1.テントウサマ
※虫にまつわる割とショッキングな夢の話となっていますので、虫が苦手、またはお食事前の方は引き返してください。
私は小さい頃から夢の内容をよく記憶できた。
夢日記などは付けていなかったので、これが夢について書き記す最初の行いと言えるだろう。
時は遡ること十数年前、小学2年生だった私は実に歪だった。
家庭こそ、父が月1回程度帰ってくるかどうかと言う所さえ除けばごく普通のものだっただろう。
しかしそんな中で私は週5日を様々な習い事に潰し、学校では粗暴な性格で暴れ回る問題児になっており、虫の採取や観察を趣味としていた。
今にしても思うが、小学生時代の私はモンスターのそれだった。
常に行き場のない訳の分からん怒りを抱えたまま何でもない生活を送っていたのだけは記憶している。
……だからだろうか、あんな “罰” としか思えない夢を見たのは。
夢の始まり方は至って平凡なものだった。
……いや、これは少し正確ではない。
“平凡な日常” の始まりのような夢の始まり方だった。
私は6時半ちょい過ぎくらいに母に起こされ、眠そうにしながら布団から這い出た。
進◯ゼミの付録か何かで貰った赤いランドセルの擬人化キャラの時計は6時のアラームの役割をとうに終えており、既に黙り込んでいる。
(あれ……今日は夢無しか?)
私は子供の頃、寝入るまでに時間がかかってしまう為
睡眠という行為そのものを苦手としていた。
10時に布団に入って2時に寝息を立て始めるなんて言うのは日常茶飯事だった。
なので、この時点では珍しい事もあるな……くらいの認識だったと記憶している。
顔を簡単に洗って、リビングに向かい、目の前に出されている朝食に手を伸ばした。
「いただきます」
朝食は当時まだ生きていたおばあちゃんが作ってくれたものだったが
無礼な生き物だった私は特に普通のものとして箸を手に取った。
目玉焼き、焼いたベーコン、味噌汁、ご飯、………………?
ふと、朝食と共に並ぶ見覚えの無いものに目が留まる。
緑色で透き通った奇妙な肉みたいなものが小さな白い皿の上にぽてりと置かれていた。
(なんだこれ?)
「おい」
私は特に怒る調子でもなく当たり前のようにおばあちゃんをそう呼んだ。
おばあちゃんはそんな失礼なガキの失礼な態度に一切の不快感を示さず、穏やかな顔で私の前まで歩いてきた。
「どうかしたの?」
「これ……何の料理だ?」
小学2年生の私にしてみてもその物体は明らかに異常なものだった。
何よりも料理が上手だったおばあちゃんが出したものとは思えない
全く美味しそうに感じられないソレに対して、私は心の底で妙な嫌悪感を覚えていた。
「“きゅうじゅう” のこと?」
「……き、きゅうじゅう?」
その料理とは思えない物体は、名前までもがおかしなものだった。
……ただ、何故か私の好奇心はそこで止まった。
何故かこれの名をこれ以上深掘りしてはならないと思ってしまった。
「……? どうしたの?
ケイったら、きゅうじゅうが分からないなんて
毎食食べてるじゃないの」
「……は? 毎食? 俺が?」
「?」
おばあちゃんは本当に訳が分からなそうな顔でこちらを見ていた。
同じ食卓についていた母も私をおかしなものでも見るような表情を浮かべていた。
(……待て、なんかおかしいぞ)
私は普段過ごしている現実とのズレにようやく気がつくと
周囲をぐるりと見た。
比喩などではなく、視界だけを360度回転させるように……だ。
そして、確信した。
こんな事ができるのは……これは夢だ。
明晰夢というものがある。
ざっくりと説明するなら、夢である事を自覚しながら体験する事が可能な夢だ。
私はどう言う訳かこの類の夢を頻繁に見る少年時代を過ごした。
夢を夢として知覚すると、途端に脳がクリアになって視界が鮮明になる。
絡まっていた糸が解けたような異物感の消える感覚がする。
私は小さい脳みそをフル回転させながら止まっていた思考回路を復旧させた。
(さて、どうしたものか……こうなった以上俺はいつでも目を覚ませる。
ただ……ただなぁ……やっと寝られたってのにまた起きるのか?)
