プロローグ
長編初挑戦です、楽しんでいただけたら幸いです!
濃霧の立ち込める山中に、一軒の山小屋があった。
周囲には石像が散乱している。獣、魔物、人影に至るまで、彫刻のような姿で固められ、どれも制作途中で放棄されたかのように不完全だ。
異様な光景は、さながら彫刻家の悪夢のようでもあった。
やがて小屋の扉が軋み、二人の人影が現れた。
一人は女。若すぎず、老いてもいない年頃。冷徹な面差しの奥に、理知の光を帯びた美貌を宿している。背に剣と盾が交差した紋章が縫い込まれた制服を纏っていた。
もう一人は立派な白髭をたくわえた老人。深緑のローブの胸にも同じ紋章が光り、年齢に似合わぬ背筋の伸びと足取りの確かさを誇っていた。
紋章とは、謂わばシンボルマークのようなものだ。彼らは独断でこの場に居合わせているわけではなく、組織の一員として行動していた。
先頭に立った老人が、女を付き従わせて小屋の階段を降りていく。
「いたって普通の泉じゃの」
「周辺被害から推測して、源泉には間違いなく」
霧の向こうに泉が口を開けていた。雨の乏しい季節にも枯れぬ水量を湛え、山下へと続く川の源泉に見えなくもない。しかし、ただの泉であればわざわざ辺境に足を運ぶ必要もない。
老人は近くの草葉を千切り取ると、水面へと近付き投げ入れた。
質量の伴わないそれらは、水面にただ浮かぶだけ――事実は、そう簡単にはいかなかった。
「……石化する泉、のぅ」
老人の低い声が、霧に溶ける。
草葉は水面に触れた瞬間に硬直し、瞬く間に灰色の石片へと変わり果てて沈んでいった。
目の前で繰り広げられた奇妙な現象に、老人は片眉をわずかに吊り上げると、懐から小瓶を取り出す。
全ての生命を石像へと変貌させる“魔の泉”。報告にあった災厄が真実かどうか確かめに来たのだが――どうやら、疑う余地はなさそうだった。
それは先ほど、小屋の床に投げ出されるように転がっていたものだった。保管というより放置と呼ぶほうが近い有様で、割れもせず無事であったのはまさに僥倖にすぎない。
泉の前で、老人が小瓶を光に透かして見入っていると、隣に立つ女が低い声を投げた。
「リストにあがっていた例の……」
「――魔道具じゃの」
魔道具、と口にした老人は、小瓶を再び懐へと仕舞う。
途端に、その面持ちは厳粛さから一転――まるで玩具を与えられた子供のような無邪気さが浮かんだ。
彼は枯れ葉や雑草をむしり取り、次々と泉へと投げ入れていく。
未知を試さずにはいられない――それこそが老人の悪癖であり、本質でもあった。
「……また始まった」と女は顔に手を当て、嘆息する。
腰を落として泉を覗き込む老人を引き戻そうとした、そのときだった。
風が流れたのか、あるいは時の巡りか。
原因は知れぬが、濃霧が次第に薄れ、視界が開けていく。
そこに現れた光景は、あまりに鮮烈だった。
泉に口をつけた野生の獣、翼を広げたまま固まった魔物、そして――両の掌を器に水をすくった人間。
誰もが石像と化し、最期の姿を刻みつけられていた。
この小屋の主は、腕利きの彫刻家であったという。
だが彼の執念が、泉を魔のものへと変質させたのか――真相は闇の中だ。
確かなのはただ一つ。
目の前の惨状は、もはや戯れ半分に眺めてよいものではないということ。
露わになった光景を前に、老人はゆっくりと立ち上がった。
「――被害状況はどうじゃ」
「泉から流れる川は堰き止めましたが……近隣の村が1つ」
女の報告を受け、老人は顎鬚を撫でながら沈思した。
軽い好奇心から足を運んだはずの一件だったが――状況は想像以上に深刻である。
市街ならまだしも、この辺境では川の水をそのまま飲用に用いる村が少なくない。
