あの日の桃
きっとあの桃以上においしい桃には出会えない。
思い出の中で、何度も思い出すたびに、増々と甘く、輝くのだ。
あの日の桃を。
そんな光景を私は見たことがなかった。
まるで旬のリンゴのように、うずたかく積まれた桃。
スーパーの、青果売り場の一番目立つところに、
旬の果物のひのき舞台に、
見たこともないような美しい桃達がいた。
ソフトボールのように大きく、傷の一つも無いその姿は、
子供のように手塩にかけて育てられたと物語っていた。
どうです?見てこの美しい肌を。
今年も大事に大事に育てられ、真綿でくるむように扱われ、
はるばるとこの、九州までやってきました。
その蜜は甘く滴って、柔らかな歯ごたえは誰からも愛されてきました。
いつもは手土産になったり、お見舞いの品になったり、特別な日のデザートになったり、
庶民にとってはちょっぴり贅沢な、高嶺の花の私なのです。
でも今年は特別。
見て、今年は私、100円で売られてる。
今年ばかりは、産地が福島県の私は、100円なのです。
ショッピングカートを押す手は握ったままで、止まった足は動かない。
桃から目が離せない。桃の前から離れられない。
子供の喜ぶ顔が浮かぶ。
『おいしい!おいしい!また買ってね!』
『もも大好き!このももおいしいね!』
だって絶対おいしい。見た目がもうおいしい。
想像の中であふれる果汁は甘々と舌に絡みつき、
鼻から抜ける香りは酔うほどに匂い立つ。
おいしいことは間違いない。間違いないことを疑う余地もない。
こんなチャンスは2度と無いだろう。
一切れ、二切れでは無い。大きな一玉にかぶりつく。一人一玉でも、二玉でも、
家族みんなが、お腹いっぱい桃を堪能する。
子供は出されたものを疑いなく食べる。
手抜きの手料理でも、冷凍食品でも、値引きシールの付いた弁当でも、
私が選び、提供する食べ物たちが彼らをつくる。
国が保証している。業界が安全だという。
ただちに影響は無いという。問題は無いという。
遠く離れた九州の地で、空気と水と食べ物と、怯えることなく暮らしているのに、
一体何を惑うのか。
何を信じ、何を疑い、何に目を向け、耳を傾けるのか。
一つ一つの情報に、疑心暗鬼が止まらない。取捨選択の基準がない。
ぐらぐらと頭と心が揺れ動く。
誰のため?何のため?
それは正解?
これは不正解?
桃を手に取るあの人と、動かず見つめるだけの自分。
このモモを仕入れたスーパーの人は何を思うだろう。
100円の値付けをした人は、何を思うだろう。
青果市場の人は、
トラックの長距離運転手は、
箱詰めした人は、
収穫した人は、
桃を育てた人は、
いつものように花咲き、実った桃は。
この桃は。
あの桃は、
あの桃を、
あの日の桃を、
何年も経ち、何十年も経ち、
今や桃はまた高嶺の花へと返り咲いた。
ちょっと勇気を出して、贅沢品に手を出してみる。
種をこっそり口に含む。やはり美味しい。
一切れ、二切れを
美しいさらに盛り付け家族へと差し出す。
喜ぶ顔は、あの日の想像通りだろうか。
いや、きっとあの桃は
今日の物より、明日の物より、もっとずっと甘かった。
美しく光るあの桃は、
あの日の桃は
あの年の桃は
最後までお読みくださりありがとうございます。