12 『渡る世間は鬼ばかり』
「まさかあんたの言ってたお兄さんがこんな奴だったとはねぇ」
バリッと、頬杖をつき咥えた煎餅を割る。
その死んだ魚のような目は、彼女の親友へと向けられていた。
「兄さん、どうぞ水羊羹です」
「いや、銀河さんや。とりあえずちょっとくっつき過ぎじゃないかな?」
「え? 怪我で食べれない? そうですか、それは大変です」
「うん、会話ができてないよ? 腕は普通に動くし食事ができないわけじゃ――」
「仕方ありません。そんな不憫な兄を支えるのは妹の役目」
「おい、だから話しを――」
「ということで、はい。あ~ん」
「…………をい」
「あ~~~~ん」
「…………どうしてこうな――ッうむ!?」
死んだ魚の目が出汁を抜かれて干上がった残りカスへと変わった。
「ねぇ、なんでそいつには水羊羹なんて高価なもの喰わせて、あたしが固焼き煎餅なのかしら?」
これ以上甘ったるい空気を味わってられない。
矛先を逸らす意味も込めて茜は話の話題を振った。
あらゆる食材の模造品を作るプラント技術だが万能ではない。
当然作れない物、作るのに適さないものは存在する。
その代表格がスパイスだ。
そもそもスパイスとは古代において、強烈な刺激による殺菌性こそ重要視されていた。
つまり、微生物を利用するプラント技術で作ることは不可能に近い。
そんな中例外なのが砂糖である。
特定の植物プランクトンの光合成能力を利用すれば、糖分を抽出することは不可能ではない。
とはいえ元来の方法に比べれば圧倒的に効率も費用対効果も悪いため、年間生産量はたかが知れている。
そんな中、大量の砂糖を使用する生菓子はとにかく高価なものの一つだ。
ぶっちゃけた話し、下手な宝石なんて目じゃないくらい高い。
それこそ、金持ちが一生に一度食べられれば御の字レベルの代物である。
そんなものをただの茶菓子として出すなど、頭のねじがダース単位でぶっ飛んでいる暴挙に等しい。
茜のもっともな疑問に銀河は、
「でも茜って煎餅好きですよね?」
キョトンと何がおかしいのかわからないといった風に首をかしげた。
「いやいやいや、これもうそういう次元の話しじゃないよね!?」
「なに言ってるんですか。兄さんを甘やかすのは妹の特権ですよ?」
いやお前が何を言ってるんだ、と心の底から叫びたくなる。
とはいえ、いまの浮足立ち過ぎて空でも飛んでそうなメルヘン銀河に、なにを言っても通じないのだろう。だから茜は標的を変えることにした。
「あんたもさっきからへらへらしてんじゃない!」
「八つ当たりでいちいち噛みつくなよ……」
このままではらちが明かない。海斗は腕に絡みつき銀河を押し離した。
「頼む銀河。これ以上はいろいろ危ない」
「むぅ、兄さんがそういうのでしたら」
しぶしぶ腕を離し背筋を伸ばす。ここだけ見ればいつもと変わらない銀河だった。
「ってことで、まじめな話に移っていいか?」
「……そうでしたね。私としたことが本題をすっかり忘れておりました」
「いや、そこ忘れちゃダメでしょ特災当主」
この数分間で精根尽き果てた茜のツッコミへ、海斗は咳払いをして割り込む。
「回りくどいことは抜きにして本題だ。――第二バビロンで起きたゲマトリア事件について開示しろ。とくに幻獣種関係のものとそれにかかわった人間のリスト。あとは……最近頻繁に塔外へ出入りしている奴もだ」
有無を言わせない海斗の言葉に茜は「え? ええ??」と戸惑った様子。
対して銀河は僅かに目を見開いたもののすぐに瞼を落とし閉目。
次に目を開けた時、そこには甘えん坊の銀河はすでにいない。
冷静で時に冷酷なまでの才女、特災当主神無月銀河がそこにはいた。
「何故ですか?」
「だから腹の探り合いはなしにしろと――」
