第29話
スティレオが再びディライトの前から姿を消した頃、ケインは赤毛の大猩猩――朱剛を殴り飛ばした軌跡を追っていた。
家屋をなぎ倒し、石壁を砕きながら路地へと消えていった巨体。そのまま放置し、再起でもすれば再び障害となる。ゆえに、生死を確かめる必要があるとケインは判断していた。
破壊に塗れた路面や壁の痕跡が、吹き飛んだ軌跡を克明に刻んでいる。落下地点は、もう目と鼻の先だ。
瓦礫を踏み越え、慎重に歩を進めたそのとき――ケインの表情が驚愕に歪んだ。
そこに横たわっているはずの巨躯はどこにもない。
代わりに瓦礫の中心にいたのは、仮面をかぶった正体不明の女だった。
「や。こんばんは」
「……誰ですか? 赤い魔物はどこに――いや、愚問ですね」
そこに、いるべきはずの巨躯がいない。
代わりに立つ謎の女――トリニティ・バウマン。
導き出される答えは、1つしかなかった。
「魔物を召喚したのは、貴方ですね?」
「正解。もう少しで使用不可になるところだったから、危なかったよ」
「……やり切れてませんでしたか。では、召喚主の貴方を叩くしかないですね」
そう言うと、ケインは仮面の女へと向き直り、戦いの構えをとった。
折れた左腕はだらりと垂れ下がったままだが、それを理由に退くつもりはない。
その好戦的な気配に、トリニティは慌てて両手を突き出し、戦意のないことを必死に示した。
「待ちなよ。僕はやる気は――」
「問答無用!」
ケインが駆け出し、右拳を突き出す。
朱剛との戦いで【イカした革手袋】の機能は失われていた。だが、素の魔力強化だけでも、細身の女を打ち砕くには十分だと判断した。
仮面を剝ぎ取り、正体を暴いてやる。そう息巻いた拳は――しかし届かない。
二人の間に突如として張り巡らされた不可視の壁が、その一撃を阻み、勢いを鈍らせていた。
「――何!?」
理解不能の現象に、ケインは反射的に大きく飛び退いた。
直後、空間を覆っていた不可視の壁が輪郭を帯び、正体を晒す。
赤い皮膚をした巨体――第三の眼を額に宿す避役が姿を現したのだ。
その巨体はトリニティを庇うように立ちはだかり、舌なめずりするかのごとく周囲を舐めるように見渡していた。
「あれ? 思ってたよりだね。もしかして、魔道具壊れちゃってる?」
「貴方は、一体――」
殴り掛かられることもあると踏んだトリニティは、使役する魔獣のうち潜伏に長けた避役を守りに置いていた。
だが、その防壁に弾かれたケインの右直拳は、これまで見せていたものよりも明らかに精彩を欠いている。
「うーん……」
少女の仮面越しに、悩ましげな声が漏れる。
その様子を目にし、ケインの背筋を冷たい汗が伝った。
大猩猩もそうだったが、この避役に宿る魔力も桁違いだ。もし両者を同時に相手取っていれば、自分に勝ち目などなかった。
そして何より、その二体を当然のように従えているトリニティ。
もし他にも同格の魔獣を複数抱えているのなら、その実力は〈冒極〉でいえばランク4級以上に匹敵するだろう。
今の満身創痍の身では、絶対に敵わない。
依然、ここは死地のまま――。
「……やる気はない、か」
先ほどの言葉を思い返し、ケインは拳を下げた。
少しでも情報を引き出すべきだ――。
そう割り切ったケインは、戦意をにじませていた視線を収め、相手の口を開かせるための探求へと切り替えた。
「ま、いっか。アレはメイン機能に関与するものじゃないし」
「スティレオ・ブラウンと共謀していますね。貴方達はどこの所属だ」
「あのねー……やる気はないって言ったけどさ――」
次の瞬間、ケインの全身を押し潰すような重圧が襲った。
皮膚も甲羅も血のように赤く染まった3つ目の巨大亀が、背後から姿を現し、前足でケインを地へと叩き伏せたのだ。
