悪女の始まり
「この場を借りて――フェルセン侯爵令嬢オリビア様との婚約を、ここに解消する」
その言葉が落ちた瞬間、会場の空気が凍りついた。
グラスを持つ手が止まり、誰かの息を呑む音が響く。
私はただ、ぽかんと立ち尽くしていた。
なんで忘れていたんだろう。
こんなにも、私を深く傷つけた出来事を。
「な、なぜですの? なにか……悪いところでもございましたでしょうか」
声が震えた。
けれど、ここですぐ「わかりました」と言えば、“熱烈に求めていたのに、別れ話に即うなずく安い女”なんて噂が立つのは目に見えている。
「君に非? そんなのいくらでもあるさ」
ユリウスは、まるで退屈な報告でもするように言った。
「まず、ひとつ言わせてくれ。私はオリビア嬢を好きになったことはない。お前の無理で突き通した結婚であろう。私が、皆の前で言った理由を教えてやろうか? そなたは、婚約する前からずっと私に付きまとっていたであろう? もし、みなの前で言わなかったら、また付きまとうかと思うと怖くてなあ。今日も私の瞳とおんなじドレスを着てきているじゃないか。」
……なるほど。気持わるっ。
ひとつ言わせてもらうと、付きまとっていたのは私じゃない。
まあ、オリビアは私でもあるんだけど。
この場で取り乱せば、あの男の思うつぼ。
“オリビアは感情的で愚かである”と、そう言いたいのだろう。
私は、ゆっくりと口角を上げた。
「あら、そう。これであなたの新しい人生が始まるのですね? おめでとうございます」
ユリウスの顔が、わずかに引きつった。
こんなあっけない態度を取られるとは思っていなかったのだろう。
開いた口がふさがっていない。
さっきまで静かだった会場にざわめきが広がる。
けれど、それは悲しみでも驚きでもなかった。
貴族たちの目は、まるで見世物でも眺めるように冷たく、楽しげだった。
「まあまあ、聖女様が振られるなんてね。にしても聖女様強がっちゃって」
「ふふっ。聖女様はプライドだけは人一倍高くてよ。これじゃ、私がユリウス様もらうしかないか。」
笑い声が、ドレスの裾を踏みつけるように響く。
扇子の陰で口元を隠しながら、目だけが鋭く光っていた。
誰もが、オリビアの涙を待っていた。
誰もが、彼女が取り乱す瞬間を期待していた。
するわけねえだろ、ばーか。
「ご安心ください。これからは私の視界にあなたは入りませんので。まあ、あなたはどうか知りませんが」
私はドレスの裾を翻し、くるりと踵を返した。
その瞬間、貴族たちの中から一つの声が響いた。
「お待ちくださいませ、オリビア様。」
会場がざわめく。
振り返ると、そこに立っていたのは――第2皇子、セイラン・ヴァルディア殿下。
さらりとした銀髪が、彼の瞳に影を落とす。
その髪は、風に吹かれても乱れることなく、彼の静かな気品を保っていた。
透き通った銀の瞳はまっすぐに私を見ていた。
現世で流行っていたシースルーマッシュだろうか。
顔つきは現世で例えると韓国アイドルだ。
「突然のことで驚かれるかもしれませんが……私と、ご結婚いただけませんか?」
え? ん?
会場が静まり返る。
誰もが言葉を失っていた。
私も、さっきまで帰る気満々だった足を止める。
「……殿下、何をおっしゃって……?」
「ええと、ですね。先ほどのやり取りを拝見しておりまして、どうしても黙っていられなくなりまして」
セイラン殿下は、少し照れくさそうに頭をかいた。
「昔からオリビア様のことが好きで、今しかないと思ったのです。」
「ですが、私は聖女です。殿下のようなお立場の方が、軽々しく――」
「軽々しくなど、決してございません」
一回持ち帰ろう。
このままじゃこのイケメンの顔に押されてオッケーしてしまうて。
「……では、検討させていただきます」
「では、僕、明日から婚約者ってことでよろしくお願いしますね?」
「やめてください」
「ですよね」
このままじゃ、良くない方向に進む。
実際、セイランは超がつくほどイケメンだろう。
惚れてしまったらオリビアを救うどころではない。
とりあえず、家に帰りたい。
こういう見世物みたいな扱いはまっぴらごめんだ。
私は横にそらした視線をまた戻す。
セイラン殿下は、まるで何事もなかったかのように微笑んだ。
その美しい目に映った私はすべてを見透かされているような気がした。
「今日は、少し疲れてしまったので休憩したいと思います。ぜひ次の機会によろしくお願いしますね。」
そうして、私は無事動物園のおりから抜け出したのであった。




