第7話
同じ頃、裏路地の奥で二人の男が向かい合っていた。通りには人影ひとつなく、何か事が起きるならば――まさにこの場所だ。
襤褸布のようなフードの隙間から、小柄な男の陰湿な顔が覗く。歪んだ笑みを浮かべるその様は、卑しさそのものだった。
対するディライトの表情は冷ややかだ。まるで汚物でも見るかのように、嫌悪を隠そうともしない。彼の視線は、男の顔――いや、正確にはその鼻へと注がれていた。
男の鼻は人間のものではない。代わりに、”像”と呼ばれる魔物の長い鼻が顔に張り付いていた。腰のあたりまで垂れ下がるそれは、先端がデイライトの方へと折れ曲がり、嗅ぐたびにピクピクと不気味に震えている。
像と人とを無理やり繋ぎ合わせたかのような異形――まさしく“像人間”と呼ぶほかないその姿に、ディライトは嫌悪を押し殺すことができなかった。
「臭う……臭うぞ、ヒヒッ。テメェから臭うぞォ?」
「キショいなぁ、何それ。会って早々に人の匂い嗅ぐのも、キショすぎでしょ」
「ほざけ! 逃げるのをやめたってぇことはよォ、観念したってことだろ! さっさと物を渡せ」
「雑魚如きになんで逃げなきゃいけないんだよ。俺がやらなくても、勝手にやってくれる」
「なに? ……まさか!」
ディライトの言葉に反応し、小男――コイコイは慌てて周囲へと視線を走らせた。
頭をよぎったのは仲間による待ち伏せ。だが路地裏は不気味なほど静まり返り、風に揺れる木屑の音すらない。
隠れられそうな場所といえば、乱雑に木箱が積まれた物置同然の一角だけ。
コイコイは長い鼻をひくつかせ、その方向へと向ける。しかし――人の気配はない。
安堵の吐息と同時に「やはり嘘か」と確信を得て振り返った瞬間、至近にディライトの顔が迫っていた。
黒いレンズに映り込んだのは、愚かしく目を剥いた自分自身の顔。
標的の突飛な行動に気圧されたコイコイは、反射的に大きく飛び退き、慌てて距離を取った。
「ふーん。匂いで探知する系? 見た感じ生粋の物じゃないよね、魔道具かな」
「う、嘘じゃねぇか! 仲間なんてどこにもいねぇ!」
「仲間がいるなんて一言も言ってないよ。爺から俺たちに狙いを変えたってことは、【変幻自在の雫】が目的なんでしょ。奪おうとする動機は? てか所属どこ? |〈冒極〉に手を出すってことは、国に喧嘩売ってるって認識になるけど良いの?」
「か、カメレオン? ……何をごちゃごちゃとワケのわからんことを! 〈冒極〉や国なんて知ったこっちゃねぇ! いいからテメェが持ってる魔道具を寄越しやがれ!」
「あれ?」
コイコイの慌ただしい挙動を前に、ディライトはわずかに首をかしげる。
【変幻自在の雫】の所在を追えた理由。それは、あの鼻先に装着された奇妙な魔道具に違いない。どうにかして【変幻自在の雫】の匂いを記憶させ、バンギッシュから自分たちへと所有が移ったことすら嗅ぎ分けたのだろう。
だが、疑問は山のように積み重なっていく。
ギルド連盟国家〈エピック〉を支える柱のひとつ〈冒極〉に牙を剥くというのは、すなわち国そのものを敵に回す行為。それほどまでして【変幻自在の雫】を欲する理由とは何か。
さらに不可解なのは、魔匠が生み出した魔道具が、この国にばら撒かれたという事実そのものだ。もし盗み出したのなら、自らの手で利用すればよいはず。なぜ大量に手放したのか。誰の意思で、何を目的として――。
今の状況は、灯火ひとつない闇の中を手探りで進むようなものだ。
だが、コイコイの反応を糸口にすれば、そこから光を見いだせるかもしれない。ディライトはそう踏んでいた。そして確信する。目の前の男は単なる駒にすぎず、その背後には必ず操る者がいる。
問題はただ1つ。コイコイが素直に口を割るかどうか――それだけだ。
「ま、いっか。ボコして聞こ」
「あ゛?」
「そもそも俺は【変幻自在の雫】持ってないよ。不良品なんじゃないのそれ?」
「いーや! 騙そうとしたって無駄だぜ。テメェの身体から硝煙のようによォ、プンプンと匂いが立ち昇ってるぜェ」
「……匂いの元はこっちか」
ディライトの胸元で揺れるネックレスに、コイコイの視線が吸い寄せられた。
