第20話
――二十年前、とある町、とある集合住宅の一室。
中途半端に開いたカーテンの隙間から差し込む光が、時間帯を朝だと知らせてくれる。
調理台の下にある竈に薪をくべると、増した熱を均等に届けるために料理鍋を振るった。
芋の焦げた香りが、食欲を唆る。
「母さん! そろそろ出来そうだ」
「…………ん」
少年、と呼ぶには青臭さが薄れつつある頃合い。
今年で齢十七となったスティレオ・ブラウンは、同居者である母へと声を飛ばしつつ、完成した料理を鍋から皿へと移した。
小麦粉と茹でた芋を混ぜて練ったものを、火にかけることで味わいと食感に深みをもたせた”芋練り”という一品だ。
小さい頃から、何度も母に作ってもらった料理であり、今ではスティレオの得意料理となった。材料費があまり掛からない上に、腹に溜まりやすく、費用対効果に優れている。工夫次第では、味の方はなんとかなる。
今日も完璧か、と皿に載せた一品を眺めていると、横手から伸びてきた手が芋練りの一部を掻っ攫っていった。
「ちょっと味薄いわね」
「……意地汚いって、母さん」
芋練りを口内へと入れ、口をモゴモゴと動かしながら話す母――バールブ・ブラウンへとスティレオは呆れた視線を向けた。
料理の出来を指摘してくるバールブは、まるで姑のようであったが、寝間着の上に毛布を一枚羽織った姿に威厳性は感じられない。
だらし無ささえ覚える親の姿に、スティレオは片眉を上げた。
「今日、調子良さそうだな」
「ちょっとね。食べたらまた寝る〜」
欠伸をしながら皿を持っていくバールブに、心配そうなスティレオの声が掛かる。
寝込むことも珍しくなく、普段から体調の優れないバールブであるが、どうやら今日は落ち着いているらしい。ここのところ、数日間床に伏せていたのが嘘だったかのように、座椅子に腰を降ろして芋練りを元気そうに食べている。
バールブの様子に安心していたスティレオだったが、壁に掛かった時計を見て今度は焦りを抱いた。
「やばっ。遅刻するわ」
「忙しない子ねぇ。落ち着いて食べなさい」
「忙しい中、朝食を作ってくれた息子に感謝の一言があってもいいのでは?」
「息子よ、よくやった」
「なんだそれ」
芋練りを咥えながら、出立の準備を進めていたスティレオは、バールブの終始上からの態度に苦笑した。
スティレオの服装は作業着であり、納屋から軒家の建築まで担う職人である親方の元で、仕事に従事している。仕事の主な内容は雑務であり、今朝も親方から呼び出しが掛かっている。
彼には、言いたいことが1つあった。それは給料が限りなく安いということだ。
学を積んでこなかった人生であるから仕方ないとしても、多忙な毎日に少しは弾んでくれてもいいのではないか、とスティレオは思う。
そんな不満が顔に表れていたのだろう、バールブがスティレオの表情を話題に上げた。
「不満ありありって顔に書いてるわね。何、なんかあったの? 若い時からそんな顔してちゃ、将来ハゲるわよ」
「煩いな。……まぁ、賃金がな」
「あら! いつから働けることに文句を言うようになったのかしらこの子は!」
「だって、そうだろ」
「貰えるだけいいじゃない。ありがたいことよ、働かせてくれるって」
「いいように使われてるだけの気がするんだよなぁ」
ああ言えばこう言う、スティレオの強気な態度に、バールブは眉間を揉み解しながら溜め息を吐いた。
働くことができる環境を、当然と思ってもらっては困る。働きたくても働けない者がいるのだから。
「ハァ……ちょっと座んなさいそこに」
「遅刻するって」
「いいから!」
「……分かったよ」
怒気さえ孕んだバールブの声に、スティレオはしぶしぶ従った。
机を挟んで正面に座ったスティレオへと、バールブは思いの丈を語る。
「いい? 働いて給金を貰えることを当たり前と思っちゃダメ。いつかその姿勢は貴方に不幸を招くわ」
「でも、働いてる分はしっかり欲しいってのは、当然だと思うけどな」
「確かに対価として労働力は払ってるわ。でもね、いつだって利益を貪るのは先駆者の特権よ。労働者は、そのおこぼれに預かってるだけに過ぎないわ」
「理不尽だろ、そんなの」
「そう! 世の中は理不尽なの。理不尽を中心に世界が回ってるわ。だから、立ち回りが大事。いつも言ってるでしょ」
バールブの瞳がスティレオの顔を映す。
スティレオの視線もバールブの顔を捉えた。窪んだ目元に、痩せこけた頬。病人然とした様子に目を背けたくなるが、バールブの黙した視線がそれを許さない。
バールブに求められている言葉を、スティレオは口にした。
「”誠実”に生きろ、だろ」