「もしかすると、これからあなた(・・・)に身内の恥を離さなければならないかもしれません。根拠もない虚言に踊らされたとあっては示しがつかないでしょ?」
「あ~そーかい」
動くにしても理由が必要。
つまりはそう言うことなのだろう。
面倒ではあるが相手にも立場があるのだから仕方がない。
「バビロンに到着して以来四体のゲマトリアに遭遇している」
「四体……と言うことは鎌鼬と松明丸に遭遇したという報告は本当なのですね」
「松明丸?」
「全身が火でできた怪鳥で、天狗火の一種ですすね。ゲマトリアの最上位クラスに位置する天狗から分岐しただけにその力は強大です。元は山崩れ――天狗礫から生まれたらしいのですが、のちに天狗火から生まれたと誤って伝わり、それが広がった結果、火の鳥という見た目になった幻獣種ですね」
「へぇ、てっきり不死鳥とか朱雀とかそのへんだと思ってたぞ」
「そのクラスだと神獣の域です。あの程度の力ではすみませんよ」
「ま、焼き鳥的ビジュアルはあるあるだしな。名前が特定できただけでも良しとするか」
海斗は投げやりにそう頷くと「要するにだな……」と前置きし続けた。
「数日でこの数に遭遇する。さすがに異常だ。そんなわけで下層周辺の廃工場を拠点に、原因と考えられる防衛システムの調査をさせてもらっていたわけだが――」
「はぁ!? あんた、何勝手なことしてんのよ!?」
憤然と立ち上がった茜を銀河は片手をあげて制す。
「待って、まだ話し合いの途中でしょ?」
「で、でもこれって立派な国内干渉よ! 黙って見過ごせるわけ――」
「茜」
有無を言わせない物言いに渋々着席する茜。
ただ彼女の反応ももっともだ
塔とはすでに一つの国である。
その防衛の要といえる防衛システムをよそ者が断りもなく調べていた。
とてもではないが容認できることではない。
「言及は後程行います。わざわざ自分からそのようなことを言ったということは、今はそれどころではないのでしょう?」
「理解が早くて助かるよ」
悪びれるでもなく肩をすくめる。
その態度に茜は改めて痛感した。
やはりこの男とは馬が合わないと。
「結果から言って銃火器の設備は旧式ではある者の整備も設備も問題なかった」
「? だったら問題ないのでは?」
「だから問題あり、なんだよ。防衛システムに問題がない。じゃあどうしてゲマトリアがバビロンに入り込んだ?」
「……あ」
銀河は素の声をあげて硬直する。
「え? え?? どういうこと??」
銀河はいまだに疑問符を浮かべる茜を無視して立ち上がると、足早に部屋を後にした。
無視されていることは気に入らなかったが、あの銀河がそんなことをするはずがない。
冷静ではあったが我を忘れるほど焦っていたのだろう。
だったら大人しく銀河に任せればいい。
そう判断ししばらくすると、駆け足が聞こえ手に分厚いファイルを抱えて戻ってくる。
その数五冊。
急いで戻ってきたせいで息はわずかに切れ、白い肌が赤く上気していた。
「お、お待たせしました」
「それは?」
労いの言葉もなく尋ねた海斗に、息を整えた銀河はファイルを開けつつ答える。
「特災の任務議事録です。一冊で一年分、計五年分の記録になります」
「議事録って! ちょっと銀河!? それ部外秘の資料じゃ――」
「ごめんなさい。このことは内密にお願いします」
一拍の躊躇もなく、むしろ言葉の途中で喰い気味に言い切られた。
「はぁあ!? ちょっ! でもそれ情報流出じゃ……」
「茜も手伝って、量が量だから人手が必要なの」
そして堂々と不正の共犯要求――しかも組織のトップから――に本格的に眩暈を覚える。
さすがに止めるべきだ。
組織の一員であり親友でもある責任感から口を開きかける。
だが銀河の焦りと怒りの形相を見て言葉を飲み込む。
有無を言わせない迫力に圧倒されている間に海斗はファイルに手を付けてしまっていた。