夢にも色んなパターンがある。
ごちゃごちゃしたものや整理されたもの、自分の意思で自由にコントロールできるもの、そうでないもの。
経験上、ここまではっきりと自我があって尚且つ破綻が少なく細かく作り込まれた夢は何故かコントロールできない。
言わばこれは、非日常的な世界を体験させられるタイプの夢だ。
面白そうならこのまま夢を続けるのも構わないのだが、もう既に目の前にあるこの物体が気持ち悪い。
(まぁ……悪夢ならさっさと切り上げれば良いし、とりあえずまだ寝てよ)
この時点で私は気付くべきだった。
布団から目覚める始まり方をする……そんな明確にスタートを認識できる夢が “普通” である筈が無かったと言う事に。
私はとりあえず “きゅうじゅう” と呼ばれるソレを避けて他を全て食べていくことにした。
朝のニュース番組は特に変な様子もなく食べ物の特集だの猫だのと言ったありきたりな話題を垂れ流していた。
『お腹いっぱいになった』 とか適当な事を言って残せば良い……私はそんな事を考えていた。
一通り食べ終えて私は手を合わせようとした。
……その時、ものすごい勢いで横から右手を掴まれた。
咄嗟の出来事に驚いた私は手の伸びる先を見た。
母だ……母は別に温厚な人間では無かったがいきなりこんな事をするような人間では無い事は十分に理解していた。
それだけに、目の前にいる母があまりにも異質に感じられた。
無表情で私の小さな手を掴んでいたのだ。
それも、信じられないくらいの力で。
夢なのにおかしな話だと思うが、夢の中では痛くもないのに痛いと感じる事がある。
恐らく実際の感覚とリンクしていないから感覚の空振りのような現象が発生しているのだろう。
なので、夢の中では感覚を数値情報として観測する事が出来る。
私の腕は信じられない程の痛覚情報を発していた。
特に痛くは無いのだが、痛みを感じていると言う情報だけが身体を流れていく。
その水準は殴られただとかそんなレベルのものを遥かに超えていた。
「ちょっ何だよ?!」
私は驚いて手を振り解こうとしたが、明らかに人間が生身で出せるような握力では無い事が明確だったので
当然だが子供の非力な腕ではびくともしない。
1ミリもそこから動かせず、何故か足も動かない。
(何だよこれ……握る力が強過ぎて身体が動かせない?!)
私は当時、腕っぷしにはそこそこの自信があった。
7歳当時の握力は35kgを突破していたし、ソフトボール投げの最高記録は37mにもなっていた。
そんな力自慢のガキが当たり前のように圧倒的な力で動けなくされてしまったのだ。
「食え」
「は?」
「食え食え食え食え食え食え食え食え食え食え」
母は壊れたように “食え” と言い続け、ナイフで乱暴に緑色の糸を引く肉を切り分けた。
私は母の手から解放される暇もなくこれまた無表情のまま母と同じような状態になっているおばあちゃんに羽交い締めにされ、口に指を突っ込まれて大きく広げられた。
(おいおいおいどうなってんだくそ!!!!)
私は慌てて目を覚そうとした……しかし、何故か起きる事が出来ない。
強力な力で意識がロックされているかのように実際の身体が言う事を聞かない。
そうこうしている内に母はフォークをテーブルごと突き刺す勢いで振り下ろし、粘っこい透明な緑色のモノを突き刺すと
俺の口へと捩じ込んできた。
「ん゛ん゛ー!!!!」
気持ち悪い物体は口の中で異常な程の “旨み” を数値として出力してくる。
食べている感覚は無いがそれにしても不快指数が高過ぎた。
結局抵抗も虚しく一皿分の “きゅうじゅう” は喉を通されていき
解放された頃には2人とも何も無かったかのようは様子でケロッとしていた。
(な、何だよこの夢……おかしいんじゃねぇのか?!)