「その通り、仕事も一緒よ。”誠実”に働きなさい。たとえ、どんな理不尽を浴びせられようとも誠実に仕事をこなしなさい。そうすれば、貴方に対する周りの見方も変わってくるし、より良い環境が勝手に形成されていくわ」
「じゃあ、なんで今こんなに苦しいんだよ」
「それは――」
スティレオが指した苦しいというのは、金銭的状況だ。
バールブが床に伏せて働けない今、一家を支える働き手はスティレオしかいない。
いかに食費やその他雑費を抑えているといえど、今の給金額では現状維持が手一杯だった。今月においては、バールブの病状が悪化してからは薬代に回す余裕さえない。
誠実に、というのはバールブの格言であるが、その格言通りに生きているにもかかわらず、何故こうも生活が苦しいのか。
スティレオの訴えに、バールブは自嘲めいた笑いを浮かべた。
「それは、私が失敗したから」
「違う、母さんは――」
続く言葉に詰まるスティレオ。
物心ついたときには、父親なんていなかった。もともと身体の弱かったバールブが、更に身体を酷使して女手1つでここまで育て上げてくれたのだ。
その代償が、今のバールブの状況である。
母と子を捨てた父が悪いのであって、バールブは何1つ非がない。
だが、スティレオは時々考えるのだ。
もし、子供が生まれていなければ、母にはならなかったバールブは、もっと幸せな人生を送れたのではないか、と。
そんな考えを見抜いたのか、いつの間にか隣に座っていたバールブがスティレオの手を両手で包み込んだ。
「違うくないわ。でもね、レオ。貴方がいなかったら、私なんてとっくの昔に折れていたわ。貴方がいたからここまで頑張ってこれたの」
愛称で息子の名を呼び、赤裸々に想いを紡ぐバールブの姿は、正真正銘母親そのものであった。
気恥ずかしそうにするスティレオを他所に、バールブは言葉を続けた。
「だから、貴方には二の轍を踏んでほしくないの」
「……分かったよ」
「ホントに?」
「分かったって! でもな、母さん。次は手を洗ってから触ってな」
「え? ……あ、ごめん」
一度焼いているとはいえ、芋練りの表面には幾ばくかの油が付いている。バールブは、それを素手で触って食べていたのだ。
スティレオが落とした視線の先には、油がべっとりと付いた手の甲があった。
調理場へと移動し、水を溜めた桶にスティレオが手を突っ込んでいると、背後でバールブが咳き込む音が聞こえてきた。
止まることなく次第に酷くなっていく咳嗽に、スティレオが手を拭いて駆け付けるが、バールブは片手でそれを制した。
「――ゴホッ! ダメ……ホントに遅れちゃう。早く行って」
「でも!」
「母さんの夢はレオより先に死なないこと。だから大丈夫! さ、いってらっしゃい。今日も誠実に、よ」
「……いってきます。すぐ帰るから」
支度を終えたスティレオは、後ろ髪を引かれながらも扉を開けて職場へと向かった。
その姿を見送ったバールブは、扉が完全に閉まった途端に咳の我慢を止める。
再び繰り返す咳嗽。
幾ばくかして落ち着いたバールブは、口元を抑えていた手の平を見た。
「……そうね。手を洗わないとね」
べったりと、赤黒く染まった血液が手の平に付着していた。
弱々しく立ち上がったバールブは、調理場へと向かい水の張った桶に手を入れた。
軒屋が連なる通りに、ポツンと一軒家分の空き地があった。
そこには、建材が積み重なり、運搬や掘削するための道具が乱雑に置かれている。作業着を着衣した働き盛りの男性が数人、敷地内で自由気ままに過ごしている。
そんな始業前の建設現場に、息を荒く吐いたスティレオが足を踏み入れた。
玉粒の汗をびっしりと額に浮かばせているが、その表情は安堵に満ちている。
「なん、とか……ハァッ……間に合った!」
ここがスティレオが勤める仕事場であった。
同僚と呼ぶべき存在が数人見えるが、談笑したり地面に座っている様子は、働く姿には決して見えない。
始業開始までには自由にしていい決まりであり、どうやら遅刻は免れたようだ。
焦りから解放されたスティレオが息を落ち着かせていると、先にいた数人の内の一人から怒声が響いた。
他の作業員よりも1回り年齢が高く、顔にビッシリと髭を生やした姿は威厳を感じさせる。
「おい、ブラウン! てめぇ遅刻だぞ!」
「え!? ……でも親方、時間的には間に合ってるんじゃ」
スティレオに親方と呼ばれた男は、ふんッと鼻を鳴らすと、辺りに響くように手を数回鳴らした。
親方へと、休憩していた者たちの視線が集まる。
「ほらほら仕事だ仕事! お前ら何やってる! さっさと動け!」
親方と呼ばれた壮年の男は、作業員たちの雇用主であった。
上司の命令に、男たちは気怠さを押し殺しながら身体を動かし始めた。
