安楽イス
「ワシはもうダメかもしれん……」
老齢の男は弱々しく呟いた。
男は自宅らしきリビングで、その巨体を横たえていた。男が口を開いたのに合わせて、その全身についた脂肪が揺れる。
どうやら巨漢過ぎて、体を動かすのも一苦労のようだ。横になっているというのに、何処かその言葉通り男の様子は苦しげだった。
だが男が横たえているのはベッドの上ではない。一見しただけでは、床の上に直に寝転がっているように見える。
「何を言ってるんですか、あなた?」
同じく老齢の女が応えた。女も巨体だ。やはり脂肪の固まりのような体をしていた。
そしてこちらもやはり床の上に直接寝転がっているように見える。
いや、よく見ると二人とも僅かばかり腰が曲げられていた。辛うじてその様子から、何かのイスに腰かけているのだと分かる。
だが二人は脂肪が時折波打つ以外は、ぴくりとも動かない。
「こんないいイスを手に入れて、何を弱気になってらっしゃるですか?」
「いいイスのなのは分かる。随分とずぼらをさせてもらえた」
「そうですよ。こんな安楽なイスに座って、何を弱気になってるですか?」
「確かにこのイスに座っていれば、何でも楽にできる。角度も、硬さも、自由自在。マッサージもしてくれれば、宙に浮いて何処にでも連れていってくれる」
「スイッチを押せば、料理も掃除も指示できますわよ」
「ああ、そうだ。空調も、情報端末も、電話も、このイスに座ったまま、何でも指示が出せる」
「でしょ。ほら、ドラマだってこの通り」
女はそう言うと、少しだけ身を捩った。どうやら背中のイスを見ようとしたようだが、己の巨体に隠れてイスは見えなかったようだ。
だが女が背中に手を回すと、リビングの中空に映像が表示された。映像装置がイスと連動しているようだ。
「しかし、ワシはもうダメかもしれん……」
「どうしたんですか? さっきから?」
「このイスの健康診断機能。使ってみたんだが、そこにいつもは表示されない余命の項目が……そうだ。もうワシは余命幾ばくもないらしい……」
「まあ、あなた……せっかくこんな安楽な生活を、手に入れたばかりなのに……」
「それがお前。このイスが原因だと思うんだ。座ったままで何でもできるから、心臓が耐えられる以上の脂肪をこの身に蓄えてしまったのだろう」
男がそう口にすると、脂肪が細かく波打った。
「そんな……」
女の脂肪もフルフルと震える。
巨体を二つ並べて、二人はしばし脂肪を震わせた。
「実際お前も俺も、イスに座っているというのに、横から見てもまったくそのイスが見えない。自分で起き上がるのも億劫な程、ワシらは脂肪に埋もれてしまっている」
「確かに。それはそうですけど」
「だからワシは決心した。お前には悪いと思っている。だがこのイスの最後の機能を使えば――」
「あなた! それはダメですわ! いくら、余命幾ばくもないからって、そのボタンを押したら」
「分かっている。だが苦しまずに、安楽に最後を迎えたいのだ。分かってくれ……」
「あなた……」
「済まない……」
男が首を廻らす。女も首を傾けてお互いの顔を見た。
やはり立ち上がるのは億劫なのか、二人ともしばしその姿勢で見つめあった。
「分かりましたわ。今までありがとう、あなた」
「ワシの方こそな。では、さようなら……」
「さようなら……」
「……」
男が背中に手を回した。外からはまったく見えないイスのスイッチを探して、男の手が己の背中をまさぐる。
「……」
「……」
「……どうしました、あなた?」
「手が、手が届かない」
男が脂肪をフルフルと震わせながら、必死で己の背中に手をやっていた。
「はい?」
「よっ、はっ、おっと、それ!」
「あなた……」
「もうちょい。そこだ。惜しい。まだまだ!」
「あなたってば……」
「ふぅ。ちょっと動いただけで、汗が出るな。やっぱり太り過ぎか。安楽なイスに座っているのは、これだから考えものだな。だが、もう少し。それ」
「あのね、あなた……」
「ふぅ、ふう。はぁはぁ。ぜぇ、ぜぇ。息が切れる。久しぶりだ。よっ、はっ、おっと、それ。届いた!」
「あなた!」
「さようなら、お前」
「あなた……」
「あれ、間違えたぞ。これは健康診断機能のスイッチ」
「はい?」
男の言う通りだったのか、リビングの中空に診断結果らしき情報が表示される。
「む、余命の項目が消えてるぞ。前回よりの診断よりも、痩せましたね。この調子で運動を頑張りましょう――だとよ」