石化作用を帯びた水が人々の喉を潤した瞬間、その時の流れを止めてしまう――想像に難くない光景だった。
幸い、生き残った者の報せで運河への流入は未然に防げた。
しかし、それだけでは到底収まらぬ。既に周囲の被害は計り知れず、拡大を防ぐには迅速な手立てが不可欠だった。
老人は思索を切り上げ、踵を返す。
女の眼をまっすぐに見据え、低くも力のこもった声で指示を下した。
「村含め周辺地域全体をすぐに封鎖。他に被害がないかすぐに把握せい」
「既に実行中です」
老人の命令は、すでに女の采配の内にあった。
思わぬ先回りに、老人はわずかに目を細める。
「できる女じゃな。では、石化を被った村の者らの治療も――」
「当然、既に実行中です。錬金術師へと依頼し、化解薬を作らせています。後は、泉の調査にお時間を少々いただければ、と」
「……儂、必要なくね?」
幹部に位置する女に比べ、老人は組織のさらに上――頂点に立つ存在だ。
だというのに、的確すぎる采配の前では、司令塔としての立場すら霞んでしまう。
老人は肩を落とし、思わず視線を伏せた。
その沈んだ空気を吹き払うように、女は大げさに両手を広げ、芝居がかった調子で言葉を投げる。
「何を仰います。件の魔道具――その所在をどうするか、そのために長自ら来ていただいたのではないですか」
「そうじゃったか? ……そうじゃったの!」
呼んでもいないのに、組織の頂点たる長がわざわざ現場まで足を運んでいる――それが女の正しい認識だった。
だが、時に上長に対しては方便も必要だ。世渡りとはそういうものだ。
長、と呼ばれた老人は、すっかり威勢を取り戻し、ローブを大仰にはためかせて歩みを進める。
女は小さく息を吐き、一歩遅れてその背を追った。
「どちらへ?」
「東じゃよ。本部へと続く道中に小さな町があったじゃろ。儂が運ぶとしよう、途中までな」
「私が運びます、長の手を煩わせるわけには――途中まで?」
老人の言葉に、女は思わず首を傾げた。
石化の泉を生み出した小瓶――その魔道具を保管するには、本部を置く都市へ持ち帰らねばならない。
本来なら、泉の調査を進めたいのが彼女の本音だった。
だが、組織の総帥たる長に運搬を押しつけるなど言語道断。だからこそ、自分が責任を持って運ぶつもりでいたのだ。
ところが老人の真意は、まるで別だった。
その任を、第三者へ託そうとしていたのである。
「お主、多忙じゃろ? 儂も多忙じゃ。では、誰かに任せるしかあるまい」
「……まさか」
老人が告げようとしている――誰か。
山中から都市までの長い道のり、その途上で頼れる人物などそういない――そう思いながらも、女の脳裏には一人の名が浮かんだ。
これほどの魔道具を狙う輩は必ず現れる。脅威を退け、無事に運びきるには、安心・安全・確実の三拍子を兼ね備えた者でなくてはならない。
そして、条件に最も当てはまる人物を思い出した瞬間、女の顔は渋さに歪む。
心底うんざりした声音で、口を開いた。
「……冒険者きっての問題児ですよ?」
「半端な者よりよかろ。あやつなら、必ずやり遂げる」
冒険者――。
世に散らばる未知を、飽くことなく追い求める者たち。
その探究者の群れの中でも、とりわけ異彩を放つ存在に頼らざるをえない状況。
だが老人にとって、それは不安ではない。
むしろ、半端な者へ託すよりもよほど確実な選択に思えたのだ。
不満を隠そうともしない女を前に、老人は静かに言い放った。
「これは、ギルド長としての命令じゃ。――儂、必要じゃったな?」
老人――現冒険者ギルド長は、片目を細めてにやりと笑った。
その小さな悪戯に、女は深いため息を漏らすと、渋々ながらもその背に従うのだった。