黒く輝く銃を模した装飾が、銀のチェーンに結びついている。一見すれば、ただの飾りにすぎない。
しかし、それを指先で弄ぶディライトの様子を見て、コイコイは得心した。
そして――ついに最後の通告を突きつける。
「渡す気はねぇんだな?」
「ごめんね、物乞いに渡すものはないんだ。あ、”霜降り蛙”ならあるけど、一本いる?」
「死ね」
コイコイは地を蹴り、一直線にディライトへと突進した。懐から抜き放ったナイフを握りしめ、狙うは首元。
どうせ正直に魔道具を差し出すはずがない――そう踏んでいた。怖気づいて渡してくれれば楽だったが、それが無理なら殺して奪うまでだ。
犯罪まがいの依頼をいくつもこなしてきた彼にとって、殺人など造作もない。どこを切れば人が死ぬか、体で覚えている。
頸動脈を断ち、鮮血が噴き散る様を脳裏に思い描きながら、コイコイは奇声をあげて跳びかかった。
一閃。銀の光が走り、赤が弾けた。
狙い通り――のはずだった。だが血の量はあまりに少なく、そのうえ激痛が走ったのは、コイコイの自身の右腕だった。
「ぐあッ」
「いきなり首狙うとか殺意高いね。そっちが殺す気なら多少荒げても文句言わないでよ」
「クソがッ! 何しやがったッ!」
「さぁ? 言ったでしょ、俺がやらなくても勝手にやってくれるって」
切り抜けざまにディライトの奥へといったコイコイは、殺意の籠もった目でディライトを睨みつける。
片手は紙袋を持ち、もう片方の手は上着のポケットに突っ込んでいる目前の男が、一体何をしたのかコイコイには分からなかった。
切りつける最後の最後まで、ディライトが反撃をする素振りも見せなかったし、確かに”切った”と自信をもって言える。
しかし実際は、ディライトは傷を負っておらず、コイコイの方が、右前腕辺りにナイフで切り裂かれたような傷を負っていた。
タネも仕掛けも分からないディライトの反撃方法に、近寄ってはいけないと判断したコイコイは、数歩後ずさった。
「なに、逃げんの?」
「馬鹿がッ! オレはもうテメェに近寄らねェ。だからよォ――」
コイコイが大きく息を吸い込むと、魔道具である長鼻の中腹がぐぐっと膨らみ始めた。
風船のようにみるみる膨張していくそれは、瞬く間に人の顔ほどの大きさへと膨れ上がる。
次の瞬間、堰を切ったダムのように鼻先から圧縮された空気が一気に解放された。
白濁した煙が轟音とともに噴き出し、渦を巻きながら路地裏を呑み込んでいく。
吐き出しきった頃には、視界という視界が白に塗りつぶされていた。
路地裏一帯は濃密な煙に覆われ、ディライトとコイコイの姿は跡形もなくその中へと溶け込んだ。
「――安心して死ね」
コイコイの殺意が路地に響いた、その刹那。
ヒュンッ――鋭い風切り音を、ディライトの耳は確かに捉えていた。
視界の端で煙が一瞬揺らめき、そこから何かが矢のように飛来する。
本気を出せば、触れることなく対処するのも容易い。だがディライトは、あえて動かない。
好奇心が勝ったのだ――正体を見極めたい一心で、彼は飛来物を二指で挟み取り、空中でぴたりと止めた。
「針?」
「ただの針じゃねぇ! 馬糞の中で一晩寝かした一品よ。喰らえばよォ、感染症なるくらいはワケねぇぜ」
「うわ汚っ」
ディライトは顔をしかめ、指先の針を放り捨てると、すぐにズボンへと指を擦り付けた。
毒ではないにせよ、汚物にまみれた針を掴んだ事実は消えない。
思わず、触れてしまったこと自体を後悔した。
その瞬間、背後から再び風切り音。煙を裂いて、細い影が一直線に迫る。
間髪入れず、左右からも、そして頭上からも――四方八方を塞ぐように、無数の針が雨のごとく降り注いだ。
「はぁ……はぁ……これだけ投げれば十分だろ」
モクモクと立ち込める煙を眺めながら、コイコイは荒い呼吸の合間に満足げな笑みを浮かべた。
彼の主の武装はあくまで“針”。ナイフなど所詮副にすぎない。
磨き上げてきた投擲の技に、先日譲り受けた魔道具を組み合わせれば――敵の視界を奪い、不可避の連撃を浴びせられる。そうして完成したのが彼の必勝の戦法だった。
