愛すべき人よ、永遠に……
シリアスな話が書きたくなりました。
それだけです。すみません……。
傾いた太陽が空と大地を赤く染める夕刻、ある一人の男が墓場の前で佇んでいた。
腐りかけた木片を十字に形作り、地面に無造作に刺しただけの簡易な墓。
周囲の墓は皆頑丈な石で造られているにも関わらず、男が立つ場所だけが見劣りしている。それはとても異様な空間だった。
その時、一陣の風が男とその十字架を撫でた。
男が着込む厚手のコートが翻り、今にも倒れそうな十字木が俄かに軋む。
男は手を伸ばす。
その手が木片に触れ、一瞬の躊躇いの後、しっかりとそれを掴む。
風に吹かれた木の葉が男の目前を通り過ぎ、激しく揺られながら墓地の奥へと飛ばされていった。
太陽が沈みかけた地平線。
黄金に染まった麦畑に、風は流れる……。
風に押された穂が重なり合い、カサカサと心地いい音を出した。
やがて風は収まり、木片から手を離した男はコートの乱れを直す。
肩に背負ったライフル銃を担ぎ直し、夕日の赤に染まった髪を撫で付けた。
それはとても無意味な動作……。
特に必要なことでもない、無意識な動作……。
「……会いたかった……」
かすれた小さい言葉が、男の口から告げられる。
それは短くて、とても重い言葉……。
「……生きて…会いたかった……」
男は震えていた。
声も、顔も、腕も、脚も、胴体も……全て震えていた。
寒気を感じたのでない。
今の季節では、彼の服装は寒さに十分凌げた。
どさっ、と男が乾いた土に膝をついた。
その脚は震えている。しばらく立てそうにない。
男は泥と血で染まった顔を歪めた。
途切れ途切れの嗚咽を零し、罪の汚れを悲しみの涙で濡らす。
洗われはしない。
男は多くの人間を殺した。その汚れは償いの証であり、悲しみの涙は当然の報復だからだ。
一度あふれ出した悲哀の連鎖は収まることはなく、男は無様な顔を両手で覆った。その手も震えている。
ちくしょう…ちくしょう…と、男は呻いた。
戻らない過去に絶望する無念と後悔の渦が、男を正常にさせなかった。
「どうして……」
――――――妹は死んだ?
「何故……」
――――――こんなことになった?
「何のために……」
――――――俺は戦ってきたのだ?
全てわかっていた。
だが疑問にしなくてはいられなかった。
認めたら正気でいられそうになかった。
自分が自分でいられる気がしなかった。
全てが壊れると思った。
「…………」
大切な家族が死んだ……。
その紛れもない事実が、男の心を空っぽにしていく……。
笑った妹はもう見れない。頬を膨らませて怒る妹を見ることができない。褒められて照れる妹が見られない。召集令が届いた時、自分に抱きついて泣いた妹はもういない。最後の最後まで、満面の笑顔で自分を送り出した妹は……
――――お帰りっ! お兄ちゃん!
はっ、となって男は顔を上げた。
周囲を素早く伺う。
だがあるのは、無数に点在する墓石だけ……。生ける者は自分だけだった……。
「もう……いないんだ……」
男は脱力したように俯いた。
出し切った涙はもう流れない。心もすでに枯れていた。
結局残ったのは、幻想のような思い出。儚い記憶だけ……。
何もかも、どうでも良かった。
帰って来た故郷に、迎えてくれる妹はいない。
男は銃を手に取った。
その銃口をこめかみに当てる。
自分が死ねばいい……。
それで、全てが終わる。
怒りも悲しみも苦しみも絶望も、全部なくなる。縛るものは何もかもなくなるのだ。
「“向こう”で、会えるといいな……」
男が小さな墓に呼びかける。
しかし、その答えが返ってくることはない。
自分を「お兄ちゃん」と呼ぶ人懐っこい妹は、土の下に埋まっている。
いや、それさえも定かではない。何故ならこの墓は自分が作ったものではないのだから……。
再び風が吹きつけた。
男は引き金に指を当てる。
誰かを殺め続けた凶器は今、自分の意志で自分自身を殺さんとしている。
男は目を閉じた。
頭に妹との思い出が浮かびあがる。
それは……召集前夜の出来事。
(ねぇ、お兄ちゃん…もう寝た?)
