11 『再会』
「クッソあんにゃろう、手加減なしで殴りやがって」
海斗はさらにボロボロになりながら、再び横になりブツブツと文句を垂れる。
だがその文句をぶつける茜の姿はいない。海斗が目覚めたことを報告しに一度退席していた。
「骨の二~三本持っていかれるかと思ったぞ」
「あれで折れておらんことにワシは驚きじゃよ」
フリッカは枕元で座り、海斗の煤だらけになった顔をおしぼりで拭きながら、苦笑いを浮かべた。もちろんすでに服は着ていたが、なんとなく目を合わせずらく、海斗はそっぽを向いて鼻を鳴らす。
「しかし軽い脳震盪とやけどですんだのは幸いじゃったな。まったく、相変わらず人間離れした打たれ強さよのう」
「バッカ、自前なわけあるか。日頃の鍛練の賜物だ」
威張るでもなく当然のように答える海斗。
そこには気戦術の鍛練を重ねてきた確かな自信と自負が滲み出ていた。
もっとも過去の海斗も、君が努力してきたから変態疑惑で落ちてきた天誅に耐えられた、などと言われても複雑この上ないだろうが。
「で、体調の方はどうじゃ?」
「言わなくてもわかるだろ。最悪だよ」
「……それは肉体的にか? それとも精神的な話か?」
奇妙な物言いに違和感を覚えてフリッカを見上げる。
ばちっと視線がぶつかり、フリッカは気まずそうに視線を逸らした。
もごもごと言葉を咀嚼し、言いにくそうに口を開く。
「その、また例の夢を見ておったじゃろ?」
「ああ、そのことか」
得心いったと頷くと、額に置かれていたおしぼりで目元を隠す。
「最近は見ることもなかったんだけどな。里帰りしたからかな」
「……まだ引きずっておるのか?」
「当然だろ。多分、一生引きずる。簡単に忘れられるものじゃないだろ」
世界が最期を迎えた日。きっと海斗も一度死んだ。命はあっても、心が死んだ。
だから、もしかすると海斗は、まだあの燃える街に居続けているのかもしれない。
「安心せい、そうはさせん」
不意にフリッカは首を垂れる。必然近づく炎を宿す瞳。その淀みの無さに動揺した間隙を突くように、部立花の両腕が海斗の頭を抱きしめた。
視界いっぱいに直視するには綺麗すぎるフリッカの顔が広がる。
「お、おい。フリッカ?」
「すべてワシが討滅する。カイトの悪夢も、後悔も、憎悪も。カイトに仇なす敵すべてを討滅する。……だから、もうあんな無茶をしないでくれ。主がいなくなったら、ワシは誰のために力を振うのじゃ」
「そう、だな。悪い、考えなしで」
「まったくじゃ、カイトは大バカ者じゃ。バカの大将軍じゃ」
「ん、んんっ!」
だから気づくのが遅れた。
いつの間にか帰ってきていた茜が、気まずげに咳払いをして立っていたことに。
「子供に口説かれて嬉しそうにする男って構図が、こんなにもシチュエーションを粉砕する破壊力があるとは思わなかったわ」
「うるさいぞ和牛。ちょうどグラついていい雰囲気なのじゃ。あとひと押しで既成事実を作れるかもしれんのじゃから、牛みたいなおっぱいぶら下げてモーモー囀るな」
「あ、あんたねぇ」
「いや待て。フリッカ、今の流れってどこから計算してやがった」
いつの間にか男の転がせ方を学んでいたフリッカに海斗は戦慄する。
「バカやってないの。フリデリカちゃんもさっさとお風呂入ってくる! 結局この三日間一度も入ってないでしょ? 心配だったのはわかるけど、いくらなんでも不潔よ?」
「む、むぅ。しかしまだ目覚めたばかりじゃし」
「あたしが見ていてあげるから」
「……三日も性欲を持て余したカイトを、和牛と一緒にしておくことが心配なのじゃが」
