【7】
今日は湿気が少なく感じられ幾分過ごしやすい。
ここ数日で脚力が鍛えられたこともあり、例の坂を登ることは罰ゲームではなくなりつつあった。いいことだ。人生に苦痛は少ないほうがいいに決まっている。
ここのテラスにもすっかり通い慣れてしまった。鼻歌交じりに館の裏手へ廻ると、そこで珍しいものを見た。
無造作にアップにした長い黒髪、明るいピンクのキャミソールにパステルイエローのショートパンツ。なんともラフな格好の椎花だった。
七座姉妹は良家っぽいというかお上品というか、くだけ過ぎない格好をいつもしていたので、椎花の露出度高めの衝撃的姿に落ち着かなく胸が波立った。
椎花はテラスにある白いテーブルセットの椅子に座り、露わになった白い太ももから続く形の良い脚をぶらぶらさせていた。かと思うと、勢い良く脚を折りたたみ椅子の上で胡座をかいた。
その間、両手で広げた文庫本からは一度も視線を外さなかった。
「今日は随分ラフな格好してんだな」
側まで来ると、手元に視線を落として頭を傾けている椎花の白いうなじが眼に入った。少し跳ねた後れ毛が柔らかく影を落とし、耳の裏側から肩へと続くラインは、すばらしいまでに白く滑らかだった。その白さを目に焼き付けながら、クーラーボックスに入れてあったソフトクリームアイスを取り出して渡す。硬いのにソフトを名乗る不届きなやつだ。
「あぁ、今日は客の予定がないからな」
文庫本から目を離さずに受け取る。
今日のソフトクリームアイスはクリーム部分を覆う透明なケースがカップに付いたタイプだ。食べるためには文庫本を置いて両手でケースを外さなければならない。
どうするのか観察していると、やつは文庫本を読みながらそのまま齧りいついた。
バキっというソフトクリームにあるまじき怪音が響く。
「――どうにも気の利かないやつだ。外して渡すくらいのこともできないのか?」
やれやれといった感じで首を傾げながら、アイスを突き出してケースを外すよう促してきた。
「はいはい……。ところで、お客ってそんなに毎日来てるのか?」
ケースを外しながら訊く。
「けっこう来るぞ。市議会議員やら商工会の面々だとか……ご機嫌伺い。いや、様子見か」
なんだか軽蔑の色が混じった声音だ。
当主がいなければその名代ということだろうか。長期不在も紙屋さんの存在感を失わせるには至っていないようだ。療養中なのにな……。
「意外と大変なんだな」
意図せず素直な感想が漏れた。
すると失笑混じりに憎々しい答えが返ってきた。
「ニートのおまえに同情されるとは世も末だ」
いや、ニートじゃない。『プチ』だって云ってるだろ。
椎花と俺による恒例の挨拶が一段落したのでそろそろ現れてもいい頃合い。なのだが……一人そわそわしていると、
「つばきならお小夜と出かけているぞ」
期待を打ち砕く無慈悲な一撃が浴びせられた。
仕方ない、気は進まないがソフトクリームのコーンを豪快に口に放り込んでいるこいつに頼むか。
「あのさ、水もらえる?」
今日はまだ過ごしやすいとはいえ、あの坂を登ってくれば喉も渇く。
「あぁ、ミニキッチンにでも行って勝手に飲め」
「いや、さすがに勝手にはマズいだろ」
「なぜだ?」
「人の家で勝手に振る舞うのは厚かましいだろ」
「なぜだ?」
いやに絡んでくるな。
「一般常識に照らし合わせると模範的とは云い難い行動だ。それに……。ううん、他者の目を気にしない厚かましさは、人を不快にさせるんじゃないか?」
俺は少しイラっとしてしまったことを誤魔化そうと空中に視線を逸らしながら答えた。
「他人など不快にさせておけばいい。それとも、基準の曖昧な一般常識とやらを遵守し、他人の不快感に配慮をするとおまえの問題は解決されるのか?」
「うん?」
「この場合でいえば、遠慮や躊躇をした結果、おまえの喉の渇きは癒されるのか? と訊いている」
「……癒されないだろうね」
まぁ、それはそうだ。
「この家の人間であるあたしが許可をしているのに、おまえはできないと云う。ではどうしたら水が飲めるのか? 私が水を持ってくる。もしくはあたしが一緒にキッチンへ行ってそこで水を出す……」
少し間が空く。「もしあたしがどちらの行動も取らなかったら?」
俺が答える。
「水を飲むことはできないな」
すると椎花は文庫本を乱暴にテーブルへ置き、真っ直ぐに俺と眼を合わせてきた。
「他人に配慮してやったという驕りは、やがて物事の責任を他人に求める理由に変わる。例えば……あたしのせいで水を飲めなかった、と」
ここで語気が強まる。「しかし実際は違う。おまえは自分で水を飲めないようにしたんだ」
そう一気にまくし立てると椎花は勢いよく立ち上がり、部屋の中へ入っていった。
突然の事で面食らってしまったが、俺は一人取り残されると今の椎花の言葉を頭の中でこねくり回してみた。
五、六回ぐにぐにやってみたところで、椎花が水で満たされたグラスを片手に戻ってきた。そのまま無言でグラスを突きつけてくる。
「ありがとう」
受け取ったグラスの水を一息に飲み干すが、どうしたわけか渇きは増すばかりだった。椎花はまた座って文庫本を読み出すと、それっきり視線を一度も上げなかった。
俺は空いたグラスを手の中で弄ぶ。
「ごちそうさま」
これ以上の続きはないようなので、グラスをテーブルに置き、無言のテラスを後にした。
門を出てもなんとなく自転車で疾走する気にはなれず、俯きながら押して歩くと、すぐに鎮守の杜の入り口に差しかかった。
そこでさっき癒されなかった喉の渇きを思い出し、湧き水の方へ歩みを進めた。