第12話
ディライトがケインと別れ、廃教会へ向かっていた頃。ペルニット町の片隅――。
大きな木の下で、一人の少女が枝に実る果実を見上げていた。ひと口かじれば甘汁が溢れるだろうと想像するだけで、思わず唾が滲む。
だが、その身なりは乞食同然。泥に塗れた裸足、色を失ったワンピース。加えて彼女には人族の耳がなく、代わりに頭頂部から獣の耳と尻尾が伸びていた。左耳先端は欠けていたが、音に敏感に震えている。
――獣人族の少女だった。
通行人は珍しげに視線を寄越すか、避けるように目を逸らす。誰もが「近づくべきではない」と思っていた。
だが少女は周囲など意に介さず、瞳を細めて果実を睨みつけると、張り詰めたバネのように地を蹴った。
軽やかに宙を舞い、梢へと迫る――常人なら不可能な跳躍。だが飢えた身体は力を維持できず、あとわずかで果実に届くその瞬間、彼女の全身を“異変”が襲った。
――ぐぅうう〜。
淑女らしさとは真逆の、決して人前で響かせたくない音色が、容赦なく腹の底から奏でられた。
瞬間、少女の身体は動力を失った機械のようにガクリと力を抜き、伸ばした手は虚しく空を切った。
落下の最中、瞳に映るのはなお枝に残る果実。まるで天国の門を目前にして閉ざされたかのような、残酷な落差が胸を満たす。
身なりこそ浮浪の少女であったが――腐っても獣人族。
地面へと四肢をついて着地した身体に、傷1つ見られない。
だが、いかんせん腹を満たすための術がない。
少女は襤褸をまとったワンピースのポケットに手を差し入れ、頼みの綱を探る。
指先に触れたのは――二日前の晩に食べた果実の芯と、道端で拾った錆びだらけの小型ナイフ。
芯は黒く変色し、もはや食べ物の影もない。
ナイフの方も、刃こぼれと錆で役立たず。仮に切れたところで、少女には使い道など思いつかなかった。
――ぐうううぅ!
再び、腹の虫が訴えを上げる。さっきよりも明らかに大音量だ。
身体そのものが抗議しているかのようで、少女は思わず顔をしかめた。
限界が近い。なけなしの体力を浪費しないため、彼女はその場にぺたりとしゃがみ込んだ。
「お腹……空いた」
「お困りのようでございますね」
「……?」
独り言に、意外な返事が返ってきた。
声の方を見やれば、自分と同じくらいの年頃に見える人族の少女が立っていた。
桃色の髪を後ろで束ね、にこやかに笑みを浮かべている。両の手には、革製の大きな鞄。
――なぜ、自分に声をかけてきた?
何も持たぬ自分に、こんな荷物を抱えた子が。
サミアは果実と少女を見比べ、すぐに結論に至った。
ああ、きっとこの子も果実を狙っているのだ。あの鞄には、そのための道具が詰まっているに違いない。
空腹で悲鳴を上げる身体を叱咤し、姿勢を整える。
両手を突き出し、耳と尻尾をピンと立て――ぎこちない威嚇のポーズをとった。
「渡さないよ……!」
「……何か誤解をされているようですね。私はシャルーミア。商いを生業とする者です。ご入用のものがあればと、お声をかけただけでございますよ」
「お金ないよ」
「お代は貴方様のお気持ち次第。零なら零で、結構にございます」
人族の少女――シャルーミアは、自らを商人と名乗り、物を差し出すと申し出てきた。しかも、聞けば無料でいいという。
一見すれば願ってもない話。
だが、サミアは知っている。無料ほど恐ろしいものはないと。
路上で。あるいは廃墟の教会で。
その日暮らししかなかった彼女の前に「無料」を餌に近づく者は少なくなかった。
大抵は卑しい下心を抱え、対価を強いる者たち。
幸い、獣人族の血を引くサミアには、それらを跳ね除けるだけの力があった。
普段であれば、そんな胡散臭い相手など一蹴して追い返していた。
だが今のサミアには、それをするだけの余力がない。飢えを解消する方がよほど切実であった。
同年代に見えることもあり、警戒心はいつの間にか揺らいでいた。
サミアは木に実った果実を指さし、短く願望を口にする。
「アレが欲しい」
「――かしこまりました」
シャルーミアはすぐに視線を向け、サミアの求めるものを理解した。
その木は二階建ての家に匹敵する高さを誇り、天辺に実る果実を摘むのは常人には到底容易なことではなかった。
サミアと果実を見やりながら、シャルーミアは思索する。
いかなる手段があれば、彼女の望みを叶えられるだろうか。
ふと、サミアの足元に錆びついた小型のナイフが目に留まった。
長く外気に晒され、切れ味などとうに失われた代物。鍛冶屋にでも持ち込まねば、刃物としての価値はない。
だが、それはあくまで一般人にとっての話。
武を修めた者の手にかかればどうだろうか。
錆びた刀身であろうと刃は刃。枝を一刀で断つことなど――造作もあるまい。
シャルーミアは革鞄を下ろし、がさごそと中を探りはじめた。
