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蛍光灯のリズム

作者: 久遠 睦

第一部:日常の律動


第1章:蛍光灯と色褪せた夢


火曜日の午後、森田千春の意識は、目の前のスプレッドシートのセルと、窓の外の灰色の空との間を漂っていた。彼女のデスクは、サーバーとキーボードの低いハミングだけが響く、広大な灰色のキュービクルの海に浮かぶ小島だった。現代的な日本のオフィス特有の、感情を殺したような白い蛍光灯の光が、すべての影を消し去り、あらゆるニュアンスを奪い去っている。繰り返されるデータ入力作業。数字を追いかける指先とは裏腹に、心は遠くにあった。

(また一日が終わる)

心の中で呟く。28歳。社会人になって6年。入社当時に抱いていた野心の欠片は、日々のルーティンという砂に埋もれて、もうどこにあるのかも分からない。成長したい、何かを成し遂げたいという思いでこの会社に入ったはずなのに、現実は些末な調整業務の繰り返し。頭ではなく、脊髄と体力だけで仕事を回しているような感覚が、もう何年も続いている。

「クォーターライフクライシス」という言葉を、千春は最近雑誌で目にした。20代後半から30代にかけて多くの人が感じるという、キャリア、人間関係、そして人生の目的についての強烈な不安と焦り。まさに自分のことだと思った。漫然と流れて消えていく20代は、気づけば残り2年を切っていた。結婚やキャリアに対する選択に迫られる時期だと記事には書かれていたが、千春には選ぶべき道が見えていなかった。恋愛も、もう何年もご無沙汰だ。仕事にやりがいを感じられないわけではないが、かといって情熱もない。給料が低いわけでもないが、このまま長く働いていけるかと問われれば、首を傾げてしまう。ただ、変化を起こすのが怖い。現状維持をしようとする心が、新しいことを始める恐怖に勝ってしまう。

「森田さん、このデータ、今日の5時までにお願いできる?」

隣の席の同僚の声に、千春ははっと我に返った。「はい、大丈夫です」。当たり障りのない笑顔を返す。このオフィスでは、誰もがそうやって当たり障りのない仮面を被っている。深い繋がりも、心の通う会話もない。ただ業務を遂行するためのコミュニケーションがあるだけだ。

幸せになりたい。強く思うのに、どうすればいいのか分からない。中途半端なキャリアと、安定に傾く心と、消えかけた野心を背負って、今日も満員電車に駆け込む毎日。こんな日々を、いつか笑って思い出せる日が来るのだろうか。千春は深くため息をつき、再びスプレッドシートの数字に目を落とした。蛍光灯の光が、やけに目に染みた。


第2章:闇夜のスタジオ


会社の重いガラスのドアを押し開けると、生ぬるい夜の空気が千春を包んだ。無機質なオフィス街の静寂から逃れるように、彼女は足早に駅へと向かう。電車に揺られ、渋谷の喧騒の中に降り立つと、ようやく息ができるような気がした。目指すのは、雑居ビルの地下にあるダンススタジオだ。

ドアを開けた瞬間、世界は反転する。重低音が床を震わせ、汗と熱気が肌を撫でる。壁一面の鏡には、音楽に身を委ねる人々の真剣な、それでいて喜びに満ちた顔が映っていた。ここは、千春にとって唯一の聖域だった。

社会人になってから始めたダンス。最初は運動不足解消くらいの軽い気持ちだった。しかし、すぐにその魅力の虜になった。仕事やプライベートの悩み、将来への漠然とした不安。ステップを踏み、ターンを決め、音楽と一体になる瞬間、そのすべてを忘れられる。ここでは、会社の肩書も年齢も関係ない。ただ「ダンサー」としての自分がいるだけだ。

レッスン着に着替え、フロアの中央に進む。使い古された木の床の感触が、裸足に心地よい。インストラクターのカウントに合わせて、ストレッチから基礎練習へと移っていく。筋肉が悲鳴を上げ、汗が噴き出す。だが、その身体的な疲労が、精神的な澱を洗い流していくようだった。ダンスは千春にとって、言葉にならない感情を解放する手段であり、自己表現そのものだった。オフィスで押し殺しているフラストレーションや不安が、身体の動きを通して浄化されていく。

