【22】
下田茜が帰って行っても、俺は七座邸からなんとなく去りがたい想いに囚われてグズグズやっていた。
横目でちらっと盗み見ると、椎花は背もたれに身体を預けたまま、どこかぼんやりとした表情で虚空の一点を見つめていた。そのままそっと視線を逸らすと、こっちを見ていたつばき嬢の視線とかち合った。すると彼女は頬を少しだけ緩めて小さく笑って見せた。
その一瞬、親密な何かを共有できたような、そんな気がして――
――視界の端で音もなく椎花がゆっくり崩れ落ちていった。
そのまま芝生の上へ丸くなるように倒れこむと、椎花はわずかに呻き声を漏らした。
「椎花!」「お姉ちゃん!」
跳ねるように椎花の側へ行くと、膝の上に彼女を仰向けにして首筋を右手で支えた。息も絶え絶えといった様子で意識も虚ろな椎花の身体は、先日よりも更に暴力的な熱を帯びて震えていた。
「発作が連続して起こるなんて……」
つばき嬢はすっかり色を失った顔をして呆然と立ちすくんでいる。
「つばきさん、病院へ連絡して!」
「……あ、はい!」
足を縺れさせながら、つばき嬢は慌てて室内へ駆けて行った。
「おい、しっかりしろ! いま病院に連絡してるからな!」
ぐったりとした椎花は、艶を失った唇の隙間から何かが抜けていくような音をさせて、浅く呼吸をしていた。
このまま彼女の命が尽きるようなことがあったら、俺はどうすればいいのだろうか。何を思えばいいのだろうか。いや、いま何を思うのだろうか。
自分の両腕の中にしっかりと実体を持って存在するこの少女がいなくなった世界。
そこがいまよりも幸福な世界であるとはとても思えない。
――少なくとも俺にとっては。
たぶん……そう、たぶん。彼女を失うことに恐怖を感じている。
なぜか――。
身近に死が存在してこなかったからなのか。彼女だからなのか。その両方なのか……わからない。ひどく混乱している……。
「……っんはぁ、あ、あたしは……もうダメなのか? もう……もたないのか? っん」
朦朧とした意識の中で椎花が小さく口を開いた。
「……生きていたかった。なんであたしなんだろう、な……。…りゅ、龍之介か……あたしは、まだ何もしてない……このまま死んだら……何のために生まれてきたん……だろうな……っはぁ、あたしの生きてきた……意味ってなんなんだろうな……ま、まわりと……自分を、苦しめた……んっは、だけ……なんて……」
声を震わせて唇を戦慄かせながら椎花は目蓋を薄く開ける。焦点の合わない瞳からは涙が伝い零れる。
そんな椎花の様子が、声が、言葉が、胸の真ん中を一瞬で押し潰そうとする。言葉が喉に張り付いて、それ以上先に出てきてくれない。
「っはぁ……龍之介……死にたくない……まだ死にたくないよ……なんでなんだよ……」
椎花が弱々しく片手を俺に差し伸べてくる。その手は血脈が透けるほどに白く透きとおり、何をも掴むことができなかったと打ち震えている。
この前の椎花は自分の宿命を乗り越えて超然としていた。そう見えたし、本人もそう見せていた。でも、それは本物ではなかった。当然だ。強くあろうと願っても、人はそんなに強くできていない。
誰にも縋らずに己の足だけで立って生きていく。
美しいのかもしれない。それは素晴らしいことで、自立した理想的な人間のあるべき姿なのかもしれない。
だから、慣れ合いながら、互いの傷を舐め合って生きることは唾棄されるべきこと、恥ずべきことなのかもしれない。
でも人は本当に弱くて脆いのだ。
相手の傷を舐めながら、相手の傷の深さと痛みを確認して安堵するのだ。自分と同じだと、もしくは、自分より酷いと。
相手の悲しみに、痛みに心掻きむしられ共感しながらも、心のどこかで安心するのだ。それならば自分も生きていけると。人は互いに寄りかかって、相手に自分を映しださなければ、自分の姿すら知ることができないのだ。
椎花の漏らす悲しみと絶望は、そのまま俺の胸にも悲しみと絶望をもたらす。どんどん流れ込んできて窒息寸前まで水位は上がっていく。
しかし同時に、椎花が悲しみも絶望も本当は克服出来ていなかったということに、俺は心底安堵を覚える。自分と同じだと。
そこで初めて彼女の悲しみと絶望を心から悼むことができる。そして自分自身をやっと認識できる。
俺は本当に最低だ。
本当に最低だと自覚ができるからこそ、罪悪感の中、贖罪を求めて真摯に向き合うことができる――
――この考えも最低だ。
でも、この境地からは上辺の言葉なんて吐き出せやしない。血肉と心を削った呪詛にも似た己をも呪うかもしれない、そんな想いを、言葉を、伝えざるを得なくなる。
「……椎花、大丈夫だ。死んだりなんかしない。簡単に諦めんなよ。しがみつけよ。それとな……こんなこと云ったらおまえは怒るかもしれないけどな、人が生きることに意味なんかないんだ。人はどんなものかもわからない、無いものを求めて、みんな苦しんでいるんだ。自分の生に意味がないだなんて思いたくないもんな。俺だってそうだ。でもな、意味なんてないんだよ。あるのはな、自分がどう納得するかだけなんだ。それだけなんだ。意味なんか求めてても、死ぬまで見つからねぇよ」
差し伸べられた椎花の手を強く握りしめる。
「っはぁ……あ、あたしは……まだ、納得なんて……っしてない……」
赤みがかった頬にボロボロと涙を流しながら、椎花は呻くようにそう吐き出した。
「――だったらさ、生きろよ」
気が付くと、いつからいたのか、つばき嬢が側に立ち尽くしていた。彼女の顔を見上げると、頬を伝う涙もそのままに、眼を真っ赤にさせて小さくしゃくりあげていた。
「――お姉ちゃんのこと……ぜんぜんわかってなかった……私」
独り言のように小さく呟かれたその言葉を、俺は聞こえなかったふりをした。
「先生はすぐに来てくれるそうです……」
つばき嬢は幾分声を張ると、俺に向かってそう云った。




