第陸章 第二幕 1P
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『Chanter』が襲撃された翌朝。ランディは自室で目が覚めた。
ゆっくりと体をベッドから起こし、自室をぼーっと見渡す。蝋燭だけが置いてあるどこにでもあるような机と備え付けの椅子、持って来た一冊しか本が入っていない古びた本棚。飾り気の無いクローゼット、直ぐ温かくなり、寝ることに苦労しない柔らかなベッド。
部屋にあるのはこれだけ。まだ空白の多い部屋。大分、日が昇っており、窓から入る日光で朝と昼の間、中途半端な時間帯だと言うのが分かる。ランディが自分の額に手を当て、これまでの出来事を整理する。昨晩は宛てもなく、ひたすら町を徘徊し続けて『Pissenlit』には遅くに帰って来た。ノアと別れた後、何をするでもなく、ただただ歩き続けた以外、ランディは覚えていない。
今は彷徨って歩いた疲れとベッドに入っても寝付けなかった所為で寝不足、目の下にはクマがあり、手を見れば少し震えている。一つずつ、一つずつ。恐る恐る、自身の記憶を辿るランディ。
「うぐっ!」
シーン毎に一枚絵のような記憶が頭の中で浮かんでは消えて行く。そしてノアや会議室の出来事まで思い出した瞬間、ランディはいきなり強烈な吐き気を覚えた。急いで立ち上がると自室からふらふらと出て一階の小さなトイレへと向かう。
足元が覚束ないながら一段、一段落ちるように何とか階段を下り、扉を勢い良く開けて中へ入る。トイレの石壁に手を突き、一瞬の間が空いた後、身体を震わせて不快な音を出しながら吐き始める。昨日は朝以外、何も食べていないと言うのに出る物があった。苦しさで涙目になり、鼻水を垂らし、胃の中が空っぽになっても吐き気は収まらず、胃液も吐き続ける。
暫くの間、トイレに入り浸り、嘔吐感が収まったのは胃酸で喉が焼け、全身に倦怠感が広がった頃だった。粗方、出す物を出したランディがその足でよろよろと居間へと向かう。身体は慣れない動きで強張り、歩くのもやっとだ。壁伝いに居間と入ってみれば、居間にはレザンがいた。椅子に座っているレザンは着替えおり、机の上に物を広げて出掛ける準備をしている。
「おはよう、ランディ」
手元に視線を向けながらレザンは変わりなく、そっけない様子でランディへ声を掛けて来た。
「あっ、おはようございます。レザンさん」
ランディは努めて普通の様子を装い、レザンに挨拶を返す。
「えっと、済みません。ご飯まだですよね?」
気まずい沈黙の後、扉付近で立ったままのランディは無理やり話題を投げ掛けた。
「いいや、もう食べた。だから気にしなくて良い」
「あっ、すみません!」
「いいや、誰しも出来ない時はあるのだから気にするな」
まだ手元に鷲のような鋭い目を向けながらレザンは気にするなとランディを宥める。話をしながらも用意をしていたレザンだが、ひと段落ついてようやく此処で顔を上げる。顔を上げたレザンはランディの様子に目を止めた。レザンは年相応の皺が多い眉間に皺を更に寄せる。立ち上がってボロボロなのをひた隠しにするランディの前まで来ると頭に手を置く。
「……それよりも体調の方はどうだ? 昨日からどうにも様子が可笑しいと思っていたが」
「だっ、大丈夫です!」
顔を覗き込まれ、ランディは緊張しつつも胃液で荒れた喉から掠れた声を絞りだした。
「―――― くれぐれも無理はしないように」
明らかに体調を崩しているのが見え見えだがどうせ言うことを聞かないのは分かっているので顔をしかめたレザンは言いたいことをぐっと飲み込み、一言だけランディに注意をする。
「はい。そう言えばレザンさんは何処へお出掛けですか?」
「ああ、昨日の続きだ……」
「そうですか、なら俺も!」
「駄目だ」とレザンは強く睨みを聞かせながら言う。
「うぅ―――― はい」