自分の意思で目覚める事が出来ない明晰夢をみたのはこれが初めての事だった。
私はこの時点で内心非常に焦っていた。
それは、想像力の塊である小学生に
この世界が元の世界から孤立している “完全な別世界” であると錯覚させるのには十分過ぎる体験だった。
ふと、テレビに目をやると何処かの現地映像が中継されていた。
そして……私はここでようやく、この夢の “主役” を目の当たりにする事になった。
綺麗に作り込まれた夢にはテーマがある事が多い。
一貫したテーマ性のある夢をみた覚えがあると言う人は少なくないだろう。
主役とは即ち、夢のテーマそのものであり夢の根幹だ。
……そして、最も現実から乖離した存在でもある。
そこに映し出されていたものは、交通事故の様子だった。
……しかし、ただの交通事故じゃない。
車と……体長4mはあろうかと言う巨大なテントウムシとの接触事故だ。
「きんも!!!!!」
私は思わず立ち上がった。
そのテントウムシはあまりにもリアルであり、誠に残念ながら観察と図鑑知識によって得たテントウムシの記憶を基にとてつもなく忠実に再現されていた。
車と接触してひっくり返ったテントウムシは足の関節辺りから黄色くて臭い液体を出しながらピクピクと動いている。
……ちなみにあれは血液だったりするのだが、その辺の話をすると長くなるので割愛する。
車の方は前方が大破しており、如何に凄惨な事故が起きたのかを想起させるのに十分過ぎる状況だった。
「コラ!! 天道様になんて事言ってるの!!」
急に母が立ち上がった私に向かって凄まじい剣幕で捲し立ててきた。
見た事もないほど怒っている母に驚いた私は後ろに下がった。
「は? な、なんだよそのてんとうさまって?!」
「あんたまだ寝ぼけてんの?! 今すぐに天道様への無礼を謝罪しなさい!!!」
「……おい……おいおいおい……」
私は目端に映るテレビに嫌なものが映った気がして振り向いた。
気のせいでは無かった。
……中継映像には事故ったテントウムシの他にも大量の巨大なテントウムシが映り込んでいた。
ちゃんとよく思い返して見ると報道番組の装飾やUIにまでテントウムシが使われていた。
……そう、この夢の主役はこのテントウムシ共だったのだ。
しばらくしてこの世界に順応した “私” の記憶が私の脳内に溢れ出した。
このタイプの明晰夢ではよくある事で、夢の中でのルールや常識は有難い事にこうやって自らの頭の中から得る事が出来るのだ。
……いや、そもそも私の夢なんだから私がルールを知るのは当然と言えば当然なんだが。
これまでこの世界で暮らしてきた私の記憶によると、どうやらこの世界ではあの巨大なテントウムシを
“天道様” などと呼び、共生しているらしい。
天道様は人々にとって信仰対象になっているようで
1000年以上前から世界中の人類は天道様を中心とした人類史を刻んできたようだ。
しかし、この夢について記憶から分かった事は少なく
そう言った基本情報と共に不穏な情報が手に入っただけだった。
天道様は、人を食べる。
テントウムシは主にアブラムシを主食とする昆虫だ。
ちなみにアブラムシは普通にキショいのであまり検索をかけない事をおすすめするが、蟻と共生している小さな虫だ。
ちなみにテントウムシは他にも信じられない事に共食いしたり、テントウムシの卵を食べてしまう事もある。
しかもテントウムシはかなり大食いである事が知られている。
言ってしまえば、テントウムシと言う昆虫は
あんな見た目をしているが肉食で、食に対してかなり貪欲なのだ。
……それが、車と同じくらいのサイズにもなればどうだ。
当然そんなものが蟻より小さな虫をちまちま食べる訳がない。
その標的がアブラムシと同様に群れで暮らし、大量に生息しているような生き物にロックオンされてしまうのは
必然ではなかろうか。
オマケに人間には蟻のような天敵から身を守ってくれる存在も無い。
これ程までに巨大テントウムシにとって都合の良い食材は他に無いだろう。
あまりよく知られていないと思うが、テントウムシの口は上顎と下顎がある咀嚼型であり、獲物をバリバリと噛み砕く強靭なものだ。
それがこのサイズともなれば、人の骨すらお構い無しに平らげてしまえる恐るべきものになるのは想像に易い。
……ここで誤解しないように言っておくが、私はこの時点ではグロいものは基本的にNGだった。
乱暴ですぐ人を怒鳴るし叩く癖に血は見たくないと言う非常に臆病な側面も持っていたのだ。
だからこそ、こんな惨たらしい設定の夢を見る意味が全く分からなかった。
(いやちょっと待てよ……俺こっから登校すんのか?