鏡の中の自分を見つめる。そこにいるのは、デスクでうなだれていた自分ではない。背筋を伸ばし、瞳に力を宿し、次の動きに集中する一人の表現者だ。この場所があるから、明日もまた、あの蛍光灯の下で戦える。千春は深く息を吸い、音楽の次のビートに身を任せた。


第3章:冒険への召命


月曜の朝礼で、その発表は突然行われた。部長が神妙な面持ちで口を開く。「かねてより検討していた『社内IT環境の刷新プロジェクト』を、本日付で正式に発足する」ざわめきがフロアに広がった。クラウドへの移行やグループウェアの導入を含む、会社の根幹に関わる大規模なプロジェクトだ。プレッシャーも大きいが、成功すれば大きな実績になる。誰がメンバーに選ばれるのか、誰もが固唾を飲んで部長の次の言葉を待っていた。

「プロジェクトリーダーは、鈴木淳平君」順当な人選だった。33歳の鈴木は、冷静沈着で人望も厚い、部署のエースだ。「そして、主要メンバーとして…」部長の視線がフロアをさまよい、ぴたりと千春の上で止まった。「森田千春さん、そして田中翔君にも参加してもらう」

「え…?」思わず声が漏れた。自分が? なぜ? 千春の頭は混乱した。彼女はこれまで、目立たず、波風を立てず、与えられた業務をこなすだけの毎日を送ってきた。こんな重要なプロジェクトに参加するスキルも経験もない。それはまるで、平穏な日常に投げ込まれた「冒険への召命」だった。

隣の席で、一年後輩の田中翔が「よしっ」と小さくガッツポーズをするのが見えた。27歳の彼は、野心とエネルギーに満ち溢れている。このプロジェクトを大きなチャンスと捉えているのがありありと分かった。対照的に、千春の心臓は不安で早鐘を打っていた。

朝礼後、すぐにキックオフミーティングが開かれた。リーダーの鈴木が、落ち着いた声でプロジェクトの概要を説明する。「プレッシャーの大きい仕事になるが、必ず成功させよう。森田さん、君の普段の丁寧な仕事ぶりは皆が知っている。このプロジェクトでもその力を貸してほしい」鈴木の静かだが力強い言葉に、千春は少しだけ不安が和らぐのを感じた。彼は部下を安心させる術を知っている、経験豊富な先輩だった。一方の田中は、目を輝かせながら早速アイデアを口にしていた。「鈴木さん、この部分のアーキテクチャですが、最新の…」その熱意は、千春の不安をさらに掻き立てるようでもあり、同時に、停滞していた自分の心に小さな火を灯すようでもあった。

こうして、千春の単調だった日常は、突如として終わりを告げた。それは恐ろしい挑戦の始まりであり、同時に、灰色の日々からの脱出を予感させる、微かな希望の幕開けでもあった。


第二部:テンポの変化


第4章:コードとコレオグラフィー


千春の生活は、二つの異なるリズムで刻まれ始めた。昼はプロジェクト、夜はダンス。オフィスとスタジオ。コードとコレオグラフィー。一見、相容れない二つの世界は、しかし、不思議な共鳴を始めていた。

プロジェクトは熾烈を極めた。深夜までの残業、予期せぬトラブル、迫りくる納期。だが、コンフォートゾーンから無理やり引きずり出された千春は、自分の中に眠っていた能力に気づき始めていた。部署間の調整、タスクの優先順位付け、潜在的リスクの洗い出し。彼女が発揮したのは、専門知識ではなく、業種や職種が変わっても通用する「ポータブルスキル」だった。困難な課題を一つ乗り越えるたびに、小さな達成感が自己効力感を高めていく。

時を同じくして、ダンススタジオでは年に一度の発表会のアナウンスがあった。今年の演目は、これまでで最も技術的に難しく、表現力を要求されるものだった。インストラクターが示す複雑な振り付けを前に、他の生徒たちが尻込みする中、千春は不思議と冷静だった。

(待って。これって、プロジェクト管理と同じじゃない?)