「ぐああ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ッ!」
骨が軋み、全身が悲鳴をあげる。地面に縫いつけられたケインは、ただ苦渋の声を漏らすしかなかった。
「――主導権を握ってるのは僕だからね」
冷徹な声音が土煙の中に響き、トリニティがゆっくりと歩み寄る。
仮面の奥から覗く双眸が、冷酷な視線でケインを射抜いた。
だが、圧し掛かる痛みに苛まれながらも、ケインの目は決して逸らさない。
支部長として、この町の平穏を守る者として――その意志だけは、決して砕けなかった。
「もう一度、聞きますよッ。貴方達は――一体、どこの所属だッ」
圧し掛かる重圧に声を絞り出しながらも、ケインは問いを突きつける。
「……すごい胆力だね」
仮面の奥から、トリニティの声音が愉悦を含んで零れた。
「いいよ。どうせ君はもう助からない。最期くらいは、教えてあげようか」
「――ッ」
冷酷な宣告に、ケインは歯を噛み締めた。
支部長としての矜持を認められながらも、それは同時に命の灯火が尽きかけている証左でもあった。
無念はある。だが、たとえ敵の情けであっても、最期の瞬間まで掴み取らねばならない。
――少しでも、この町を護る手がかりを。
「我ら闇ギルド〈翳哭〉の使い、影で血涙を流す者なり――っていう決め台詞があるんだけど、僕はダサいと思ってるのは内緒ね」
「やはり〈翳哭〉でしたか……この国一番の恥部ですね」
「あははっ、よく言うよ。北の国境線を支えてるのは、僕らなのにさ」
――ギルド連盟国家〈エピック〉。
ギルドによる、ギルドのための国。
正規のギルドが存在する一方で、承認を受けない裏組織――通称“闇ギルド”も数多く存在する。
その中でも〈翳哭〉は国内屈指の規模を誇る闇ギルドであり、北の地に本拠を構えているという噂さえある。
トリニティの言葉は、決して虚言ではなかった。
(だが……これで敵の大本は辿れた)
ケインは奥歯を噛み、告げる。
「貴方達が求めるものは――この場には存在しない」
「ランク4の|ディライト・ノヴァライト《彼》でしょ。そっちはねぇ、僕の愛部下が相手してるから大丈夫。それより支部長さん、ご自身の身を心配した方がいいのでは?」
「……それはそうだ。なら、そろそろ――ッ」
短く吐き捨てると同時に、ケインは右腕に全力の魔力を込めた。
舗装路程度であれば、素の魔力強化でも容易に砕ける。
渾身の拳が振り下ろされ、轟音と共に地面が割れた。
瞬間、路面に穿たれた穴を利用して巨亀の重圧から抜け出す。
身を翻して立ち上がったケインは、すぐさま右手に着けた【イカした革手袋】へ魔力を収束させた。
――魔道具は壊れる。だが、それでもいい。
「……ッ!」
魔道具としての最後の一撃が、巨亀を直撃した。
轟音と共に衝撃が炸裂し、巨体は瓦礫を巻き込みながら後方へ吹き飛ぶ。
圧し掛かっていた障害を退けた刹那、ケインは迷わず身を翻した。
勝利ではない。逃走のための一手。
満身創痍の身体を引きずりながら、ただ生き延びるために駆け出した。
「――お暇させてもらいます」
「それは、無理だよ。君もう――人間としては終わってるから」
トリニティの言葉に不審を覚えた、その直後だった。
右手に、禍々しい熱が走り抜ける。
【イカした革手袋】が、膨張していた。
腫れあがり、皮膚を突き破るように肉が醜悪に盛り上がっていく。
「ぐ……ああっ!」
迸る激痛に、ケインは足をもつれさせ地に崩れ落ちた。
視線を落とした足もまた、皮膚が裂け、赤黒い肉塊が膨張している。
――この兆候は紛れもない。