正気か??)
記憶には 『天道様は大人の人間しか食べない』 とあるが、それにしてもこの状況で外を歩かなくてはならないのが如何に常軌を逸しているのかは誰でも理解できる筈だ。
そこら中に人食い巨大テントウムシが蔓延る世界で何の武力も持たず “何故か” 無抵抗で身を捧げる人間が暮らす世界……いくら夢とは言え狂ってる。
しかし、どうやらこの世界は私では抗えない力で進行しているようであり
学校へ行くのを渋る私を母とおばあちゃんが無表情で玄関から押し出してしまい、通学路を歩くに至っている。
街中はまさに地獄絵図であり、そこら辺で当たり前のように天道様やその幼虫に食われながら感謝と悲鳴を繰り返す人間を見る事が出来た。
どうやっても夢から覚める事が出来ない私はただその悍ましい光景をなるべく視界に捉えないようにしながら両耳を塞いで走る事しかできなかった。
少し歩くたびに血のようなものがべっとりとついた道が出現する。
たまに赤黒い何かの残骸みたいなものが落ちていたりもしたが、それが何なのかは考えたくもなかった。
(……何なんだこの夢は
いや、そもそも何でこの世界の人間は武器とかで抵抗しないんだ?!)
まるで、天道様に人間が操られているみたいだ。
学校でもこの世界特有のおかしな事は続いた。
まず、あまりにも学校が大きい。
私が住んでいたのは人口3万人程度の田舎であり、それにしては大きめの600人程度が在校している小学校へ通っていたのだが、
私が吐きそうになりながら通学したその学校に在籍している生徒の数はなんと45000人。
……これは大人になった私なりの考察だが、恐らくこれは国が多産を推奨していると言う事だったのだろう。
より多くの人間を天道様に捧げられるようにする為だ。
クラスには30人程度しかおらずよく見知った顔ばかりがあったが、授業の方式は生徒が多過ぎるせいかクラスに置かれていた2000年初頭くらいに作られたであろうブラウン管テレビを使った放送式が採用されており、
見覚えのない少し胡散臭さのある若い女性教員が天道様について淀みなく語り続けていた。
例えば……天道様は脳を特に好むだとか、天道様の寿命は30年程度であり、そのうちの6年間を幼虫として過ごすだとか……
成虫になった天道様は1日で平均20人も食べるだとか……
最後の情報に関してだけは、本来のテントウムシが1日でアブラムシを100匹も食べるとか言われてるので思っていたよりは控えめだな……などと冷静な事を考えてしまったが
それを考慮したとしてもあまり良い気分にはならないものだった。
しかし、私の予想に反して授業が終わる度に教室……いや、学校全体は拍手に包まれ
授業を賞賛するような子供たちの声で溢れ返った。
私は子供ながらにその光景に計り知れない程の恐怖を覚えてしまい、圧倒されながら必死にその場の空気に同化することしか出来なかった。
時間が経つ度に怖いと言う感情ばかりが心の奥底から引き出されてきて暴れて全てを壊すと言ういつもの粗暴な発想が全く湧いてこない。
私は平静こそ装っていたが、完全にパニック状態に陥っていた。
とうとう給食の時間になり、給食係の元へと給食を取りに行く。
今日はパンとスープを中心とした給食らしく、喜んでいる生徒も何人か見られた。
私は見覚えのあるローカル牛乳を手に取るとお盆に乗せて横へズレながら給食を受け取っていく。
……そして、最後に “きゅうじゅう” が配膳された。
(またこれか……)
何度見ても気持ち悪いその物体は恐らく朝と同様、特に調理された様子のない “生” の状態であり
これが何らかの物体からそのまま切り分けられて出されたものだと言う事だけは理解できる見た目をしている。
ただ、それ以上は嫌な予感がして再び思考がどんどん他へ逸れていった。
全員に給食が行き渡り、手を合わせた。
「いただきます」
私は周囲を確認した。
やはり、生徒は皆何の抵抗もなく “きゅうじゅう” を口に運んでいく……そして、何故か恍惚とした表情でゆっくりと噛んでいた。