「~~~~~ッもうほんと知らないんだから!!」
それを見て茜ももうどうにでもなれと手を伸ばす。
パラパラと一心不乱にページをめくる音が部屋に響く。
三〇分ほどで銀河の手が止まった。
「やはり……そうだったんですね」
「何か見つけたのか?」
「兄さんの言うとおりです。……ここ第二バビロンが過去幻獣種に襲われた回数は二度。その両方の指揮をまとめていた人物と、ここ最近塔外への出入りがもっともはげしい人物の名前が一致しました」
見つけた資料を開けて海斗と茜に差しだす。
そこに記されていた名前に、海斗は眉をしかめ、茜は驚愕の表情で硬直した。
※
「失礼いたします」
命を聞き確認に走った使いの男が戻ってくる声に、銀河はすぐさま招き入れる。
詳しい話は聞いていないのだろう、使いの男は終始困惑した様子で報告を耳打ちすると、すぐに身を引き部屋を後にした。
「どうだった?」
開口一番、海斗が質問する。
たいして銀河はゆっくり被りを振った。
「自室はもぬけの殻だったそうです。今日は外出の予定はないはずなので、まずありえないことですね。足取りを掴めるものも探させましたが、彼に預けた書類事態消失していたとか」
「そんな――ッ!」
聞き終えると同時に茜が鬼の形相で力の限り机を叩いた。
あまりに力を込めていたせいだろう、わミシリと不穏な音を鳴らす。
「ありえないわ!! こいつの謀略よ!!」
「落ち着いてください茜」
「落ち着けるわけがないでしょ!! こんなの……こんなのありわけないじゃない!」
「何を根拠に言い切る?」
取り乱す茜に平坦な声で海斗が問いを投げかける。
「そ、それは……あの人は塔の民のために大粛清後も身を粉にして働いてきた人よ!? どうしてその塔を自分で危険な目にあわそうとするのよ!」
「そんなもんカモフラージュと言ってしまえば説明がつく。信じる根拠にはならん」
「そんなことない! 本当にみんなを大事に思っていたもん! たしかに無愛想でわかりづらい人だけど……他の塔が食糧難に悩む中、食糧プラントに目をつけ第二バビロンを豊かにし、大粛清から立ち直れないスラムの民にまで雇用を生んで。そんな、あたしたちなんかよりずっと多くの人を救った人がそんなことするはずない!」
茜の熱弁に銀河はただ沈黙し聞き入っていた。
なぜなにも言ってくれないのか? そのことが心の不安で掻き立てる。
そして海斗に至っては「スラムに雇用、ねぇ」などとぼやきながら、醒めた目で小指を耳に突っ込む。 口元は可愛そうなものでも見るように嘲笑に歪んでいた。
「そ、そうよ! その日暮らしだった人たちに生きる糧を与えたのよ! そりゃあんたにとっては追い出した張本人で恨みもあるだろうけど、だからって――ッ!」
「それって防衛システムの運用を任せるってやつだろ?」
「え? そ、そうだけど……」
「お前さぁ、まさか人助けのためにやったとか思ってないだろうな?」
「……どういうことよ」
予想外の反論に茜は本能的に身構えた。
「その与えた仕事って最前線で戦えっていう命令だよな? そんなもんやらされてそいつらは幸せなのか?」
「……バビロンが落ちればそこに住む人は生きられない。だからみんなが一丸になる必要があるのよ。スラムで住み虐げられている人もその防衛に参加し命を賭して戦う。それこそ重要なの。幸せ不幸の話しじゃないわ!」
昔語られ感銘を受けた言葉をそのまま叩きつける。
一人がみんなのために、みんなが一人のために。
それを体現したようなその考え方が茜はとても好きだった。だが、
「命を賭して、ねぇ」
あくまで嘲笑混じりに茜の言葉を繰り返す。
その姿に茜は心底失望を隠さず睨みつける。
銀河の兄だしちょっとは期待していたのに。
言外にこの男はダメだ、何を言っても響かない寂しい人間なんだ。