魔法生物へと変異する直前の、それだった。
「まさか……」
ケインは、膨れ上がる右手に嵌められた【イカした革手袋】を凝視した。
脳裏をよぎるのは、〈鈴々亭〉で爆散した職員、魔法生物と化した次長、そして今、自らの身を蝕む変異。
予兆はすでにあった。〈冒極〉の職員がことごとく魔法生物へと堕ちていった事実――その原因だけが、最後まで掴めずにいたのだ。
しかし今ようやく、点と点が繋がった。
なぜ彼らが次々と魔法生物へと堕ちていったのか――その手段が、はっきりと見えた。
「支給品に……仕掛けを忍ばせていたのか……!」
「気付いても、もう遅いけどね~。支部長さんは抵抗値が高かったから、弱らせるのが僕の仕事ってわけ」
あまりに平然と、トリニティは職員が魔法生物に堕ちた理由を認めた。
廃教会でディライトと矛を交えるより前に、スティレオがギルドへ侵入し、支給品を【互酬匣】の影響下に置いていた――そう考えれば、すべて辻褄が合う。
仲間を喪い、守るべき町が荒らされ、最後に自分までもが同じ末路を辿ろうとしている。
すべては支部長としての自身の落ち度。
そのあまりの醜態に、ケインは腹の底から笑いが込み上げてきた。
「変異し始めたってことは、抵抗値が下が――頭まで変異しちゃった?」
「……あまりの不甲斐なさに嘆いているだけですよ。部下に顔向けができないな」
「大丈夫大丈夫。これだけの素体だよ? 魔法生物になっても十分役立つから」
「――ふざけるな、小娘」
「ッ」
トリニティでさえ息を呑むほどの威厳が、ケインの声から溢れ出た。
変異の進行は止まらない。だというのに、その瞳には敗北の色も、生への懇願も宿っていない。
胸の膨張に押し出され、服の下からロケットペンダントが弾ける。
中にあったのは、若き日の自分と、まだ幼かった娘の笑顔。
――家を飛び出し、今は冒険者をやっていると聞く。
支部長としても、父親としても、未熟な点は多々あった。
部下や家族に支えられながら、どうにか今日まで歩んでこられたのだ。
だが、その部下たちはもういない。
まさか今日が、自らの最期となる日だとは――夢にも思わなかった。
未練はある。悔いもある。
それでも――冒険者としての矜持だけは、決して折れなかった。
敵の嘲笑を、ただ一言で打ち砕く力がそこにあった。
「ディライト君へ、私をあてる気でしょう。そして、貴方たちは勝った気でいる。何かしらの謀略をそこに挟んでいるのでしょうが――」
魔法生物へと変じゆく身体に、もはや猶予は残されていない。
それでもなお、敵の企てが無意味であることを、言葉にして残さねばならなかった。
「――ディライト・ノヴァライトという男を、舐めないでいただきたい。彼はいずれ必ず、ランク5に至る。こんなところで止まるはずがない!」
「……」
「せいぜい、束の間の勝利を楽しむといい。貴方たちは決して――」
支部長として、最後の矜持。
膨張した肉に顔が覆われていっても、ケイン・ニールデンの瞳は終ぞ挑戦の色を失わなかった。
その決死の覚悟に、愉悦を浮かべていたトリニティの笑みは、仮面の下でいつしか冷えきっていた。
「……はぁ~やだやだ。さっさとレオのとこまで届けちゃお」
無数の手を羽に変えた怪鳥が舞い降りる。
そこにスティレオの姿はなく、すでに決戦の地で待っているはずだ。
怪鳥に、目前で魔法生物と成り果てた存在を運ぶよう、トリニティは冷淡に命じた。
これ以上ここに留まれば、己の正体が露見しかねない。
召喚獣を返還すると、トリニティは荒れ果てた路地から姿を消した。
そこに残されたのは、ひび割れたケインの眼鏡――彼が人であった証だけだった。
明日22:30に投稿します!