「うげっ……」
私はつい小さく反応を漏らしてしまったが、幸いと言うべきか誰も私のそれを聞いている者はいなかった。
(これ、残したら多分朝みたいな事になるよな……)
私はどうにかこれを食べなくて済む手段を考えたが、この状況下でそんなものが小学2年生のクソガキ如きに思いつく訳もなく
仕方なく食べる方向で処理方法を考え始めた。
そして、ひとつの方法に辿り着いた。
なるべく箸で切り分けた “きゅうじゅう” をパンに挟み、スープで流し込む作戦だ。
幸いと言うべきかこれは夢なので食感や味覚はないので辛うじて見た目に出さなければ許容出来た。
……しかし実際に触ってみて気付いたが、思っていたよりこの緑色の食材はシャキシャキしている。
繊維みたいなものはほぼ無いが切ると妙にネバネバしていた。
(いくら他人が美味そうに食っててもあの見た目は無理だろ)
昼休み、私は外にも出ずトイレに篭って考え込んでいた。
……別にうんちをしに来た訳ではなく、単にこの時は校内で1人になれる場所が欲しかった。
いつもならグラウンドへクラスの奴らとドッジボールをしに行くんだが、夢の中だし勿論今はそれどころではない。
「はぁ……せめて蟻みたいに俺らを守ってくれる生き物でもいれば…………蟻?」
ふと、思考の端で何かが引っ掛かった。
この世界は果たして、テントウムシだけが異常にデカいだけの世界なんだろうか?
そう言えば理科の授業で天道様以外の虫類を説明する授業の時、何故か頑なに蟻の名前が出てこなかった……
いや、と言うかよく考えたら蟻が教科書の何処にも無い。
この世界を生きた私の記憶にすら蟻のアの字も無い。
……いや、それどころかこの感じ、蟻を知らない?
嫌な予感が一気に膨れ上がった。
もしも、もしも……だ。
テントウムシと同様に巨大な蟻がかつて存在していたとする。
蟻はテントウムシにとってかなり邪魔な存在だったので
テントウムシは人間を使って蟻を絶滅させたのでは?
テントウムシ優位の世界が構築されている以上、テントウムシが人間を操って敵対勢力を潰すのは容易い筈だ。
……そして、もし巨大な蟻がいたのだとすれば
巨大なアブラムシだっていてもおかしくはない。
「アブラムシの色は……緑色………………あっ」
その時、私は恐ろしい事に気付いてしまった。
アブラムシと言う生き物は “甘露” と呼ばれる粘性の高い糖液を蟻に与える事で共生関係を維持している。
これは、見方を変えるとアブラムシと言う生き物が蟻に対して甘露と言う賄賂を渡す事で自分たちが餌にならないように操っているとも捉える事ができる。
……例えば、そう、例えばの話だ。
この世界には大きいアブラムシがいて、彼らは人間の家畜になって共生関係を築いているとする。
彼らは種の数を安定して増やしながら本来の天敵から身を守らせる為に
敢えて人間に削いだ身体の一部を渡して食わせる事で、都合の良いように精神を変えてしまえるのだとすれば……ここまでの話に説明がつかないだろうか?
だから、 “きゅうじゅう” はネバネバしている……何故ならあれには人を操る甘い蜜が大量に含まれているから。
そして、虫好きだった私はようやくここで思い出した事があった。
アブラムシはあるカテゴリに含まれる虫だ。
植物の枝や葉などに寄生して、その液汁を吸収する害虫。
「……吸汁性害虫」
その時、私は猛烈な吐き気に襲われてそのままトイレに吐いてしまった。
もう間違いない…… “きゅうじゅう” とは即ち “吸汁” だったのだ。
“きゅうじゅう” の正体は、巨大なアブラムシの肉だ。
「おぇ……!! ふざけんな……何なんだよ気持ち悪い!!!」
どうして考えないようにしていたのか、その理由が明らかとなり
私は改めて夢から覚める方法を模索し始めたのだが
何故か何をしても起きられる様子がない。
最早怖くて仕方がない。
(もうこんなの授業を受けるとかそんな事一々やってられるかよ!)