嘆息し、そう切って捨てようとして、
「それはどっちだよ」
直後、その瞳の冷たさに絶句する。
「……え?」
当惑から炎の熱が冷めたように惑いに震える声が漏れた。
「だから命削ってって部分はどっちのことを言ってるんだ? 一番安全なバビロンの最上階でふんぞり返っている特災か? それともこうしている間も最前線で銃火器握りしめゲマトリアを侵入させまいとするスラムの人間か?」
「そ、それは……」
「あのさぁ、お高止まるのも大概にしろよ?」
「ッ!」
その物言いに反論したいのにできない悔しさに拳を震わせる。
その姿を確認しなお、海斗の言葉は続く。
「食糧プラントの生産はこの塔すべての住人を満たせるスペックがあった。なのにどうしてスラムなんてもんか生まれる? お前らが意図的に貧富の差を生んでるからだろうが。誰もやりたがらない塔の防衛なんて命がけの仕事をする労働者を確保するためにさ」
「そ、そんなことは――」
「ない、と? ならお前が無知だっただけだ。世の中っていうのはお前が思ってるほど清廉潔白じゃないし、力ある人間ばかりとは限らねぇんだよ」
吐き捨てる姿には、まるで自分に向けているかのような辛い響きが含まれていた。
だが、少なくともこの場でそのことに気づた物は一人しかいない。
「辛い仕事は代用のきくスラムの人間にやらせればいい。あとは、そうさな。『お前たちの背中は我々が守る! だからお前たちは前の敵だけ見ていろ』とでも言って二~三人調律師を援軍に出せば心情的にもプラスなんじゃないか? 本当は逃げ出さないか監視しているだけだとしてもさ」
「ッ! 違う! 特災が……あたしたちがやってきたことは、そんなことじゃない!」
「だろうな《黄金の戦姫》殿? そんなふうに呼ばれてんだ。さぞ戦場では華々しい存在なんだろうな。でもこれが現実だ。そーいうことを考えるゲス野郎と踊らされる汚れ役は必ずいる」
「そんなこと……」
「言っとくがこれはよそ者の俺だから見えたことだ。それを当然と受け取ってるお前らじゃ絶対に気づけてなかったと思うぞ?」
だよな? と視線を銀河へ滑らせる。
浅く唇を噛む姿からは言い訳の余地がないほど、海斗の意見を肯定していた。
気まずい沈黙が落ちる。その中海斗はおもむろに立ち上がった。
話は終わった、情報も得た。
ならここにいる意味はもうない。
引き攣る痛みに顔をしかめながら部屋を後にする背を止める声はなかった。
「――……ふぅ」
障子を閉めた瞬間気の抜けたため息が漏れる。
「流石に……言い過ぎたか?」
一人になってあらためて思い出す。
ずいぶん大人げなく少女を追い詰めてしまったものだと、神無月のやしきの全貌を眺めながら呟いた。
部屋を出た先は、冗談に思えるほど小綺麗な場所だった。
錦鯉の泳ぐ整備された池、神経質なまでに磨かれた廊下、幾何学模様の描かれた日本庭園などなど。
あまりにも綺麗すぎてむしろ無機質なイメージが先行する。
塔の中層は大粛清前の街のような綺麗だけどどこか生活感のある雰囲気だっただけに、その光景はむしろ異常ですらある。
荒廃しきったスラムと比べると、その差は天国と地獄だ。
「いや、どこも地獄か」
そう、この世は地獄だ。
塔の最上階はどこもここまで徹底していなかったにしろ小綺麗だった。
同時に人の弱さだとも海斗は思った。
せめてこの場だけでも現実を忘れてしまいたい。
あの地獄から逃れたい。その浅ましさを感じ吐き気がする。
「とはいえ、あの二人は別だったよなぁ」
そうする必要があったとはいえ、彼女たちは彼女たちなりに自分の正義を貫こうとしていた。
それだけは話して嫌というほど思い知った。
それを大人気もなく正論で武装し必要以上に叩くことが正しくはないことくらいわかる。
ならなぜあんなにもムキになったのか?