たとえ得体の知れぬ力を持つ相手でも、数十本もの針を叩き込まれれば無事でいられるはずがない。
針の筵と化した獲物の姿を確認しようと、コイコイは晴れゆく煙に目を凝らす。
そして、完全に煙が消えたその瞬間――コイコイは、自分の目を疑った。
「な、何なんだよテメェはッ」
「いやぁ、分かる、分かるよ。自信満々の必殺技を、何の苦もなく防がれる……。その瞬間の喪失感と屈辱、そう味わえるもんじゃない。言葉が見つからないよ」
煙がすっかり晴れた先に現れたのは――何の傷も負わず、煙に包まれる前と寸分違わぬ姿のディライトだった。
地面には投げ放った数十本の針が散乱しているだけで、血飛沫の痕跡など影も形もない。
不敵な笑みを浮かべ、黒いレンズ越しにこちらを見据えるその視線に、コイコイの脳裏には否応なく「敗北」の二文字が刻まれる。
だが動揺を隠し切れぬまま、認めがたい現実を打ち消そうと、彼は手に残った一本の針を振りかぶり、必死にディライトへと投げ放った。
「くたばれぇえええッー!!」
「だから、敢えてこう言うよ――雑魚乙」
コイコイの投じた針は、真っ直ぐにディライトの眉間へと吸い込まれていった。
このまま何もしなければ、針は額に突き立ち、取り返しのつかない致命傷を与えるはず――。
だが、その必然は今回も起こらなかった。
針先が皮膚に触れた瞬間、まるで呑み込まれるようにディライトの額へと沈んでいく。
直後、沈んだ傍から針の先端が突き出し、そのまま一気に射出された。
「なっ――!?」
予想だにしなかった反撃に、コイコイは反応すらできない。
次の瞬間、撃ち返された針が腹部へ深々と突き刺さり、激痛とともに血飛沫が散った。
「がはっ……!」
肺を抉られるような苦痛に声が漏れ、コイコイはその場に蹲る。
内臓こそ逸れていたが、それでも致命傷に近い。脂汗が際限なく吹き出し、思考をまともに保てない。
――それでも、生き延びるには逃げるしかない。
そう決意して顔を上げた瞬間。
後頭部を、無慈悲な重みが踏み抜いた。
「この期に及んで、逃げるのは無理でしょ」
「ぐっ……! お、オレに構ってばっかでいいのかァ? 相棒はオレより強いぜ。もう一人のやつ、死んじまうかもなァ!」
地面に顔を打ちつけた衝撃で口端を切り、血泡を吹きながら抑え込まれた体勢でコイコイはディライトを仰ぎ見た。
その瞬間――建物の上から、巨体が落下してきた。
ドスンッ、と路地裏全体を震わせるほどの衝撃音。
地面には大の字になって転がる大男の姿があった。
襤褸布めいた衣はさらに裂け、全身には殴打の痕か青痣がいくつも浮かび上がっている。
既に意識はなく、微動だにせず、再び起き上がる気配など微塵もない。
そして間を置かず、手前の通路からケインが顔を覗かせた。
「全くどこに飛んでいったんです――あ」
「殴り飛ばしたの? 老いを感じさせない一撃だね、やるじゃん」
「ディライト君こそ、中々のサディスティックですね。頭に足を乗せたことなんて、人生で一度もないですよ私は」
「乗せるべきだよ、そしたら世界は広がる」
「そんな世界狭めたままでいいです」
「グツヮ!? 嘘だろ、やられたのか……」
瀕死の相棒の名を、顔を押さえつけられながらも絞り出すように叫ぶコイコイ。
その声を嘲笑うかのように、ディライトは足に力を込め、さらに顔面を無慈悲に踏みつけた。
「さぁ、吐けよ。誰の差し金? 目的は?」
「ぐぅ、うっ……分かった、言う! 言うから足をどけてくれ!」
「駄目だ、このまま話せ。まず魔道具はどこで手に入れた? お前ら程度が持つには不相応すぎるね」
「オレ達二人はっ、魔道具はある人からもらったんだっ」
「もらった?」
「そうだ! それと、オマエらが持つ魔道具を奪ってこいって依頼も受けた。……こんなに強ぇって知ってたら受けなかったぜ――ぐッ、話す! 話すから止めてくれ!」
コイコイの顔に、後悔の色が滲む。
その表情を見下ろしながら、ディライトは「無駄口は不要だ」と言わんばかりに足へさらに荷重をかけた。
圧迫に耐え切れず、潰される前にコイコイは途切れ途切れに語り出した。
次話は明日22:30投稿です!