彼女は気づいた。一つの大きな目標を、達成可能な小さなステップに分け、一つずつクリアしていく。プロジェクト管理で学んだ「タスクの分解」という考え方は、複雑なダンスのルーティンを習得するのに完璧に応用できた。逆に、ダンスで培われた集中力と、一つの動きを完璧にするまで繰り返す粘り強さは、プロジェクトで発生する根気のいるデバッグ作業や資料作成に活かされた。

成功体験は、ポジティブなフィードバックループを生み出した。プロジェクトでの成功がダンスへの自信に繋がり、ダンスでの進歩が仕事への意欲を掻き立てる。彼女はもはや、オフィスで働くダンサーなのではなく、スキルを領域横断的に活用できる、自己実現への道を歩む一人の人間へと変貌しつつあった。「仕事の自分」と「本当の自分」との間にあった壁が、溶け始めていた。


第5章:後輩のアプローチ


金曜の夜。システム移行の最終テストで発生したクリティカルなバグの修正に追われ、オフィスには千春と田中だけが残っていた。時計の針が10時を回った頃、ようやく問題は解決し、二人の間には安堵と疲労が入り混じった沈黙が流れた。

「やりましたね、森田先輩」田中が、少年のように屈託のない笑顔で言った。

「田中君のおかげだよ。ありがとう」千春が微笑み返すと、田中は少しだけ真面目な顔になり、彼女をまっすぐに見つめた。

「先輩、すごいですよね。仕事もそうですけど、ダンスも本気でやってるって聞きました。そういう情熱、かっこいいなって思います」

彼の言葉は、千春の心を射抜いた。ここ数年、誰かにそんな風に褒められた記憶はない。特に、自分の唯一の聖域であるダンスに言及されたことに、胸が高鳴った。

「そんなことないよ…」戸惑いながら否定する千春に、田中は畳みかけた。「いえ、本当です。尊敬します。…あの、もしよかったら、今度、お祝いと打ち上げを兼ねて、飲みに行きませんか?二人で」

その誘いは、あまりにもストレートだった。久しぶりに向けられた明確な好意に、千春の頬が熱くなる。嬉しい。でも、どうしていいか分からない。彼の若さとエネルギーが眩しく、同時に少しだけ怖かった。年下の男性から向けられる、飾り気のない賞賛と好意。それは、千春が忘れていた感情を呼び覚ます、力強いビートだった。


第6章:先輩の序曲


週が明けて、プロジェクトは大きなマイルストーンを達成した。役員へのプレゼンテーションも成功裏に終わり、チームは祝賀ムードに包まれていた。解散の直前、リーダーの鈴木が千春を呼び止めた。「森田さん、少しだけいいかな。今日のデブリーフィングを」

二人きりになった静かな会議室で、鈴木はまず、プレゼンでの千春の貢献を具体的に評価した。「あの場面での君の補足説明は的確だった。プロジェクト全体を俯瞰できている証拠だ。君の戦略的な思考にはいつも助けられているよ」田中のような熱のこもった賛辞ではない。しかし、一つ一つの言葉が千春の仕事ぶりを的確に捉えており、プロフェッショナルとして認められているという充足感を与えてくれた。

一息ついて、鈴木は少しだけ口調を和らげた。「君はプレッシャーに強いな。ダンスのトレーニングが、そういう精神的な強さにも繋がっているのかもしれないね」彼の洞察力に、千春は驚いた。彼はただ仕事を見ているだけではない。その背景にある人間性まで見ようとしている。

「…もし君さえよければ、一度ゆっくり食事でもどうだろうか。今後のキャリアプランについて、何かアドバイスできることもあるかもしれない」その誘いは、仕事の話という体裁をとりながらも、明らかに個人的な響きを持っていた。静かで、少し高級なレストランの情景が目に浮かぶ。彼のやり方は、決して相手を急かさず、心地よい、プレッシャーのない環境を作り出す、大人のそれだった。

