【8】
湧き水を一口飲んでから、気分が変わるんじゃないかと思って顔を洗ってみた。まぁ、少しはすっきりしたものの基本的には変わりがなかった。
「はぁ……」思わずため息が漏れる。
この名状しがたい気分の原因がよくわからなかった。椎花にさっき云われたことが何だか引っかかる。いまいち上手く飲み込めないが、あそこまで怒るようなことだったのか? いや、そもそもあれは怒っていたのか? どうにも気が晴れない。――こういう時は神様に相談してみるのも一助かな。
大岩の方へと向かうと、このあいだ敬遠した大岩の由来が書かれた看板が見えてきた。今回は願い事をする前に、まず、願い事を叶えてくれる類の神様なのかを確かめてみることにした。
つまり、看板に書かれた由来を読んでみた。
どうやらこの大岩は『蛇戸の大岩』というらしい。そういえばそんな名前だった気もする。その昔、この辺りの集落で大規模な飢饉と疫病が流行り、人々は救いを求めて神に祈ったそうだ。すると、どこからともなく白い大蛇が現れて、すべての災厄をぺろっと一飲みにした。唖然とする人々を尻目に大蛇はおもむろに近くにあった洞穴へするっと入っていき、自ら大岩で入り口を塞ぐと二度とそこから出て来なかったという。そして、大蛇のおかげで災厄が取り除かれた集落には再び平和が訪れましたとさ。ちゃんちゃん。なんとも献身的な蛇もいたものだ。まぁ、その後、人々がこの大蛇を敬い、大岩を霊験あらたかなものとして崇めるようになった云々かんぬん――。
そんな内容の看板を見ながらふむふむ一人頷いていると、唐突に後ろから声をかけられた。
「あの……これ、落としましたよ」
消え入りそうな弱々しい声だったが、こちらがびくっと飛び上がるには必要十分だった。俺が不自然なまでに機敏な動きで振り返ると、そこには以前ここで見かけた(只者じゃない)制服女子中学生が相変わらずの完璧さで佇んでいた。おずおずと差し出された彼女の右手には見覚えのある伝票帳が握られている。
「あ、それ俺んだわ、どこで落としたんだろ。ありがとう」
自分の腰回りを両手で確認するように弄ったあと、彼女から伝票帳を受け取った。
「――そこの社に落ちてました」
彼女は眼を合わせずに視線を俺の胸あたりに漂わせながらそう教えてくれた。
今日も制服の着こなしはバッチリきまっている。しかし、そんな姿に似合わず、彼女はなぜだか所在なさげにもじもじとしていた。この子は見た目と違って意外と内気なのかもしれないな、そう思っていると、意を決したように彼女が口を開いた。
「か、紙屋さんとお知り合いですか?」
「えっ? 紙屋さん?」
「す、すみません、紙屋さんのお屋敷に出入りするところを何度か見かけたので……」
なにやら胸の前で両手の指を付き合わせてぐにぐにさせている。
「配達先だから知り合いといえば知り合いだけど……ね」
話しの行き先が見えず、後ろめたいわけでもないのになんだか歯切れが悪くなってしまった。
「ミコさんはいらっしゃるんでしょうか?」
ん? 『ミコ』って誰だ? あの家には三人しかいないはずだけどな。猫でも飼っていたっけ? などと逡巡していると、その意味するところがイントネーションから『巫女』であることに気が付いた。
「巫女さんって神社にいるやつ?」
彼女は細かく何度も首を縦に振って肯定の意を示してくる。そんな動作は少しあどけない感じがしてなんとも可愛らしい。
「いや、あの家には巫女さんなんていないよ。いるのはすこぶる感じの悪い姉と、感じの良いかわいい妹で構成された二人の姉妹、それとお付きの人が一人の計三人だけだよ」
「紙屋さんの娘さんなら巫女さんです」
なにやらさんさん云ってる。って、はっ?
彼女はこちらが眼をぱちくりさせていることに気が付くと、慌てて補足を付け加えてきた。
「ウチのおばあちゃんが云っていたんです。紙屋さんには『蛇戸の巫女』がいて願いをきいてくれる、と」
そんな話し初めて聞いた。少なくともウチのばあちゃんは云ってなかったな。
「最近、お屋敷に人が戻って来たみたいなので、巫女さんもいるんじゃないかと……」
どんどん声が小さくなっていく。このままいくと沈黙がやってきそうなので慌てて続きを拾う。
「いや、ごめん。それは初めて聞いたな。次、行った時に家の人に訊いてみようか?」
姉じゃなくて妹の方に訊こう。これまでの経験から俺は学んだのだ。精神攻撃に嗜虐的な楽しみを見出しているのはどっちなのかということを……あのSっ娘め。
「すみません、ありがとうございます」
彼女はすかさず頭を下げた。
「巫女さんがいるなら頼みたいことでもあるの?」
どちらからともなく歩き始める。
「……はい」
停めてあった自転車を押し歩きながら、頼みごとの内容は訊かない方がよいのだろうなと考えた。
会話が途切れてしまい無言のまま入り口へと歩いて行く。何か云った方がいいのだろうけど、何を話せばいいのやら……。会話の糸口を求めて頭をフル回転させていると、入り口に面した通りをタイミングよく歩いている人物が目に入った。
「さっきの話し、いま訊けるよ」
「はい?」
通りを歩く人物の名前を、俺は大きな声で呼んだ。