私は慌てて鍵だけ入った空のランドセルを持ち出して昼休み中の学校を飛び出した。
色んな奴らに声をかけられたが、この時私は既に正常な判断力を失っており
ひたすら逃げるように通学路を走った。
……そして、私が住むマンションまで走り切ると
更に猛ダッシュで階段を駆け上がる。
エレベーターなんか使ってる場合じゃない。
最早この不気味な夢の中一時でも外で立ち止まるのが怖かった。
私はマンションの4階まで駆け上がると震える手で鍵を回し、家に飛び込んだ。
そして、服はそのままに私は布団に飛び込んでガタガタと震える事しか出来なかった。
そんな様子をおばあちゃんが何事かと見に来た。
「あらケイ、また学校抜けてきたの?」
「…………」
私は前にも述べた通り、当時は本当にどうしようもない問題児だった。
授業をサボるどころか学校から抜け出すのだって
指で数える程度とは言え、1度や2度では無かった。
「チョコレート、食べる?」
「……食べる」
おばあちゃんはそんな私に学校から抜け出た理由すら聞かず慣れた様子で対応した。
今となっては幾ら夢の中とは言え、おばあちゃんに心労をかけるのは本当にやめて欲しいんだが
そんな事は小さい頃の私にはお構いなしだ。
私はひまわりの種を与えられたハムスターみたいになりながら布団の中でチョコレートを頬張ると
涙を流した。
「帰りたい……」
2度とこの夢から覚めないのでは無いかと言う途方もない恐怖が私の小さな背に纏わりついていた。
そんな私をおばあちゃんは何も聞かず、優しく背中をさすってくれた。
感覚は無かったが私は少しだけ安心する事ができた。
気がつくと、外が赤くなっていた。
変な話だがどうやら私は夢の中で眠っていたらしい。
(はぁ……いつの間に寝てたんだよ。
現実でもこのくらい早く寝られると良いんだが……)
私はそんな事を考えながら立ち上がると、テレビでも見ようと思ってリビングへ向かった。
……その途中で、私は異変に気がついた。
「あれ……? おばあちゃんは?」
おばあちゃんがいない。
いや、おかしい。
おばあちゃんは活発な人間だったが、そんなに外へ出る人じゃない。
家事を黙々とこなしていく仕事人みたいなおばあちゃんは基本的に趣味らしい趣味に時間を使わず
買い物くらいしか外出する事は無かった。
「おばあちゃん?」
家の何処を探してもやはりおばあちゃんの姿はない。
オマケにおばあちゃんの靴すらない。
つまりおばあちゃんはこんな時間帯に外へ出ている事になる。
おばあちゃんは買い物を午前中に済ませてしまう。
夕方に買い物をして帰ってきた事は今まで一度も無かった。
急に胸騒ぎがした。
嫌な想像ばかりが頭に思い浮かんでいく。
「あぁそうだよな……そうだと思ったんだよ。
大人を食う巨大テントウムシなんか出てくる夢でさ、家族が食われない訳ないじゃんか」
私は無力にもその場に膝をついた。
夢だからまだ軽いが、身内が死んだかもしれないと言う状況になって良い気分でいられる訳がない。
この段階で私のメンタルはかなりギリギリだった。
私はその場に体育座りになって泣きながら親とおばあちゃんの帰りを待った。
……そして、1時間ほど経過して母が帰宅した。
「おかえり」
私は体育座りのまま帰ってきた母の方を見た。
母は途中で学校から抜け出した私の事をもう知っていたらしく
ここから1時間くらいしつこく怒られた。
習い事も放り出してしまったので説教にはその分も含まれていた。
夢の中でまで怒らなくったって良いのにとは思いつつも、私は自業自得だと思いながら反省した。
……とは言え、反省した事をまたやってしまうのが私と言う愚かな人間な訳だが。
「あのさ、おばあちゃんは?」
説教が終わった頃、私は母に1番気になっていた質問をぶつけた。
母は急に先程まで怒っていたとは思えない無表情になってこちらを焦点の合わない目で見つめた。
「おばあちゃんは、天道様からお導きを受けました」
「…………あ……あ……ぁ」
つまりは、天道様に食われたって事だ。
実の母を食われた筈の母は何も感じていないのかそんな残酷な事をさも当たり前のように吐き捨てた。
「そして、私も天道様からお導きしてもらうんです」
「…………今、何ていt」
突然、ベランダからガラスをぶち抜いて巨大なテントウムシが顔を覗かせてきた。
「うわぁああああああ!!!!!」
いきなりの出来事に私はパニックになりながらただ後退りしたが
テントウムシはお構いなしに窓枠と家の壁を破壊して押し入ってきた。
そして、母はそんな恐ろしい存在の襲来に歓喜した様子を見せながら
なんと自らテントウムシの方へ歩み出た。
「待てよ……何やってんだ!! おい!!」
テントウムシは凄い力で母を倒すと顎を鳴らして母に襲いかかった。
「やめろ!!! やめろ!!!! おい!!!!!」
「やめろぉおおおおおお!!!!!!!