気をされたランディはまるで子供のように小さくなった。
「見張りに関してはブランと相談して外させて貰った。まだ町に慣れていないお前が居ても仕方がないからな。それと勿論、今日は店を開けない」
レザンは会議の参加を止めた理由を言わず、話を先に進める。
「はい……」とランディは肩を落とし、返事をする。
「朝食はそこにあるから食べなさい、そしてメモの指示に必ず従うこと」
「ええっ?」
「では行って来る」
レザンはうろたえるランディを残し、とっとと出て行ってしまった。レザンが出て行った後、ランディは水差しの水で一口目は濯ぎ、ゆっくりと飲み始める。程良い冷たさの水はランディの身体の隅々までじんわりと沁み渡り、力をくれた。周りを見る余裕が出来たランディは不意に辺りを見てみるとテーブルの上に布が掛けられた何かがある。
ランディが布を捲ってみると布の下にあったのは器に入った少し温かみが残るオートミールと木の匙、逆さに置いてある空のコップ、そして『食べなさい』と書いてある小さな日焼けした紙のメモが。どうやら、レザンはランディの為に体調を考えた朝食を用意してくれたらしい。ランディは貴重な物を扱うようにメモをゆっくりと手に取る。自分の傷口に触れるようなことは何も聞かず、何も言わないレザンの心遣いはランディにとって有難いことだった。
「本当は俺が朝食、用意しないといけないのに」
同時に心苦しくもあった。
何も恩を返す宛てが見当もつかないのに次から次へと優しさを無償で与えてくれる。今の自分が出来ることとはとランディは考えた。でも残念ながら考えても思いつかない。
「うくっ!」
仕方なく、ランディが椅子に座ると無我夢中でオートミールを頬張る。
少しでも体力は蓄えておくべきだとランディは身体で覚えている。
「うっ……はあ、はあ、はあ」
吐き気がまた込み上げて来たがぐっと飲み込み、ひたすらかき込む。どろどろの燕麦は栄養価が高い、食べ易いとは言えないも一番の病人食だ。朝に時々、食べるが最近はパンの方が多い。しかし、小さな頃は親の強制でよく幼馴染と食べたことを思い出すランディ。小さな頃はオートミールがまずくて仕方がなかったが、今はそれがとても懐かしい。幼馴染みが黙々と食べる一方でランディだけがパンを強請ったり、蜂蜜が欲しいと言ったりしたが、誰も甘やかしてはくれなかった。
「ふふふっ……」
唐突にランディが含み笑いを漏らす。今を思えば、とても正しいことだったのが分かる。甘やかされただけで育ったのならば経験しえないようなことをランディは今までの『道中』で幾つも出会った。出会ったものは良い物も多かったが後味の悪いだけで何もないようなことも同じくらい。楽しいことや感動したことも泣きたくなるほど辛いことや心が裂けそうなほど悲しいこと。
兎に角にも色々だ。全ての事象から逃げず、ひたすら立ち向かい、耐え忍ぶことは人生に味を齎す。しかし、その辛さがあったからこそ、先にあった物の輝きは一層、増した。だからランディは両親や他の大人には凄く感謝をしている。多分、ランディが何時か誰かと一緒になり、対の住処を得て子供を育てる日が来るとしたならば同じことをするだろう。
こうして一時の間、優しさが溢れる幼少期の思い出に浸り、ちょっとだけ元気が出た。オートミールを食べ終わるとランディは流し台へ行き、器を樽の水でさっと流す。
片付けが終わり、ランディが椅子に戻るとコップを片づけるのを忘れていたことに気付いた。
「よっと―――― あれ? 何だろう、この紙」
ランディがコップを片づけようと持ち上げて見ると下には更にもう一枚、メモがあった。
「何々? 『追伸。戸棚の上から二番目にブドウ酒が幾つかある。どれでも良いから一本、外で開けること。開けるまでは此処に帰って来ないこと。つまみが欲しいなら食物庫に行ってチーズでも何でも持って行きなさい』……何だ、これ?」




