【20】
結局、昨日は七座邸に行くことはなかった。純太と別れた後、そのまま自宅に戻ってきた頃にはすっかり暗くなっていた。
今朝も注文は入っていない。定期の配達もないので、このままだと七座邸に出向く理由は今日もなさそうだった。
しかし、何となく気まずいまま時間を浪費することは誰にとっても良いことだとは思えず、とりあえずクーラーボックスに何種類かアイスを詰め込むと俺は七座邸に向かった。
いつもと違って敷地内に入っていくことは多少の勇気を必要とした。テラスの方へ廻りこんでいくと、緊張で胸の奥が一瞬だけ締め付けられる。その角を曲がればテラスの様子が視界に入ってくるはずだ。
いつもの籐椅子にはグレーのシンプルなコットンワンピースを着た椎花の姿があった。珍しく本を読んでおらず、俺が椎花の姿を捉えると同時に彼女もこちらへ視線を向けてきた。
「注文――忘れたんじゃないかと思ってさ」
俺はクーラーボックスを軽く叩いてみせた。
「押し売りもやってるのか、おまえ」
そんな憎まれ口を叩く椎花の顔は血色のよい薄い桜色で、体調の回復が伺えた。
「お嬢ちゃんは何アイスがお好きかな?」
好々爺のような声音を作ってわざとらしくそう云うと、俺はクーラーボックスの蓋を開けて中身を椎花に見せた。
「つばきさんはどうしてる?」
結局いつものソーダアイスを噛じっている椎花に訊いてみる。
「いるぞ。厨房でなんかしてたから菓子でも作ってるんだろ。本人が云うには、考え事をするのにちょうどいいらしい」
噂をすればなんとやらとはよく云ったもので、話している最中につばき嬢が小皿を手にテラスへと出てきた。
「あぁ、こんにちは龍之介さん。ちょうどよかった、フィナンシェを作ったので味見していってください」
そう云ってつばき嬢が差し出してきた小皿からは、フレッシュバターの芳醇な香りとアーモンドの香ばしさが漂ってくる。焼きあがったばかりのようで、まだ湯気が立ち上るほど熱々の状態だ。つばき嬢の手作りお菓子か……素晴らしいではないか。
「ホントは少し時間をおいた方が、もっちりして美味しいんですけどね」
へーっと云いながら手にとったフィナンシェを半分頬張ると、甘く豊かな風味がじわっと口中に広がって鼻腔を擽っていく。
「ぼうぃしいですよ」
口をモゴモゴさせながら賛辞をおくると、俺は残りのフィナンシェをパクついた。
「っ!?」
突然、右頬の内側に激痛が走った。喋りながら食べたせいで頬の内側を自分で噛んでしまった。あまりの痛さに掌で頬を反射的におさえる。
「がっつくからそうなるんだ。まぁ、女子の手作り菓子なんぞ口にする機会はなさそうだからな、おまえ――仕方ないか」
椎花が哀れみに満ちた眼を俺に向けながら、味見の終わった指先をチュっと舐めている。
「大丈夫ですか!? そんなに美味しかったんですか!?」
つばき嬢が瞳を輝かせてものすごい勢いで尋ねてくる。
いや、つばきさん。美味しいですよ、手作りお菓子。でも美味しいからほっぺた噛んだわけじゃないんです……。
「じゃあ、もっと食べますか? 龍之介さん」
ずいっと小皿が眼前に突き出されてきた。
いや、だからつばきさん……? そんな真剣に詰め寄られてもね……。
横では椎花がひいひい云いながら腹をおさえて笑っている。
いつもの日常が戻ってきた感触があった。同時に、これを『いつもの日常』と感じている自分を俺は発見した。いつの間に『俺』にとっての日常になったのだろう。数日前にはこんなこと想像もしていなかったはずなのに。
笑いすぎて涙目になっている椎花を見て、何と呼ぶべきかわからない感情が一瞬湧き起こってきた。が、それはすぐに滲んで消えていった。はっきり知覚する間もなかった。
「昨日、亜美が云ってたんだけど――」
次の瞬間には別の思考が上書きを始め、俺は亜美から聞いた下田茜の様子を二人に説明しなくては、という思いに駆られた。
――ひと通りの話しが終わると、黙って聞いていた椎花が呟くように云った。
「水槽から出ても窒息なんてしない。――でも、そんなこと知らないからな……」




