第3話 ハアト 上
天候結界によって雨が降り、路上や建物の汚れは取り除かれ都に点在する下水に通じる柵に流れ落ちる。雨は恵みだけでなく浄化をもこなす。その最たる例は、今は彼女に味方をしていた。雨の降りしきる中を歩く人はいない。普段は人通りの激しいメインストリートも、雨音以外を鳴らさない静寂たる空間となっていた。
だが、何事にも例外はつきものだ。
バシャリと水溜りをはねる音が聞こえる。同時に怒鳴り声も。
「あの傷ではそう遠くへは行っていない筈だ。探せ!」
雨によって霧の都となった街中をかけずり回る村人たちの姿が見える。裏路地の荷物に隠れていた少女はそっと息を吐く。
「諦めてはくれないのね・・・・」
過ぎ通る喧噪を流し目に、少女は腰を上げる。と、チクリと刺すような痛みに少女は眉を顰める。自分の足を確認すると都の溜まったゴミの数々が針となって少女に突き刺さっていた。立ち止まる余裕すらなく、構わず進んでいたら足の中にまで入ってしまっている。これでは取り出すこともままならない。
焼け付くような痛みは足と背中、対照的に身体は酷く冷たく感じる。これは決して雨に当たっただけというわけではなさそうだ。
今度こそと足に力を入れ立ち上がろうとする。しかし――
「あれ?」
水音を立てて腰から座り込んでしまう。
「嘘・・・足に、身体に力が入らない・・・・」
身体を支える事もままならず横に倒れる。
雨音がやけに遠くから感じる気がする。
身体が重い。呼吸が苦しい。もう一歩も歩ける気がしない。瞼が次第に閉じて行くのを何処か他人事のように感じる。雨音の子守歌が声高に主張する。
溜まった水が徐々に自分を包んでいく。
「(まさに死に浸かるって感じ・・・・ああ。私死んじゃうのか・・・・それだけは――)」
「いや・・・だ」
指は動く。手も何とか。なら這ってでも、と両手に力を込めようとしたその時、近くから雨の跳ねる音を少女の耳が捉えた。
「(ああ・・・ダメか・・・・)」
徐々に近づいてくる気配に、いよいよ終わりの時が近づいたのを少女は感じた。横たわる少女に、もはや身体の向きを変えるだけの力は残っていない。唯終わりの時が背中に迫るのを感じ取ることしかできない。少女は瞼を閉じた。
「(ああ・・・一度でいいから外の世界に出て、もし・・・世界を統べる者がいるなら頼んでみたい。私を助けてって。私の半生が生まれた時から決まっていたなら、それを変えることができるのはそんな絵本通りの絵空事ぐらい・・・。それか、もうちょっとまともな世界に生まれたかったな)」
打ち付ける雨が激しさを増す。それでも死に神の歩み寄る音ははっきりと聞こえた。少女のすぐ横で膝をついた死に神は少女に語り掛けた。
「大丈夫か?」
「――!?」
耳に体に順に駆け巡り、浸透した言葉は、されど意味を理解するに足りなかった。
少女の背が暖かくなると同時に身体が持ち上がる。そのお蔭でようやく少女の身体が正面を向く。
暗がりかまたは少女の視力の問題か、目の前の者をまともに見ることも叶わなかった。男か女かもわからない。いや、それ以上に――。
「傷だらけじゃないか。待ってろ、今治してやるから」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
その者の語る言葉がつぶさに捉えらなかった。少女が生まれて初めて掛けられる言葉に困惑している間に、その者は少女の胸の上に手を翳した。
瞬間、その者の手から緑色の光が迸る。
光を受け、少女の身体が安らぎを覚える一方、心は疑惑に彩られていく。
「(なに、身体が暖かい。さっきまであんなに寒かったのに。胸がポカポカする。なんなのこれは?)」
緑色の閃光が鳴りを潜める頃合いには、少女の容体はすっかり回復していた。
「身体はもう大丈夫みたいだな。何があった?」
「(ああ!なに!?何!?なんなのあなたは!私は・・・私をどうするつもり!分からない。私はどうすればいいの!?)」
少女はあまりにも、世界を知らな過ぎた。世界の片隅には、手を差し伸べる者もいるということを。――この時は。
少女を支える手から、注がれる言葉から感じる温もりを少女は、とっさに拒絶した。
「いやぁッ!」
「どうし――ッ」
少女の回復した手は、ナイフを握っていた。ナイフを行く末は、その者の心臓へと向かい――
「ひっ!」
少女は閉じていた目を開き、己の起こした結末に悲鳴を上げた。
少女の手に掛かる自分の物でない血。自分とは違い生暖かくて、手を覆う感触に意識がその先へと先導する。
ナイフはその者の心臓の前に翳した手を貫通していた。
「あ・・・・ああああ」
恐ろしくなり、手を引き抜こうとする――その手を、貫通したナイフ越しに大きな手が覆った。血は容赦なく少女の手を流れ落ち、少女の成した行いをまざまざと見せつける。
「―――!!」
声にならない悲鳴を上げ、気持ちが溢れだした少女は、意識なく一つの言葉を吐き出した。
「た・・・たす・・・けて・・・」
それは、少女が決して口にはしないと己に課していた言葉であった。助けを求めて拒絶されると幼いながらに知ってしまった弊害を、何故この瞬間に。
思考は暗闇と取って代わり、少女の視界は闇に覆われた。
小さな体の全てが自分に伸し掛かるのを感じ、承知で受け止めた者は嘆息した。
「いや、助けてほしいのはこっちなんだけどね」
ソーンより賜った一張羅に血が飛ばないように少女を抱え直し、少年――ハアトは頭を掻いた。