茜までは聞こえず、海斗には聞こえる程度のボリュームで早口に呟いた。とりあえず咳払いをして聞こえなかったことにした。
「こいつだって臭いフリデリカちゃんは嫌だと思うわよ?」
「安心せい。カイトは臭うくらいのほうが好みじゃ」
「…………やっぱりあんた生粋の変態ね」
「その発言にはさすがに遺憾の意を訴えるぞ」
それから説得することしばらく。
もともと汗や汚れが気になていたことも手伝って、フリッカはしぶしぶといった調子で部屋を出ていった。
タンと音をたててしまった襖と遠のく足音。
虫の音だけがはっきり聞き取れる一室には、海斗と茜だけが残される形となった。
「で? 露払いした理由は?」
「……その『私はなんでもわかってますよ』的な態度、すんごく鼻につくわね」
「それは悪かった。近くにそういう態度がデフォルトな奴がいるもんで移ったのかもな」
肩をすくめるとどこかから情報屋の耳障りな笑い声が聞こえてくる。
その幻聴を振り払うように、海斗は皮肉気な笑みを浮かべた。
「そういうお前こそどうなんだよ。三日前は本気で殺そうとした相手が、今なら簡単に息の根を止められるぞ?」
「あ~それなんだけどねぇ」
見た目の華やかさとは裏腹に、乱暴な手つきで後ろ髪を搔き上げた茜は、言い辛そうに明後日を向き呟いた。
「フリデリカちゃんに感謝しなさいよ。あんたが今こうしていられるのも、あの子のおかげなんだから」
「わかってるよ。ずいぶん心配かけたみたいだしな」
「それもだけど……言われたのよ。海斗を助けてくれ、ってね」
バツが悪そうな少女を前にして海斗は面食らった。
あのプライドの塊みたいなフリッカが誰かにお願いをする? しかも一度は敵対した相手に? 俄かには信じられない話である。
「あんな子供にすがりつかれたら話を聞かないわけにはいかないじゃない。幼気な子をたらし込むなんて、あんた相当な鬼畜ね。鬼畜でロリコンだわ」
「鬼畜ロリコンって、ロクでもない野郎だな……」
何が何でも人をゴミ畜生か性犯罪者に仕立て上げたいらしい茜に、これ以上弁明しても意味がないと悟った海斗は短く嘆息する。
「で、俺はお前らに監禁されたってわけか」
「棘のある言い方ね。保護と言ってほしいわ」
「人を生き埋めにしようとしてどの口が言ってんだ。……ま、たしかに監禁って感じじゃないか。訂正するよ、軟禁したわけか?」
無遠慮に部屋を見回す海斗の物言いに、茜は呆れ混じりに答える。
「疑り深いわね。安心しろって方が無理な話だろうけど我慢して。経緯はどうであれ、。一応あたし、あんたの命の恩人よ?」
「……そうだ、幻獣種はどうなった? まさかお前一人で倒したとか言わないよな?」
「さすがにそこまで自惚れてないってば。異常な気配に気づいた当主が急いで駆け付けてくれてね。ちょうど落とされたあたしと合流で来たから、何とかなったのよ。……もっとも、それでも退けるのが見解
だったけど」
「つまり、討滅まではできなかったというわけか」
海斗の声に非難の色はない。むしろよくバビロンが存命できたと感心すらしていた。それほどあの二体は強力だったのだ。
「なるほど、特災のナンバー1は相当やり手みたいだな」
「ちょっと、言葉の裏であたしをディスるのやめてくれる?」
茜はピクピク眉を痙攣させる。
憎まれ口を叩きながら、海斗は茜に気づかれないように丹田へ意識を集中させる。他人の術式でさえ初見で読むことのできる海斗である。普段であば自分の〈気〉など小指を動かすより簡単に読むことができる。だが、今はほとんど感じることができない。
(くそ、使い過ぎたか?)
