巨大猪に背中の熊笹。どっかで聞いたことある容姿なんだよなぁ。……あ~考えるのも面倒か。フリッカ、さっさと終わらせて……フリッカ?」
反応のない相棒に、はて? と振り返る。
うつむく視線の先には朝食になるはずだった肉の残骸が散乱していた。
おそらく先ほどの風圧でビニールが破けたのだろう。気のせいか彼女の長い銀髪が生き物のようにうねっているように思えた。
「カイト?」
チョイチョイと手招き。意図を察し頭を抱える。心底近づきたくない。
「ほどほどにな?」
諦め右手を差し出す海斗。小さな手がその表面をスライドする。ピリッと電流が走るような痛みを確認し、海斗はすべてを諦め一歩……では危ないので十歩ほど下がった。
猪は己がいったい何をやらかしたのか理解していない。穴から登りきり強靭な肉体と凶悪なの牙を誇示すると、あろうことかフリッカへと向かって突進してきた。
「ワシの……ワシの~~~~っっっ!!」
ザワリとドレスの裾が揺れ、ダンッとその場で一歩踏み出す。
――消えた。海斗の目にはそうとしか映らなかった。
あまりにも速すぎる初速の後、彼女がいたのは猪の直上。フワリと裾を広げる漆黒のドレス。その姿は黒い蝶を連想させる。広がる銀髪が朝日に照らされ、キラキラと鱗粉を散らすように光を乱反射させた。
アクロバットな背面跳びから宙で体勢を整え、接敵の際に引き抜いた鉄骨を投擲。数百キロはくだらない質量の塊が猪の胴体を貫き地面に縫い付ける。
「ブオオオ!!」
金切り声をあげる猪。だがまだ息はある。胴を貫かれてなお生きていることに、海斗は内心舌を巻き……同時に同情した。素直に死ねていれば楽だったのにと。
「ワシのニクジャガに何をしてくれたかッ! この肉塊ガアアァァァ――ッ!」
フリッカの手が勢いよく横に薙ぐ。瞬間、猪を足元から生えた幾本もの鉄槍が串刺しにした。それだけでは現象は収まらない。崩れたビルの破片が空中で集まり占位。槍の形を成し四方から殺到する。
頭をつぶし、ハラワタを突き破り、肉片は叩き潰す。
自然消滅すら待たず塵芥に擦り潰していく。だがフリッカの怒りはそれでもおさまらないのか、勢い余った槍の何本かが周囲のビルを巻き込み倒壊の連鎖を巻き起こした。一連の破壊行動を目の当りにし、海斗は頭痛で額を抑える。
「お前、もう少し後先とか手加減をだな……」
「なにを言うか! 美味い飯が食えるかどうかはワシにとって死活の問題なのじゃぞ!」
「ただの食い意地だろうが」
食い物の恨みは怖い。ふとそんな言葉を思い浮かべたが、惨状を見てことフリッカ相手だとそんな言葉すら生ぬるいと再確認する。
「だがぁ……カイトぉ……」
で、戦場のような惨状を作り出した少女は、見るからにしょぼくれ甘えた態度。海斗の腕に抱きつけると、駄々っ子よろしく上目づかいで見つめてくる。とてもさっきまで敵を串刺しすり身にした張本人とは思えない。
「だああ――ッ! 鬱陶しい! わーた、わーたから離れろ!」
「本当かッ! うわっほーい! カイト愛してるぅ~♪」
現金にも元気になったフリッカは離れるどころか腰へ抱きつかき喜びをあらわにする。その無邪気な姿にはもう苦笑いを浮かべるしかない。
「ったく、は・な・れ・ろッ! さっさと逃げないといけないんだから」
「む? なにからじゃ?」
「これだけ騒いだらこの塔の調律師が気づかないわけないだろ。流れ者の俺たちが温かく受け入れてくれると思うか?」
「むぅ、いいことをしたはずなのに逃げんといかんのは納得いかんのぅ」
「それこそいつものことだろ」