千春は、田中の時とは違う種類の緊張を感じていた。これは、より現実的で、より真剣な響きを持つ誘いだ。安定と尊敬。彼が差し出す手は、千春が心のどこかで求めていた安らぎを与えてくれるように思えた。それは、彼女の人生に静かに流れ込む、落ち着いたメロディーのようだった。


第7章:三角関係のテンション


千春の心は、二つの異なる引力の間で揺れ動く惑星のようになった。

田中とのランチは、いつも笑いに満ちていた。音楽や最近流行りの映画の話で盛り上がり、世代的なギャップを感じさせない心地よさがあった。彼と一緒にいると、自分がまだ若く、情熱的でいられるような気がした。彼は千春の「ダンサー」というアイデンティティを肯定し、輝かせてくれる太陽のようだった。

一方、鈴木とのディナーは、静かで思慮深い時間だった。彼は千春の将来の目標について真剣に耳を傾け、自らの経験に基づいた的確なアドバイスをくれた。彼と一緒にいると、自分が成熟し、尊敬されるべき一人の人間であると感じられた。彼は千春の「プロフェッショナル」という未来を照らし、安心感を与えてくれる灯台のようだった。

この状況は、千春がキャリアの初めから抱えていた内面の葛藤が、現実の人間関係として現れたものだった。情熱的で充実した人生への渇望(田中)と、安定した確かな未来への希求(鈴木)。彼らのどちらかを選ぶことは、単に恋愛相手を選ぶことではない。それは、「自分はどんな人間になりたいのか」「どんな未来を選びたいのか」という、自身のアイデンティティに関わる根源的な問いに答えることだった。この三角関係は、千春を自己定義という避けられない舞台へと押し上げる、ドラマのエンジンそのものだった。


第8章:試練の場としての発表会


プロジェクトは無事に完了した。チームは社内で高い評価を受け、千春の貢献も大きく認められた。達成感と同時に、避けていた問題が再び彼女の前に立ちはだかる。田中からも、鈴木からも、プロジェクトの成功を祝う食事の誘いが来た。

どちらかを選ばなければならない。しかし、今の千春にはその決断を下すことができなかった。心が千々に乱れ、思考がまとまらない。

彼女は、二人からの誘いを丁寧に、しかし断固として断った。そして、こう告げた。「ごめんなさい。今は、ダンスの発表会のことで頭がいっぱいで…。それが終わるまで、他のことは考えられないんです」

それは言い訳ではなかった。彼女は、恋愛というコントロール不能な感情の渦から逃れ、自らの意志でコントロールできる世界に没入する必要があった。スタジオはもはや単なる聖域ではない。彼女が新しい自分を鍛え上げるための、試練のクルーシブルへと変わっていた。

心理学で言う「昇華」とは、まさにこのことだった。恋愛の混乱から生まれた膨大な精神的エネルギーを、彼女はダンスという、より高次の、自己を肯定する目標へと注ぎ込むことにしたのだ。振り付けを完璧にマスターするという具体的な目標は、混沌とした感情に秩序を与えてくれる。発表会までの2ヶ月間、彼女は仕事以外のすべての時間を練習に捧げることを決意した。それは逃避ではなく、自分自身を取り戻すための、積極的な戦いだった。


第三部:フィナーレの後のソロ


第9章:センターステージ


発表会の夜。楽屋は、ヘアスプレーと松ヤニの匂い、そしてダンサーたちの熱気で満ちていた。千春は鏡の前で最後のメイクを直し、深く息を吸った。

舞台袖からステージへと歩み出る。客席の闇と、肌を焦がすほどのスポットライトの熱。静寂の中、音楽の最初の音が響き渡る。

千春の身体が動き出す。それはもはや、練習で繰り返した単なる動きの連続ではなかった。彼女のこれまでの人生そのものが、ダンスとして表現されていた。単調な日々のフラストレーション、プロジェクトで得た規律、二人の男性との間で揺れ動いた心の葛藤、そして、それらすべてを乗り越えようとする意志。一つ一つのターン、ジャンプ、フロアへの沈み込みが、彼女の物語を紡いでいく。