幻獣種の攻撃をモロにうけた海斗だったが、膨大な〈気〉に物を言わせ反抵抗術式によりダメージの大半は防いでいた。だがそれでも無傷とはいかず、体力を削られ過ぎたため三日間寝込み生命活動すら疎かになるほど消耗してしまったらしい。
(やっぱり心もとないな)
包帯でミイラみたいになった体を見下ろし苦虫を噛む。気戦術で新陳代謝を底上げすれば動ける程度には回復できる傷でこの有様である。
事実はどうであれ特災からの印象はお世辞にも友好的とは言えないだろう。そんな敵地の真っ只中で身動きすらままならない状況。……考えただけでゾッとする。
(そういう意味ではこの女には感謝だな。先走る連中がいたとしても、後ろ盾が組織のナンバー2なら下手は打てないだろう)
ない物ねだりをしても仕方ない。多少楽観的ではあるが今は安全と割り切ることにした。
「で、本題は?」
「そう急かさないでよ。ん~そろそろ来る頃間のはずなんだけど……」
「来る?」
質問に壁掛け時計を見上げていた茜が、悪戯古層のような笑みを浮かべた。
「あんたのもう一人の命の恩人がよ」
その時、タイミングよく襖の向こうで誰かが立つ気配を感じた。不審に思った海斗は気づき様子のない茜に変わって、痛む体を鞭打ち立ち上がり襖を開ける。
「……あ?」
「え?」
驚きで黒髪の毛先を弾ませた銀河が立っていた。
躊躇と緊張が同居した表情は険しく、思いつめるように瞳が濡れ、いつもの影がある雰囲気に拍車をかけて魅力的だ。ただその服装はいつもとは少し雰囲気が違っていた。
いつもはどちらかと言えば落ち着いた紺色の着物を好む銀河だが、今は桃色を基本色に白の華をあしらう染物。肩口と帯の空色が目を引く、華やかさ全開の品物であった。
この手のものに疎い海斗でも一目で高価な逸品だとわかり、それでいてくどくない。
付け加えれば、艶やかな黒髪にあしらわれた花の髪飾りと白い肌のわびさびは、着物に見劣りすることなく調和し、じつに雅びである。
「あ、その……」
ダメ押しとばかりの恥じらう仕草に、海斗は息を飲み完全に沈黙する。
半ば呆けるように呼吸すら殺して見惚れていた。
「あ、やっと来た……ってそれ、お気に入りの一張羅じゃない。確か前に着たのって当主に任命された披露会以来じゃなかった? なに気合い入ってんのよ?」
「いえ、この程度普段着ですよ」
「いやいやいや、そのレベルを普段着とか頭湧いてるでしょ! どうしたのよあんた!」
親友の奇行に絶句とドン引きがないまぜになった視線を送る。
しかしそんな視線もどこ吹く風。銀河は落ち着きなくしきりに襟元を整え、長い黒髪を必要に手櫛しする。伏せがちに表情を隠しつつ、それでいてちゃんと見てほしいと訴えるように横髪を耳にかけた。
「あ、あの! にい……にい? 海斗……さん? あれ?」
覚悟を決め勢いよく顔をあげる。しかし、何と呼ぶかを決めていなかったのか、すぐ語尾はしぼんで消えいく。瞳は戸惑いに揺れ、口は酸欠の魚のように開閉するばかり。
ただ名前を呼ぶだけで一〇年分の重みで声が出なくなる。
「あの……えっと……うぅ、違うん、です。これは……」
意味のない言葉が漏れるうちに、銀河のそれは涙に変わっていた。
せっかくの再会で困らせたくない。そう思っていても渦巻く感情の波に翻弄されて、本人もなぜ泣いているのかわからなかった。
「おいおい……」
だが一番たまらないのは海斗である。
久しぶりに見た妹がとんでもなく綺麗に成長していただけでも戸惑いものなのに、まさかいきなり泣かれるとは思ってもいなかった。
早々に根負けした海斗は、頭を乱暴に掻き助け舟を出す。