……はぁ……はぁ……はぁ……」
私は、布団の中で泣きながら叫んでいた。
そんな私を心配そうに見つめていた母が起きた私を抱きしめて背をさすってくれた。
(こ……こは……)
時計を見ると短針が3を指していた。
見たところ母には外傷もなく、抱きしめられている感覚がちゃんとある。
私は、夢から帰ってきたようだ。
「ひぐっ……ぅえ……あ……あぁ……」
私は母の腕の中で泣いた。
今でも鮮明に思い出せる悪夢の記憶だ……小学生の私にはあまりにもキツイものだっただろう。
私は粗暴なクソガキだったが、何故か自らの行いにちゃんと罪悪感を覚えて反省するようなチグハグさを持っていた。
もしかしたらこの夢はそんな罪悪感が私を罰する為に生み出したものだったのかもしれない。
しかし、私は全く懲りておらず、これの3日後
昼休みに学校を抜け出してしまった。
ちょうどあの夢をみる1週間くらい前の話だが、
当時の友達が学校から程近い民家の道路側に生える名もわからない背の高い植物に
大量のテントウムシがいる事を発見し、それ以来私たちにとってそこはテントウムシハントの穴場になっていた。
その日、私はわざわざ昼休みにやらなくたって良いのに
友達4人を引き連れて校門を飛び越えて民家へと向かったのだ。
私は夢は夢として完全に割り切ってるタイプだったのでテントウムシに対する恐怖などはなく、
今まで通り様々な種類のテントウムシがいる不思議な民家の植物にロマンを感じていた。
その日は5人で手分けしたので凄いペースでテントウムシが捕獲されていった。
その日の戦果は10分足らずで100近くにもなり、こっそり持ってきて民家の近くに隠して置いていた虫籠の中に収められた。
時間的にも最後の一匹を取ろうかと言う時だった。
私は目端に映った黒いものを追って手を伸ばした。
「いてっ何だよ……もう……………………えっ」
不意に小さな痛みを感じて私は慌てて手を引っ込めた。
そして、指を見た時……瞬く間に背筋が凍った。
私の左手人差し指から血が出ていたのだ。
気が動転してしまったので傷の形などはもう覚えてはいないが、普通に考えれば葉か何かで偶然切っただけだったのだろう。
しかし、私は自分が捕まえようとした存在を見て
小さく悲鳴を漏らしていた。
そこにいたのは、ヒメアカボシテントウ。
日本中に広く分布している何でもないありきたりなテントウムシの一種だ。
しかし、私は覚えていた。
しっかりと記憶にこびりついていたのだ。
最後に、母を襲った天道様は………………
それ以降、私は2度とテントウムシを取ろうなどとは思わなくなりました。
学校を抜け出る事もなくなり、今では結果的には良い薬になったと思っています。
ちなみにこれは余談であり、夢の話とは一切関わりのない事ですが
テントウムシが人の手を噛んだ実例は存在します。
……小さい虫だからと言って、雑に扱ってはいけませんね。