なんのことはない、要は古巣の怠慢が許せなかたのだ。
「なーに八つ当たりしてんだか……あ~クソ、どっちが子供なんだよ」
今度こそ我慢できずにうずくまる。
名前を変えて、世界を飛び回り、屋敷自体は真新しく姿を変えても、結局海斗にとっての神無月は特別な場所だったのだ。そのことを痛感する。
「ふん、自己嫌悪に苦しむくらいなら初めから気をつけい」
と、頭を掻きむしる海斗に幼い声が降ってきた。
顔をあげてまず飛びこんできたのは、紫の生地に咲くピンクのアサガオ。
数瞬して気づく。
……フリッカだ。
いつものゴシックドレスとは違う服装だったためすぐにわからなかった。
普通はきちっと着る物なのだろう。
だが強引に裾を短くして足を出しているので、花魁のような艶やかさがある。
苦しいのが嫌なのかそれとも使い方がわかっていないのか、赤い帯を前で蝶々結びにしているだけなのが妙な色香もひと塩だ。
「お前は……またなんちゅー格好を」
「いやぁせっかくだしの。この国の民族衣装をと思ったのじゃが、存外動きにくくてな。自分なりに工夫してみたのじゃが似合わんか?」
「そんな着方でも似合っちまってるから問題なんだ」
確かに着方はむちゃくちゃだ。
なのにフリッカという素材が良すぎるからか、『これはそういうものです』と強く出れば頷いてしまいそうで怖い。
「ふむふむ、褒められたと受け取っておくかの。まったく、主の言い回しは時々ひねくれおるから誤解されるのじゃ。さっきもしかりのぅ」
「……聞いてたのかよ」
「途中からな。ずいぶんあの二人を大切にするのじゃな?」
「なんのことだよ」
「しらばっくれるでない。巻き込まんためにあんな言い方をして遠ざけたのじゃろ」
フリッカの迷いのない即答には、海斗も苦笑を浮かべるしかなかった。
「奴らは相当な実力者じゃろ? 猫の手くらいにはなったものを、相変わらず面倒をしょい込むのぅ」
「……当たり前だろ。相手が相手だからな。アレは実力どうこうでどうにかなる相手じゃないだろ。良くも悪くもあいつらはこのバビロンの守りの要だ。もし死んだら誰がここを守る?」
当然、海斗が指した相手というのは幻獣種のことではない。
彼がここへ来る理由となった存在――始まりのゲマトリア。
今回の事件との関係はまだ見えない。
だが可能性が拭えない以上、彼女たちをぶつけるわけにはいかない。
「ふん、そーかい」
再び面白くなさそうに鼻を鳴らすフリッカ。
そこまでわかっていて何を怒っているのだろう?