「好きなように呼べばいいだろ。兄さんでも、海斗さんでも」
「……え?」
「先に言っとくけど、お前に『海斗さん』とか呼ばれてもむず痒いだけだからな」
「っ」
フッと、緊張に固まった表情が揺れた。
一〇年前、海斗が家を飛び出す前、まだ『神無月海斗』だったころ。
すでに才覚に目覚め始めていた銀河と凡庸な海斗は、周りからすれば一緒にすることは憚られる存在だった。
だが、そんな周りとは関係なく二人は仲が良かった。それこそ海斗が特災から出ていく際、唯一別れの言葉を残す相手に、父ではなく銀河を選んだほどに。
「で、でも……でも銀河に……銀河は……」
だからこそ、銀河は今日この日まで後悔し続けていた。
「何の言葉も、かけてあげられなかったんですよ?」
フラッシュバックするのは屋敷と外の境界線。
大きく口を開けた赤い門が巨人の喉を思わせ、子供心に怖かったのを覚えている。通るたびに「大丈夫」と手を握ってくれた兄の手の感触と熱を覚えている。その境界線を隔てて別れを口にした幼き日の海斗の姿を覚えている。
あの時、「行かないで」と呼び止めていればよかった。「銀河も行く」でもいい。最悪「行ってらっしゃい」でもよかったかもしれない。
きっと海斗は困っただろう、戸惑っただろう、笑って手を振ってくれただろう。
それでも、何かしらの言葉を残して見送れればそれでよかった。。
――でも何一つできなかった。
銀河はただ泣くことしかできなかった。
良き兄でいてくれた海斗の見せた弱さに、その背を押す勇気すらあげられなかった。
銀河はそのことをずっと後悔し続けていた。
「本当に、いいのですか?」
「ああ」
「一人ぼっちで苦しんでたのに、何もできなかったんですよ?」
「ガキだったからな」
「相談もなく、特災の当主になったんですよ?」
「オヤジが決めたことだろ」
「一緒についていく勇気も……なかったんですよ?」
「一人残して悪かったと思ってる」
銀河が顔を上げる。鼻水やらなんやらでグシャグシャな顔が飛び込んできた。
「ヒック――ッウゥ……いさ、ク――エグッ……ズウウゥゥッ!」
「もう十六だっけ? よくその年でここの連中をまとめてるよ」
「うぅーーぇえ、はぁあ……」
特災の当主になった以上、甘さは切り捨てねばならなかった。時には非常な決断を迫られた。弱いままではいけなかった。だから完璧な人間であり続けた。
そんな殻なんて一瞬で吹き飛ばし、海斗が特災を飛び出した日のように。
ついて行きたくても、子供の本能が門より外の世界を怖がり動けなかった時のように。
「強くなったな、銀河」
「うぇええん――ッ!」
皮肉やネガティブな混じり物のない口調で、海斗もいつになく優しい表情をしていた。
一〇年という時間は、まだ若い二人にとって決して短い時間ではない。
記憶との乖離、価値観の有無、何より背負ってしまったしがらみ。
もしかするとそれらが二人を再び別つかもしれない。
それでも、少なくとも。今この瞬間だけはのちの厄介ごとはすべてを忘れよう。海斗は心中そう決意する。
相変わらず綺麗な顔なのに不器用な泣き方だなぁ……と。
胸を濡らす妹の上質なシルクの髪を優しく撫で、海斗はただ彼女が溜め込んだものを受け止め続けるのだった。
――ところで、同室していた茜はというと。
黙ってことの成り行きを見守っていたわけだが、銀河が泣き出したあたりでさすがに居心地が悪くなり、されど入り口でおっぱじめはじめた二人を押しのけるわけにもいかず。
逃げ出すタイミングを失い、ついぞ部屋の隅で息をひそめ途方にくれるのであった。