第6話
大通りを外れ、家屋に挟まれた細い路地をケインは駆け抜けていた。
四十路を越えた身とは思えぬほど、一歩ごとの踏み込みは力強く、散らばる廃材や障害物を軽やかに避けながら、その速度を落とすことなく走り続ける。
少し遅れて、巨躯の尾行者――グツヮが後を追う。荒い息と重たい足音を響かせながら必死に迫るが、ケインとの距離はみるみる開いていった。
すでに全力を尽くして走っているグツヮの頭から、襤褸の頭巾が風にあおられて外れる。
隠されていた素顔が、ついに露わとなった。
「あのおっさんッ! なんで、あんなに速いんだよッ……!」
無精髭に覆われた凶悪な人相は、息も絶え絶えに苦渋の色を浮かべていた。
このままでは標的を取り逃がす――もし手ぶらで戻れば、相棒にどやされるのは目に見えている。
その光景を想像しただけで、グツヮの背筋に寒気が走った。
――あいつ、怒ると本当に怖ぇんだ。
叱責だけは避けたい一心で、必死に足へ力を込める。だが、もはやケインを見失わぬよう食らいつくのが精一杯だった。
額を伝う汗が増すごとに、不安もまた胸中で膨れ上がっていく。荒い息遣いは刻一刻と間隔を縮め、限界が目前に迫っていた。
追跡への執念が折れかけた、その刹那――グツヮに思わぬ幸運が舞い込んだ。
「しめたッ」
左の通路へと折れた先、視界の奥でケインが立ち止まっていた。
理由は明白だった。彼の前には越えようのない壁が立ちはだかり、行き止まりを告げていたのだ。戻ろうにも背後にはすでにグツヮが塞ぐ。
追い詰められた獲物を前に、体力の限界すら忘れ、グツヮの口元に獰猛な笑みが広がる。
――つまり、この状況はケインにとって紛れもない“詰み”であった。
壁を見つめたまま微動だにしないケインの数歩手前で、グツヮは足を止める。荒い息を吐き、疲労で湿った口端を手の甲で拭いながら、猛獣のようにぎらついた眼差しを向けた。
「だっ……ハッ! やっとだ……追いついたぞ、おっさん! オマエ、足速すぎなんだよ!」
苦言を呈したグツヮへと、ケインは振り返って呆れた表情を見せた。
「これでもかなり手を抜きましたが……。それに貴方もおっさんでしょう。私よりも歳をとっていそうだ」
「おっさんじゃねぇ! オレは三十五だ!」
「……私より下じゃないですか」
まさかの年下だった。ケインは四十五歳――つまり、グツヮとは1回りもの差がある。
それでも、グツヮ自身もすでに「おっさん」と呼ばれる年齢に差し掛かっていた。その事実からは、いずれ向き合わざるを得ないのだ。
「世間では二十歳を超えればおっさんだそうですよ」
「そんな失礼なこと誰がヌかしてんだ」
「私の娘です。異論は認めません、おっさん」
「オレあんま頭良くねぇけどよ、人の意見ムシすんのだけは駄目って知ってんぜ。嫌われてそーだな、アンタ!」
「嫌われてません」
ケインはグツヮを正面に見据えたまま、ポケットから黒い手袋を取り出し、ゆっくりと指を通していった。
その甲には、冒険者ギルド〈冒極〉を象徴する――剣と盾の交錯した紋章が刻まれており、淡い光を帯びて静かに輝きを放つ。
「闘る気まんまんって顔だ、なッ!」
先に動いたのはグツヮだった。
腰に吊るしていた大鉈を抜き放ち、猛然とケインへ駆け寄る。右手に握った凶器を高々と振りかぶり、上段から振り下ろした。
だが、それは殺意に満ちた一撃ではない。命を奪うためではなく、力を誇示するための牽制。とはいえ、常人をはるかに凌ぐ巨体と鍛え抜かれた筋肉が生み出す一撃だ。まともに受ければ、致命的な傷は免れない。
腰が引いて避けるだろう――グツヮはそう踏んでいた。
しかし、その読みは大きく裏切られることになる。
「なッ!?」
ケインの選んだ行動は、回避ではなかった。
胸元へ迫る大鉈の刃を、右手の指先で――摘み取って止めたのだ。
膂力に絶対の自信を持つグツヮにとって、その光景は信じがたかった。
あり得ない。自分よりも細身で、しかも年老いた男に止められるなど――しかも、片手で!?
馬鹿げた事実を否定するように、グツヮは全力で大鉈を引き戻そうと力を込める。だが、ケインの指に挟まれた刃は、石にでも封じられたかのように一寸たりとも動かなかった。
「てめぇ! 放しやがれッ!!」
「私は――」
怒号を上げるグツヮをよそに、ケインは静かに口を開いた。
追い詰めたというグツヮの判断は、誤りではない。逃げ場を失った獲物は、すでに捕らえられたも同然だからだ。
しかしそれは、追う者が追われる者よりも確かに優位にある場合に限られる。――今回、その前提は成り立たなかった。
「――嫌われてなどいない。断じて……断じてだ!」
「気にしてんじゃねーか!」
心の底から絞り出すような咆哮と共に、ケインは指先に力を込め、大鉈の刃先をへし折った。
ペルニット町冒険者ギルド〈冒極〉支部を束ねる支部長――それが今のケイン・ニールデンの肩書きである。だが、その本性は元ランク3冒険者にして、かつて〈剛力〉の2つ名を轟かせた猛者だ。第一線を退いて久しいとはいえ、その力の残滓は今も確かに息づいている。
雑魚同然のゴロツキに屈する道理など、ありはしない。
怯んで飛び退ったグツヮへ、ケインの拳が容赦なく迫った。
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