―――狭い寝床。一つの寝台で、妹が男に語りかける―――
(いいや。まだ起きてるぞ。…眠れないのか?)
(うん……。明日、お兄ちゃん兵隊さんになるんでしょ? やっぱり…戦いにいくんだよね?)
―――あのときの妹は、とても震えていた。僅かに触れ合った身体越しでもわかるぐらいに、激しく―――
(そうだな……。兵士として召集されるんだから、そうなるか……)
―――自分は他人事のように話していた。妹を心配させないようにと、その事だけが気がかりで―――
(死なないよねっ?)
―――突然こちらを寝返りを打った妹が、潤んだ目で男を見つめる―――
―――そのとき、男はその一言にとても大きな愛情を感じた。それはとても言葉にできないほどに―――
―――男は心配する少女に微笑んだ。悲しませないように、優しく―――
(死なないよ。俺は…絶対に……)
(……本当?)
(ああ。約束だ)
(うんっ! 約束だよっ)
そしてその約束は守られた。
妹の死という最悪の形で……。
風が止む。
それを合図に、男は引き金を……
――――――行ってらっしゃい。お兄ちゃん!
――――――ああ。行ってきます。
――――カチッ
鉛弾は、とっくに尽きている……。
「約束……してたよな?」
男は銃を取り落とす。
中身はない。全て撃ちつくしていた。
死ねるわけがなかった。
自分は、最愛の妹と約束したではないか。
――――絶対に死なないと。
たとえそれがどんな形であれ、約束を違えることを男にはできなかった。
そして今、自分は約束を破ろうとした。
全部投げ出して、死のうとした。
「……ごめん…本当に、ごめんな……」
枯れ切ったと思っていた涙が、再び頬を伝った。
雫となって地に落ち、土を僅かに湿らせる。
男は木片の十字架を抱きしめた。
端から見れば、それはとても無意味なことだった。だが男にとってそうせずにはいられなかった。
嗚咽が起こる。
声も、顔も、腕も、脚も、胴体も…全てが再び震えだす。
だが、男にとってそれにはとても意味があった。
まだ身体の感覚がある。自分は生きている。死んではいない……。
「ううっ…くっ……うああああああぁぁぁああ………!」
――――――俺はまだ、死んでなんかいない!――――――
男は泣いた。
悲しみを洗い流すように、泣きはらした。
それに意味なんてない。
ただ悲しいから泣く。無意識な動作……。
空にはすでに闇が迫っていた。
太陽の輪郭は、伺えない。
また夜が来る。だが明日も来る。
自分にはすべきことがたくさんあった。
だから、自分は生きていかなくてはならない。妹の分まで、精一杯に……。
「明日……また来るよ」
十字架に語りかける。
その顔には悲哀が浮かんでいたが、絶望はなかった。
何故なら男は、生きる意味を見つけたのだから……。
男は懐を探った。
その中から取り出したのは、一つの小さな人形。
妹のためにと、土産として買ってきたものである。
男は人形を、墓前に置く。
こんな形で渡す羽目になるとは思っていなかったと、男は自嘲し、そして少し泣いた。
男は立ち上がり、銃を背負い直した。
妹の墓に小さく黙祷すると、やがて意を決して背を向け歩き出す。
――――――まずは、墓を新しくしないとな――――――
忙しくなるこれからに想いを寄せ、男は進む。
沈む夕日を背を向ける後ろ姿に、もう迷いはなかった。
――――――お帰りっ! お兄ちゃん!
――――――ああ。ただいま……。
愛する家族は、今も胸の中に……これからも…ずっと……。
はじめましてやそうでない方もこんにちは。
どうも、焔場秀です。
何か物凄くらしくない短編を書いてしまいました。
内容はいかがでしたか。自分は中盤あたりから泣きそうになるのを堪えて歯を食いしばっていたんで顎がいたくなりました。
この話は兄と妹の切ない家族愛になっております。
こんな駄文でも感動してくれた読者様がいてくれたのなら、ぜひぜひ、ご感想の方お願いします。いろいろ分析しますんで……(笑