秋の空より移り気な相方はとりあえず放置することにして、海斗はタブレットを取り出す。
もう繋ぎ慣れたダイヤルをプッシュし数秒。
『やぁやぁカイ! 音信不通だったからおっちんじゃったのかと心配したよ~』
海斗歯まったく心配していない物言いを聞き流し本題を切り出した。
「黒幕がわかった。個人情報だけで動向を洗い出せるか?」
『……ふむ、愚問だね。むしろ名前だけで十分だと言い切れるよ』
頼もしい反応に海斗ができることは、得た情報を提示する。
「――遠坂将制。特災の古老の一人だ」
先代から身を粉にして特災に尽くした賢人の名を継げた。
※
去っていく二つの足音を聞いていた二人は、沈痛な面持ちで口を閉ざしていた。
いつの間にか日は沈み、虫の音すら聞こえる静かな夜である。
二人の会話は意図せずともよく響いていた。
当然、海斗が出て行ったあとすぐ我にかえり、その背を追った二人の少女が障子ごしにその会話を聞くのは難しくない。
「で、あんたはあれ聞いてどうするの?」
すっかり毒気の抜かれた茜が障子を背に座り込む。
同じく障子を背に立ち尽くす銀河へ問いかける。
もっとも、さっきまで飼い主に捨てられた子犬のような目をしていたくせに、今はすっかり覚悟をの色を帯びているところを見ると、答えは決まっていそうなものだが。
「どうするも何もありませんよ。これ以上兄さんの手を煩わせるわけにはいきません」
「あ~やっぱりそう言うよね~」
「茜こそどうなんですか? 相手はあなたの敬愛している『叔父様』ですよ?」
「それよねぇ。正直まだ信じられないんだけど……」
「でも状況証拠だけならかなり黒に近いグレーですよ」
「なのよね」
第二バビロンを襲った幻獣種。
いくらゲマトリアをバビロン内に入れる手立てがあったとしても、幻獣種など早々出会うものではない。だが、それが過去襲撃してきた幻獣種であるのなら説明がつく。
なによりも塔外へ頻繁に出入りしていることが決定的だ。
通常であればそこまで大きな問題ではない。
塔内では手に入らない鉱物資源の確保や、水没をまのがれた地域の実地調査など。
どんなに大地を作ろうと本物の大地からの恩恵は欠かせないのだから。
だがそれが疑いのかかった人間という条件が付けば意味が変わってくる。
第二バビロン内で特災の芽から逃れることはできない。それは逆に言えば、
「塔外に出てしまえばあたしたちが察知できる圏外なわけだからね」
「盲点……と言うわけではなかったはずなのですが、ダメですね。私自身バビロンという鳥籠の中にしか目が向いていなかったようです」
「銀河だけじゃないわよ。たぶん大部分の人は外からの脅威はゲマトリアだけって思い込んでた。大粛清前から神無月に仕えていた叔父様や、塔を自由に渡り歩くあいつだから思いついたことだろうし」
不甲斐なさに嫌気がさす。
だからこれ以上醜態はさらせない。
銀河は面を上げると海斗の背を追おうと踵を返す。
「待った」
と、その肩に茜が手を置き引き留める。
「もしかしてついて来ようとしてる?」
「もちろんです。私はもう、兄さんを一人で行かせるわけにはいかないので」
「あ~それがどういう意味かはわかんないけど、ダメよ。行かせられない」
予想外の反対の声に、驚きをあらわに振り返る。
「あんたがここを離れたら誰がここを守るのよ」
「ッ! じゃあ茜が残ってください」
「落ち着けってのに。別にあたしはいいけど、当主が危険なところへ行って、部下一同は引きこもってる、なんてバカなことできるわけないでしょ?」
「それは――ッそうですが……」
もっともな意見に銀河の中で冷静な部分が足を止める。
「あたしがついていく。あんたはあたしの帰る場所を守ってて」
「……わかりました」
苦渋の決断という題材の絵があればきっとこんな表情なのだろう。
そう思わせるほど苦々しい顔をする銀河に笑いかけ、茜は親指を立てる。
「まぁ任せといて。あたしたちにだって意地があるとこ、あの男にガツンと見せつけてくるから! このままあいつに全部解決されたとあっちゃ、特災の名折れっしょ」
「本音は?」
「人のこと勝手に侮ってんじゃないわよクソ野郎」
立てていた親指を返し下に向ける。
あまりに汚い物言いに思わず噴き出した。
「わかりました、足は私が用意いたします。ご武運を」
「ええ、あんたこそ」
茜は夏の日差しのような笑みを浮かべるのだった。
そうしてその日の夜は更けていく。
青年とその相棒、そして二人の少女。それぞれの選択を月明かりだけが見守っていた。
また文章の並べ方を工夫してみましたb