その様子を見ていた親方は頷くと、スティレオへと視線を戻して告げる。
「ほらな? 遅刻だ」
「……すみません」
「お前、今日休憩なしな? とりあえず、昨日届いた資材運べ」
親方は背後を親指で示した。その先には、様々な大きさに切り揃えられた木材が積み重ねられていた。
建築資材であるそれらは、一纏めにされているが、円滑な建築のためには、それぞれ適所に運ぶ必要がある。
スティレオのように新規に職場へと加入した者、いわば下っ端と呼べる存在が受け持つ仕事だが、これが中々に重労働なのである。
上司による納得のいかない判定。それに加えて、重すぎる罰。
自ずと、スティレオの眉根が寄っていく。
「お前らチャキチャキと動けよ。愚鈍な奴は一人で十分だぞー」
スティレオの心情を慮ることない発言に、周囲から一笑いが起きた。
去っていく親方の後ろ姿があまりにも腹立たしい。そんな景色に我慢しきれなかったスティレオは、視線を上に向けた。
快晴とは程遠く、見渡す限りの曇天ではあるが、雲の切れ間から幾許かの陽光が顔を覗かせている。
「誠実に、だもんな」
ポツリとこぼした言葉。
スティレオが頭の中で反芻しているのは、出発前に母であるバールブと交わした会話だ。
大きく息を吐いたスティレオは、背負っていた荷物を脇に下ろすと、不満を飲み込んで仕事へと取り組んだ。
幸か不幸か、陽光を呑み込んだ曇天から雨粒が落ちるのに、そう時間は掛からなかった。
正午を回ったころ、建設現場に親方の怒号が響き渡った。
「だぁああッ! クソックソッ! 降りやがって!」
地面全体にシミが広がった頃、ようやく親方は仕事に従事していた手を止めた。
建設とは、緻密で力を必要とした作業の連続だ。濡れた手先では、万が一がある。それに、木製の建材が濡れすぎてしまうと、材料そのものが傷んでしまう。
一日や二日の工期のズレよりも、全体業務に支障が出ることを危惧した親方は、周囲の作業員へと指示を飛ばした。
「今日は終いだ。お前ら、締め作業入れ!」
うーす、と従業員たちから各々返事があがった。
締め作業ということは、一日の勤務が終了ということである。いつもよりも断然早い退勤時間に、従業員たちの声音に喜びの感情が伴っている。
「お前らァ! 竣工が伸びるってことだからな! 次は残業覚悟しとけよ!」
うーす、と先程よりも気落ちした声が周囲からあがった。
それぞれが自身の締め作業に取り組んでいく中、スティレオも建材に防水性のシートを被せていく。
思わぬ終業に、休憩も取れていなかったスティレオが頬を緩めていると、肩を回しながら親方が近付いてきた。
不機嫌そうな表情を顔に貼り付けた親方を見て、スティレオは嫌な予感を抱かずにはいられなかった。
「ブラウンよぉ。最後ちょっと頼むわ。基礎に水溜まるのは敵わん」
スティレオのファミリーネームを口にした親方が指し示したのは、基礎と呼ばれる家屋の土台となる箇所だ。
雨が溜まった状況で床作業を進めてしまうと、その時に生じた湿気が必ず悪影響を及ぼす。
それを防ぐためには、建材同様にシートを掛けて濡れることを防ぐか、数日間の乾燥時間を設けるかしかない。竣工を急いでいる親方としては、後者が選択肢に入る余地はなかった。
だが、スティレオにとっては反論する余地がある指示だ。
「全員でやればすぐ終わるんじゃ――」
「じゃあ頼んだぞ! サボってたかどうかは、明日になったら分かるからな?」
「……了解です」
有無を言わせぬ親方の圧に、スティレオはしぶしぶと従う他なかった。
早朝の件における当てつけに違いないが、反論を垂れて無駄に引き伸ばすと、さらなるしっぺ返しを被ることは目に見えていた。
敷地の端へと物品を取りに行ったスティレオの背を見つめていた親方の元へ、従業員の一人が近付く。
「ちょっとイジめすぎやしませんかね?」
「いいんだよ、これで。ああいう反骨心のある奴は、一度折らねぇとつけあがるからな。折れっぱなしで終わるなら、それまでってことよ」
「はぁ……そんなもんですかね」
「なんだ。文句あんならテメェも一遍折ってやろうか?」
「俺も同じ意見ですよ親方!」
意見を百八十度翻した従業員に、親方は鼻を鳴らすと、手を叩いて周囲へと告げる。
「ほらほら。さっさと帰んぞお前らー」
終業の鐘のごとく響く声を聞き流しながら、スティレオはロール状に巻かれた防水シーツを脇に抱えた。
スティレオだけが仕事を託されたことに釈然としない思いはあるが、それでも普段の終業時間よりは圧倒的に早く終わる。
夜まで働くよりはマシ、と自身に言い聞かせながら、スティレオは基礎となる土台にシーツを被せていった。
明日22:30投稿します!