彼女は誰のためでもなく、自分自身のために踊っていた。観客も、客席のどこかで見ているであろう田中や鈴木の存在も、意識の外にあった。そこには、音楽と、光と、自分自身の身体だけが存在した。時間の感覚が消え、自我が溶けていく。それは、完全に「今、ここ」に没入するフロー体験であり、魂の解放カタルシスだった。最後のポーズを決めた瞬間、千春は自分が生まれ変わったような感覚に包まれた。


第10章:喝采とその後


一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手がホールに響き渡った。千春は、押し寄せる達成感の波に身を任せた。カーテンコールで仲間たちと肩を組み、深く頭を下げる。自分の力だけで掴み取った、純粋で混じりけのない成功だった。

楽屋に戻ると、ダンス仲間たちが駆け寄ってきて、彼女を抱きしめた。「千春、最高だったよ!」。その言葉が、何よりの報酬だった。

汗を拭い、着替えを済ませてロビーに出ると、そこには花束を持った田中と鈴木が立っていた。二人は少し気まずそうに、しかし、心からの賞賛の表情で千春を迎えた。「森田先輩、本当に素晴らしかったです。感動しました」「森田さん、見事だった。君の新しい一面を見たよ」

彼らの賞賛は、素直に嬉しかった。しかし、千春の心は不思議なほど穏やかだった。発表会をやり遂げたことで得た確固たる自信が、彼女を支えていた。二人の男性が目の前にいるこの状況は、数週間前ならパニックに陥っていただろう。だが今は違う。彼女の成功の瞬間に立ち会った彼らの存在は、避けては通れない問いを、静かに、しかし明確に突きつけていた。「それで、これからどうするんだ?」と。


第11章:新しい振り付け


翌週、千春は行動を起こした。まず田中を、次に鈴木を、それぞれ静かなカフェに呼び出した。

発表会という大きな目標を達成した彼女は、もはや物語の冒頭にいた、自信なさげな女性ではなかった。自己肯定感という、何物にも代えがたい鎧を身につけていた。

田中に対して、彼女は真っ直ぐに感謝を伝えた。「田中君の言葉、本当に嬉しかった。君が私のダンスを『かっこいい』って言ってくれたから、眠っていた自分の一部が目を覚ました気がする。でも、私は今、やっと自分が何をしたいのか、どんな人間になりたいのかを考え始めたばかりなの。だから、誰かと付き合う前に、まず自分の足でしっかり立ちたい」

鈴木に対しても、彼女は誠実に向き合った。「鈴木さんには、仕事の面で本当に助けていただきました。先輩が私の能力を信じてくれたから、私も自分を信じることができた。でも、気づいたんです。私は今まで、安定した、決められた道を歩くことばかり考えてきたって。これからは、もっと予測できない、自分でも知らない自分を探してみたいんです」

彼女の決断は、どちらかを選ぶことではなかった。自分自身を選ぶことだった。彼女は二人を拒絶したのではない。自分自身の自己発見の旅を、何よりも優先することを選んだのだ。他者からの評価という外部の価値基準から、自分自身の内なる声に従うという、内的な価値基準への転換だった。


第12章:開かれたフロア


物語の最後の場面。千春は再びダンススタジオにいた。しかし、そこは決められたレッスンではなく、誰でも自由に練習できるオープン・プラクティスの時間だった。広いフロアに、人の姿はまばらだった。

彼女は、自分が心から愛する曲をかけた。決まった振り付けをなぞるのではない。目を閉じ、音楽に身を委ね、即興で踊り始めた。その動きは、自由で、自信に満ち、探求的だった。彼女は今、この瞬間に、自分自身のために、新しい何かを創造していた。

単調な「ルーティン」から、習熟した「コレオグラフィー」へ、そして創造的な「インプロヴィゼーション(即興)」へ。規律は、今や彼女自身の創造的な衝動に仕えるための道具となった。

鏡に映る自分の姿に、千春は微笑んだ。未来は、誰もいない、開かれたフロアだ。そして彼女は、その上で自分自身の人生を振り付けしていく準備が、ようやくできていた。一歩ずつ、確かめるように。


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