断章 カルミラサイド1
記憶の中で彼にあったのは砂が吹き荒れ、熱波をまとった風が全身に吹き付ける砂漠だった。
私はいろいろな地方を転々としていた。
自分がどんなものなのか、いつ生まれたのか、親は誰なのか知らない。
ましてや名前なんて知る由もなかった。
長い間、さまよい、ありとあらゆるところを放浪してきた。
記憶がなく、気が付いたら歩いていたのだ。
そんな私を苦しめたのは、
———飢えだった。
———渇きだった。
———人間を殺せ、という思考だった。
この飢えを何とかしようと思い、道に生えている草を食べた。
この渇きを何とかしようと思い、水たまりの雨水を飲んだ。
人間には会うことがなかったけど。
だけど汚水のような思考は、私を掻き立てた。
何を摂取しようとも自分の体から飢えと渇きは消えなかった。
そのうち、頭がおかしくなり何回も倒れ、何回も生きることを諦めそうになった。
そんな時だった。
彼が現れた。
何を言っているのか理解できなかった。
意識が朦朧として聞き取ることも理解することもできない状況だった。
彼は、私を抱えどこか知らない場所に連れて行ってくれた。
ああ、殺されるのか。
———これで死ねると思っていた。
生きることを諦めていた私には【死】というものは眩しいものだった。
しかし、結果は違った。
彼は、自分の手を切って血を分けてくれた。
口に血が入るたびに不思議と渇きが消えていった。飢えも同時に消えていった。
あれほど苦しめられた、体の欲求が消えていった。
———が、同時に謎の意識混濁が繰り返された。
自分がどうなっているのかさえ分からない状況になった。
まるで白いキャンバスを真っ黒な絵具で塗りつぶされたような———。
一から私が構築され直されたような感覚さえあった。
けれど———。
汚泥のように汚れた思考が澄み渡る清涼なものへと変貌した。
そこでゆっくりと瞼を開くと———。
目の前に鬼がいた。
絶対的強者。
逆らうことのできない純粋な殺気。
「こんなところで同族に会うとは思ってもみませんでした」
恐怖心が、命の危険を知らせる。
萎縮した口がわななくことなく一切動きを止めていた。
———まるで時が止まったような。
「あなたの『言葉』は封じさせてもらいました。正直なところ、あなたにしゃべられると面倒だったので」
淡々と鬼が語る。
いまがどういった状況なのか。
彼女に抱かれている赤子は何なのか。
体にも劇的な変化が起きていた。
あれだけ悩まされていた飢えと渇きが嘘のように消え、充足感を覚えていたのだ。
記憶にあるのは、あの人からの『恵み』だった。
ああ、あの人は私の救世主だ。
そう思っていると、鬼が問いを投げかけた。
「お前は、これからどうしたい?」
そんなこと決まっている。
私は、あの人とお話がしたい。
いや、違う。
単純にあの人のそばにいたい。
「………、酷なことですがここではしゃべることは禁止です。わかっていると思いますが、あなたが誰かに危害を加えたのであれば———」
さっきまでの恐怖心の正体が分かった。
———この鬼は今でも私を殺そうとしているのだ。
首を縦にふると、さっきまでの恐怖が一気に薄れた。
「ならいいです。………あなたも疲れたでしょう。今日はゆっくり休みなさい。明日、あなたを助けた恩人に話を通してあげます」
そういって、そっと手を瞼にかけてくれた。
さっきまでの殺気が消失し、慈しみを持った手が優しく頭を撫でてくれた。
緊張状態から解放され、弛緩した体は正直なもので、急激な眠気に襲われた。
いつぶりなのか。
こんなにも安心感にあふれた眠りを迎えるのは………。
温かな暗闇に落ちる途中に聞こえた声は———。
「これも運命、ですね。せめて、私とは違う結末を———」
彼の名前は『カイダ トキ』と言うらしい。
どうやらごく短期間の間だけ、彼はここに寝泊まりすることになったようだ。
しかも彼は、私たちが暮らしていけるように、住みながら支援してくれた。
社会性をもつ生物特有なのか、賃金の安定こそが生活の第一目標のようだ。
それだけでなく定期的に血も分けてくれた。
個人的には、左手からの摂取がよかったのだが………。
左手には私がつけたとされている歪な型が付いていた。
自分がこの人に傷を刻み込んだと思うとなぜか心の奥底で湧き上がる黒い炎に支配されている感じがして背中がゾクゾクした。
だが、結果として毎回の血液供給は首から右肩にかけての場所を提供された。
不服ではあった。
が、吸っている間、背中を手で撫でられる感じがとても心地よかった。
なにより、抱かれていて安心した。
そのまま眠りにつきたいと思えるほどに。
彼は、私の子供を何よりも大切にしてくれた。
そのことに、嬉しさを覚えながらも嫉妬心を抱いてしまった。
なぜなら、彼がここにいてくれるのは私の子供がいるからだ。
………私自身のためではない。
そのことが無性に悔しかった。
寂しかった。
私だけを見てほしかった。
だけれど、それは向けてはならない嫉妬の権化。
彼と私を繋ぎとめてくれる楔を切ってしまう欲望の炎。
カルミラ。
私の名前。
私は———。
彼の隣に———。