個々違う性質を持つ超人類。ゲマトリアに挑む人類の矛。災いを持ち込む災厄の鬼子。
彼らを表す言葉は数多くとも、言い表したい内容はすべて同じだ。
人類共通の敵から人々を守る救世主にして人間の姿をした怪物――調律師。
もっとも、文字通りの正義の味方かといえば少し違う。彼らには彼らなりの所属する組織があり守るべき管轄という、実に俗物的な縄張り意識のようなものがあった。
世界をまたにかける……と言えば聞こえはいいが、ぶっちゃけてしまえば海斗たちは根無し草である。同業者から見れば自分たちの縄張りを荒らす目障りな存在以外何もない。よそ者への風当たりが厳しいのはいつの時代も変わらないのだ。
「いくら俺たちが非暴力主義の対話と交渉を愛する現代人だろうと、相手に聞く耳がなきゃ耳なし壮一と同じだろ」
「出た。まったく、どーせ最後は拳で対話するクセにいちいち面倒な奴よのう」
「うるせぇ。侮られるのはいいけど、舐められたらこの業界終わりなんだよ」
「それで平和主義者を謳うのじゃから聞いて呆れるわい」
フリッカは渋面で諦めのため息をつくと背を向け歩きだした。
釈然としないまま海斗もその背を追い掛けようとして、ふと足元を見下ろす。
天気は快晴。遥か下方の水面に沈む、災害以前の旧都市がよく見えた。塔の周りを囲む海。それは七年前まで高層ビルが乱立していた都市のことを否応なしに思い出させる。
――ゲマトリアは星を殺す。
奴らの現れた場所は土地が水没し、毒が撒かれ、地割れで粉砕される。塩分を含んだ大地は作物が育たず、致死性のガスの充満したエリアではバクテリアすら生き残れない。大地から破壊された都市はその機能を完全に沈黙させ、住む場所を失った人類は今までの故郷から撤退せざる負えなくなった。
何も日本に限った話ではない。中にはまだ都市機能を維持している国もあるにはあるが、ほとんどは破壊をまのがれた土地に身を寄せ合うことで生き延びている。
そう、土地がなくなれば人は生きていけない。
だから作ったのだ。今度こそ何物にも侵されない『塔』を。
外周に並んだ兵器火器の過剰防衛とも思える鉄の要塞――通称『バビロン』。塔の外を徘徊するゲマトリアの侵入を拒む、『ある程度』安全な人間の生存圏である。崩れた旧都市の上に建つその巨体は、全長一キロ、直径数十キロ。
ひどく歪で、武骨で、まるで星の肌にできる癌のようだ。
「大粛清、か」
人類がすべてを失った日の出来事を思い出す。
海は荒れ、地が割れ、空が荒ぶった天災――『星の大粛清』。
あの日を境に世界はかわってしまった。日々水位を増す海面から逃れるように塔はいまなお成長している。まるで飲み込もうとする星と、それに抗い天に塔を伸ばす人類の闘争のように見えてしまう。星を殺すゲマトリアと戦っているのに、真に厄介なのは星自体という現状に苦笑が漏れた。
神話では天を目指して伸びた塔をバビロンと呼び、その人間の傲慢さを怒った神が雷で破壊したとされる。 意図は分からないが、もし塔を『バビロン』と名付けた人物が生きているなら、きっととんでもなく性格のネジくれた皮肉屋だったことは間違いない。
でも……なにより、
「む? なんじゃ海斗?」
「いや、なんて言うさ」
なにより皮肉なのは、その追い詰めた存在から力を借りなければ生き残れないほど、衰退してしまった人類だろう。
「本当に、どうしてこうなったんだろうな」
――調律師。
人の身で魔を討つ者であり、そして、魔となり魔を討つ者の総称。
逃れることのできない地球というパンドラの箱で見つけた、最後の希望の光なのだ。