ああでもない、こうでもない――その仕草は、見た目以上に物が詰まっているかのようにサミアには思えた。
「あっ」
小さく声を上げ、鞄から右手を引き抜く。
母指と人差し指に摘まれていたのは、飴玉ほどの大きさを持つ球体。
手のひらに乗せて見せてくるが、サミアの眉は動かなかった。
虹色にきらめくその輝きは、確かに宝玉のように美しい。
だが、サミアにとってはただの“丸くてきれいな物”。
食べられぬなら、今の彼女には一片の価値もない。
これは香ばしくも甘くもない。腹を満たす物ではない――そう嗅覚は告げていた。
「なにコレ」
「【アヨングの魔法石】――持つ者に知識を授けると言われる魔導具です」
魔導具は、かつては魔剣や呪鎧といった戦いのための武具こそがその代表格だった。だが今や、それらは伝承に名を残すのみの遺物に過ぎない。
現代の魔導具は、人々の暮らしを支える良き隣人となった。
火を起こすなら【点火器】。水性化した魔力を封じた小瓶の開閉器を押せば、吹き口から小さな炎がともる。
食材を保存するには、内部を冷気で満たす【冷蔵庫】があれば十分。
遠く離れた者と声を交わせる【通信器】まで出回り、もはや誰もが手にする当たり前の便利品――それが魔導具だった。
けれど町に居場所を持たぬサミアにとっては、それは縁遠いものに過ぎない。
【アヨングの魔法石】もまた、彼女にとってはただの小さく丸い装飾石にしか見えなかった。綺麗ではあるが、腹を満たすこともなく、何の役にも立たない。
興味の欠片も宿さぬ瞳を見て、シャルーミアはひとつ咳払いをし、言葉を添えた。
「念のため申し上げますが――これは食べてはいけませんよ?」
普通ならば言うまでもない注意。だが、今回はそれが悪手となった。
「――ッ!!」
「あっ、ちょっと!」
フリではなかった。シャルーミアにそんなつもりは毛頭ない。
だが、飢えに支配されたサミアの耳には「食べていい」としか響かなかった。
空腹は理性を削り、判断を狂わせる。目の前に差し出された物を前に、獣が待てをできるはずもない。
サミアはシャルーミアの制止を振り切り、【アヨングの魔法石】を奪い取ると、そのまま大きく開けた口へ放り込んだ。
「……うぇっマズ」
「当たり前でございます……。魔力が籠もったものを一度口にしてしまえば、再び取り出すのは困難。私、もう知りません!」
差し出した商品を、意に沿わぬ形で使われる――商人の矜持がそれを許すはずもない。
シャルーミアは鞄を勢いよく閉じ、「お題は結構です!」と吐き捨てるように言い残すと、嵐のようにその場を去っていった。
だが商人とは、何よりも利益を追求する存在のはずだ。
魔導具を失っただけで背を向ける姿は、どこか矛盾している――サミアもそう思った。けれども、追いかけて確かめる余力など、もはや彼女には残っていない。
【アヨングの魔法石】を飲み下した直後から、猛烈な不快感が身体を蹂躙していたのだ。
まず頭痛、次に吐き気。倦怠感が四肢を重くし、熱に浮かされたかと思えば悪寒が肌を走る。
まるで風邪のような症状。しかし、どこか根本が違っている。
それは皮膚の下に潜む変化ではない。昆虫や爬虫類の脱皮よりも深い――魂そのものが書き換えられていくかのような異変。
肉体はその変質に追いつけず、拒絶するかのように苦しみを噴き出していた。
――いや、違う。これは拒絶ではない。
順応だ。魂に刻まれた変質へ、身体が必死に歩調を合わせようとしているのだ。
幼い少女には似つかわしくない、成熟した思考が胸の内を駆け巡る。
やがてひとつの答えを見いだした瞬間、サミアを苛んでいた悪影響は霧のように消え失せた。
次の刹那、サミアは何事もなかったかのようにすっと立ち上がっていた。
「……」
サミアが左手に視線を落とすと、そこには錆びついたナイフが握られていた。
いつ手にしたのか分からない。ただ――握るべくして握ったのだと、直感が告げていた。
役立たずである鉄屑の刃を、彼女は一瞥して悟る。今の自分には、このナイフの使い道が分かる。
柄を握る手を後方へと大きく振りかぶる。姿勢は、抑え込まれたバネのように力を蓄え――次の瞬間、鋭く狙いを定めた猫のような眼差しと共に、ナイフが鞭のように弧を描いた。
放たれた鈍色の軌跡は一直線に枝葉を裂き、果実を枝から解き放つ。
落ちかけた実を、サミアは小さく跳ねて受け止めた。壊さぬよう、宝物でも抱きとめるかのように。
それは偶然などではない。切れ味を失った刃を使いこなし、狙いすました末に得た必然の果実。
皮ごと齧ると、口いっぱいに甘みが広がった。耳がぴんと立ち、尻尾が嬉しげに揺れる。
「……おいし」
二日ぶりのまともな食事に、サミアは満足げに頬を緩める。
獣人族の少女は果実を両手で抱え、喜びを滲ませながら町の雑踏へと紛れ込んでいった。
次話は明日22:30投稿です!