『迷子はどちら?』 月猫
騒つく商店街を前に、若い青年と幼い娘はお互いの手をぎゅっと握った。
「おチビさん。しっかり手を握っているんだよ。」
青年は、幼い少女に目線を合わせる。少女は、不満そうに、桃色の頬を膨らめ、そっぽを向いた。
「もう! パパったら心配性ね!」
青年は、困った表情を浮かべ、宥めるような口調で彼女の不満を鎮める。
「あぁ、ごめんね。あまりにも人が多いものだから。」
まだ不満が残るといった表情を浮かべた娘はゆっくりと父親の顔を見た。そこにはいつもとなんら変わりない、優しく微笑む彼の姿があった。
「……どうやら、パパの方が迷子になってしまいそうなんだ。」
困ったように言った父親の姿があまりにも情けなく見えた娘は、たまらず吹き出した。その状況が分からない彼は、不思議そうに首を傾けた。
「パパったら心配性ね!」
楽しそうに笑った娘は先程と同じ言葉をかけた。しかし、それに不満の色は無く、ただ父親に悪戯をする無邪気な声だった。彼はその声にそうだねと優しく答え、小さな手を握り直した。
賑わう商店街の中で、青年は幼い我が子と楽しそうに歩いてる。
「パパ! あれは何?」
「なんだろうな? 後で寄ってみようか。」
滅多に来ない商店街に娘は辺りを見回し、気になるものを見つけては父親に聞いた。彼はそれを微笑ましそうに見て、ゆっくりと歩いていく。
「そうね! じゃあ、早くママに頼まれたおつかいを済ませなきゃね!」
きらきらと輝く紅茶色の瞳はそう言って、出掛ける前に手渡された一枚のメモ用紙を取り出した。丁寧に文字が綴られたメモは、二人が出掛ける前に娘の母親であり、青年の妻である女性から渡されたものである。
たまには二人で出掛けてみてはどうかと言って商店街への買い物を頼まれた時は、不安があったがどうやら杞憂に終わったようだ。しっかりと握られた手の温もりがそう告げている。
「早く買いに行かないとね!」
「そんなに焦らなくても、お店はすぐに閉まらないよ。」
意気込む娘の姿が可笑しく、笑いを噛み締めた。急かすように引っ張る彼女の手を、軽く揺らして落ち着かせると恥ずかしそうにはにかんだ。
「そっか、なら落ち着いて地図を見ながら歩いていきましょう。」
「うん、そうしようか。」
二人は案内板の方へと向かうべく、ゆっくりと歩いていった。
「あ、パパ! 地図あったよ。」
娘は、ぱっと手を離して案内板へと駆け寄った。
「ねぇ、パパ。……あれ?」
案内板の前で立ち止まり、後ろを振り返る。しかし、そこには父親の姿は見えず、人々が通り過ぎていく光景が広がっていた。
賑わう商店街の中で、青年は幼い我が子を探していた。
一瞬、手を離しただけで簡単にはぐれてしまった。咄嗟に出した声もこの喧騒にかき消されてしまう。
後悔に飲まれ、焦りで上手く回らない頭で辺りを見回し考える。目の前には人の壁。ここから案内板への距離はそこまでないが、この人の流れに逆らって行くのは危ない。そう考えると少し遠回りをして行くしかなかった。
もし、自分が移動している合間に娘が違う場所に迷い込んでしまったら。そんな不吉な考えを振り払い、青年は走った。そして強く願った。
どうか、無事でいてくれ。
大丈夫よパパ、心配しないで。
娘は父親を信じて案内板の下で立っていた。
「ん? どうした、お嬢ちゃん。迷子か?」
「……パパ待ってるの。」
案内板の近くにあった鮮魚店から、年老いた男が出てきた。少し強張りながらも、娘は答えた。
「そうか、お父さん待ってるのか。でも、それならもっと開けた場所の方がよかったんじゃないか?」
男の言葉に、娘は返すことができず俯く。男はそんな彼女をじっと見てから、軽く頭を撫でた。
「お父さんがあんまりにも遅いようなら、後ろのお店においで。流石にずっとここに居るのは危ないから。」
男の優しさに、娘はぎこちなく笑った。
「おじちゃん、ありがとう。」
娘の言葉に、男は皺だらけでにっこりと笑い、自分の店へと戻って行った。
男が居なくなり、また一人になってしまったという少しの不安をかき消して、娘は父親の身を案じた。
商店街に入る前、そして母親に言われて自分と出掛けることになった時の父親が浮かべたひどく心配そうな顔。母親は、彼のことを心配しすぎだとよく言っていた。そんな父親のことだ。きっと心配しているだろう。そんな父親に嬉しく思いながら、娘は小さく願った。
パパ、無理しないで。だけど早くきてください。
もうすぐ行くから、どうか無事でいてくれ。
青年は、息を切らして案内板周辺へとたどり着いた。辺りを見回す。一体あの子はどこにいるのだろう。
「お、そこのお兄さん! いいもの揃ってるけど。どうだい? 安くしとくよ。」
娘を探していると、鮮魚店の老人が声を掛けてきた。活気あるこの商店街に昔から居る顔役の一人である。
「すみません。このへんで、女の子を見かけませんでしたか?」
「女の子? ……ああ、確か案内板の下で突っ立てた子かい?」
頷くと、老人はにっこりと笑い案内板の影を指差す。そして、穏やかな口調で言った。
「随分しっかりした子だね。でも、不安で泣きそうになっていたよ。……今度は絶対に、手を離してはだめだよ。」
「はい、ありがとうございます。」
優しい声と、心配していた娘の様子に少しの安心が生まれた。老人にお礼を言ってから、娘の所へと走った。
「パパ、まだかしら?」
不安が膨らんでゆくのを忘れようと独り言を零す。
優しい男が去った後も、何度か声を掛けられることがあった。悪い人がいるわけではなかった。しかし、人混みで一人になってしまった不安から、声を掛けられる度に足元がすくむ感覚を覚えた。
「まだかなぁ……。」
鼻の奥がつんとし始め、独り言は震えた音で、視界が滲んできた。
パパ、名前を呼んで。そしたらすぐに迎えに行くよ。
「……菖蒲っ!」
聞きなれた声に振り向くと、肩で息をした情けない顔の青年が見えた。
「パパっ!」
募った不安を飛ばすように父親へ向かって走り、力一杯抱きつく。
「パパったら本当に迷子になっちゃうなんて、ダメね!」
震えた声に青年は頷き、優しく背中をさすった。
「ああ、ごめんね菖蒲。今度はしっかり君の手を握っているよ。」
父親の心底安心した声におかしくなって、娘はころころと笑った。
「さあ、ママから頼まれたおつかいを終わらせなくてはね。」
娘を離し、青年は落ち着いた口調で言った。彼女は頷いて、ぎゅっと父親の手を握り、青年は娘の手を優しく握り返した。
騒つく商店街を後にして、若い青年と幼い娘はお互いの手をぎゅっと握った。
二人は夕日に照らされ、幸せそうに笑い合った。